いらっしゃいませ! 調律の依頼ですか? それともピアノをお探しですか?
大いなる闇が去ってしばらくしてから、シンフォリア王国はようやく落ち着きを取り戻していた。
そうして、大神殿にも日常が戻ってきたころ、聖女である御琴ちゃんが元の世界に帰ることを決意した。
「私は元の世界に戻る。戻って、もっと経験を積んでピアニストになるの。テクニックだけじゃなくて、曲に込められた想いをちゃんと表現できるピアニストにね」
そう言った彼女は、この世界に来たときよりもすこし大人びて見えた。
彼女なりにいろいろと思うところがあったのかもしれない。
「それに! ルートヴィヒ様よりももっとかっこよくて優しい彼氏を作るんだから~!」
前言撤回。御琴ちゃんは御琴ちゃんだわ。
それでも、どこかすっきりとした表情なのは演奏家として何か得るものがあったからなんだろう。
「準備ができました」
異世界への入り口を作った神官たちがそういうと、光の柱が天高く伸びるのが見えた。この光の柱の中に入れば、元の世界に帰ることができるんだろう。
「あー、その……アマネ……」
「何?」
妙に遠慮がちにルートヴィヒが声をかけてきて、私は小首を傾げながら彼を見上げた。
「その……共に生きてほしいとお願いしておきながら言うのもなんなのだが……、元の世界に戻らなくていいのか?」
「ああ、そのこと?」
私はにっこりと笑った。
この世界から元の世界に戻れるチャンスは、聖女である御琴ちゃんが元の世界に戻る時だけ。
だから、このタイミングを逃せば、もう一生元の世界に戻ることはできない。
「私、ルートヴィヒと一緒にこれから先も追い求めたい音があるから。だから、帰らないわよ」
私の返事にルートヴィヒは驚いたような顔をしたけれど、すぐに破顔して私を抱きしめた。
「ありがとうアマネ」
「うん」
私もしっかりとルートヴィヒを抱きしめ返して。
「ちょっと、私の前でいちゃつくのやめてもらえます?」
イラついた感じの御琴ちゃんの声が聞こえて、私はあわててルートヴィヒの体を押し返した。
「ご、ごめん」
「ふんだ。天響さん! あなたもせいぜいルートヴィヒ様に捨てられないように努力してよね!」
「え? あ……うん」
御琴ちゃんの勢いに押されて私が頷くと、御琴ちゃんは満足そうに頷いた。
「じゃあね!」
笑って手を振りながら御琴ちゃんは光の柱の中に飛び込んだ。
その瞬間、光の柱がまばゆく輝き辺り一帯を真っ白に染め上げて。あまりの眩しさに私はとっさに目を閉じた。
やがて、光が収まったのを瞼越しに感じて、そっと目を開くとそこにはもう御琴ちゃんの姿はなかった。
「最初から最後まで、マイペースな聖女だったな……」
呆れたように頭を掻きながらルートヴィヒがぼやいた。
確かにそうだったな、と思いながらも私は御琴ちゃんが嫌いではなかったと気づく。
ただ単に、彼女はまだまだ幼かっただけのこと。
これからもっと酸いも甘いもいろいろ経験したら、きっと彼女はもっと素敵なピアニストになるんだろう。
そう思ったら私もなんだか嬉しくなった。
今日は、待ちに待った私の工房がオープンする日。
王都の少し外れにこぢんまりとした家を購入して、私はそこで調律師としての一歩を歩みだすことにした。
マイスターなんだからもっと立派な工房にすべきだと周りの人たちには言われたけど、そのあたりは師匠に似たのか、立派な工房に興味はなかった。
大神殿にある神器シュタインウェイの調律はもちろん引き受けるけど、それよりも王都の人たちの生活に根差したピアノたちの調律もやって行きたいって思ったから、こういうこぢんまりとした店構えの方がいいと思ったの。
「アマネ」
「あ! いらっしゃいルートヴィヒ!」
店の前に立って開店準備をしていると、聞きなれた声がして振り返る。そこにはルートヴィヒが笑顔で立っていた。
その手には色とりどりの花が寄せられた花束があった。
「開店おめでとう」
「ありがとう」
ルートヴィヒが差し出してきた花束を受け取ると、ふわりといい香りがした。
「開店祝いだ」
「うれしい! あ、ちょうどよかった、ルートヴィヒちょっと中を見てくれる?」
開店準備をほぼ終えていた私は、ルートヴィヒに店に入ってもらうように促す。
店の中には販売するためのアップライトピアノたちが何台か置かれていた。
「なかなかいい感じの工房になっているじゃないか」
「うふふ。いろいろと頑張ったわよ~」
そう、私は調律だけじゃなくていらなくなったピアノを買い取って、それを修理してから販売する買取販売業もやってみることにしたの。
グランドピアノほどではなくても、アップライトピアノも十分高級品の枠に入る。でも、中古品としてもっとリーズナブルに販売できれば、魔力を持たない一般市民の中でもピアノをもっと親しんでもらえるんじゃないかって、そう考えたから。
まずは宿屋や酒場にピアノを普及させることを目標にしている。
お酒が入ったら、ピアノにあわせて歌うと楽しいでしょ?
「やはり、アマネはすごいな」
ルートヴィヒが私の頭を撫でながらそう言って笑った。
「そんな……」
そんなんじゃないよ、って言おうとしたらルートヴィヒが顔を近づけてきたので、思わず私は目を閉じた。
閉じた瞼の向こうに気配を感じた後で唇が重なる感触があって。
もう何度もキスしてるはずなのに、いまだにドキドキしてしまう。
そっと唇が離れた後、目を開けると優しいまなざしのルートヴィヒと目が合って、私はなんだか恥ずかしくなって思わず視線を逸らした。
そんな私を見たルートヴィヒは、再びクスクスと笑った。
「な、なによぉ……」
「いや。俺の恋人はかわいいな、と思って」
ルートヴィヒのストレートな言葉に私は何も言い返せなくてただ口をパクパクとさせた。そんな私を見たルートヴィヒはまた笑っている。もう!
「そ……そうだ! せっかくだからピアノを弾いてみてよ」
私は恥ずかしさを紛らわせるようにルートヴィヒにそう言った。
「ああ」
ルートヴィヒが頷いてアップライトピアノの前に座る。そして鍵盤にそっと触れると、ピアノはそれに応えて音を響かせた。
「うん、いい感じね」
さすが大聖楽師、と言ったところだろう。シンフォリア王国に一人しかいない大聖楽師にこんなところで演奏させるなんて、って言われるかもしれないけど、そこらへんは恋人特権ってことで。
「そういえば、今日こそは俺の家族に会いに行ってもらうからな?」
「う~ん……」
ルートヴィヒの言葉に私は思わず眉根を寄せて唸ってしまった。
そう、ルートヴィヒと正式にお付き合いするようになってから、何かにつけて彼は私のことを家族に紹介しようとしてくる。
「そんなに気負わなくていいから」
いやいやいや、公爵家の人たちに会いに行くのに、気負わなくていいとか無理に決まってるから。
それに、ついこの間までは家族間で確執があったわけだし。
「大丈夫。俺がついてるから」
いやいや、ルートヴィヒが一緒にいるから気負うんだってば! 私は思わず頭を抱えてうずくまった。
ただ、ルートヴィヒから感じる雰囲気だと、以前よりはお母さんとお兄さんに対するわだかまりが薄れているようだった。理由は教えてくれないけれど、私を会わせたいって思うくらいなんだから、ちょっとずつ関係は改善しているんだろう。
「わかったわよ……」
不承不承の体でそう答えると、ルートヴィヒは満足げに頷いた。
「よし、ではさっそく行くか」
ルートヴィヒが私の手を引いて歩き出す。
「え、今から?」
「もちろん」
いや、今日から工房をオープンするんだし、何なら開店時間はもうすぐくるし!
「店のことはあのくそじじいに任せとけばいいから!」
そうそう。なんと師匠もラウルゴから王都に移動して、私の工房のお手伝いをしてくれることになったの。
師匠曰く、いくら独立したからと言ってまだまだひよっこだし、今まで面倒を見てやった分爺さんを養ってくれ、だって。
ふふっ、口ではなんだかんだ言っても、師匠って私に甘いよね?
「だーめっ! ここは私の工房なんだから、初日から私がいなくなるわけにはいかないのっ」
私はルートヴィヒの手を振り払うと、べーっと舌を出して見せた。
カランコロン。
そこにドアベルの柔らかな音が響いて。
「いらっしゃいませ! 調律の依頼ですか? それともピアノをお探しですか?」
私は元気いっぱいあいさつした。
そののち、異世界から来た調律師マイスター・アマネは、それまで魔力を持つ者だけが奏でていた楽器を、魔力を持たない一般市民にまで普及させた功績をたたえられた。
そして、大聖楽師ルートヴィヒ・バルテマイとマイスター・アマネの名コンビは、二人の師を越える名声を得ることとなる。
けれども、二人はそんなものに興味はなく、また満足することもなかった。
2人が追い求めるものはただ一つ。終わりのない、だが完成された音の追求。
ただひたすらにそれを追い求める真摯な二人の姿は、のちの聖楽師や調律師たちに大きな影響を与えることとなる。
その一方で、元の世界に帰った聖女は音大入学を経て、海外のコンクールで入賞を果たし、華々しくプロピアニストとしてデビューした。
しかし、その後の彼女の人生の中で最も脚光を浴びたのは、なんの気まぐれか突然執筆した『異世界で聖女じゃなくて調律師になったら、超イケメンに愛されました』というライトノベルが大ヒットしたことだった。
これにてアマネとルートヴィヒのお話は完結です!
ここまでお読みいただいてありがとうございました。
カットしたR18シーンは気が向けば書くかもしれないし書かないかもしれない……。




