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アマネ、ありがとう






 私の耳は微かにだけど、ルートヴィヒの音を取り戻した。


 でもそれ以上に、私の理想の音が彼の理想の音であって、何もかもすべてルートヴィヒにすり合わせるんじゃなくて、私の思いと交じり合わせた音にすればいいんだって。


 そう気づいたらもう何も怖くなくなった。


 ルートヴィヒに神聖曲を弾いてもらいながら、整音して。時には楽想的な話もして。


 そうやって二人で神聖曲に向かい合った。


「私思うの。この曲って、もっと大きいスケールで作られているんじゃないかって」


「というと?」


「うーんと……今までのルートヴィヒの弾いているイメージだと、光で闇を祓うイメージだったと思うの」


「ああ。まぁそうだな」


 ルートヴィヒは頷くと、続きを促すように私の目を覗きこんだ。


「でも、これって闇を祓うだけじゃなくて、闇をもすべて包み込んで抱きしめてしまうような、そんな曲じゃないかって」


 私がそう続けると、ルートヴィヒは少し考え込んでから、頷いた。


「そうなのかもしれない。拒み続けるだけじゃなくて、包み込んで抱きしめる……」


 ルートヴィヒはそう言うと、再びピアノを弾き始めた。


 それは、今までとは全く違った優しい音。


 ホロヴィートさんがルートヴィヒの成長のために厳しい言葉を投げかけた時のような、師匠が私をここに送り出すために力づけてくれた時のような、そんな大きな愛を感じる。


 今まで聴いたこともないような、慈愛に満ちた旋律があたりを包んで。


 不安も恐怖もすーっと天に吸い込まれていくような、そんな気持ちよさに浸りながら私は確信した。


 ああ、この音がきっと、これがこの曲の本来の姿なんだって。


「ほらな、言っただろぉ? 俺の弟子は優秀だって」


 声がして驚いて大聖堂の入り口を見たら、師匠がにやにやと笑いながら立っていた。その横には大司祭様も立っている。


「師匠!」


 私が驚いて声を上げると、ルートヴィヒは演奏をやめて、少しだけ嫌そうな顔をして師匠たちを見た。


「アマネ、よくやった」


「え?」


 師匠が私に向かってそう言った。


「あのクソガキがここまでの演奏ができるようになったとはな、ホロヴィートも天国で喜んでるだろ」


「勝手に俺の師匠を召天させないで下さい」


 師匠の言葉にルートヴィヒが素早くツッコミを入れた。


 やっぱりこの二人は面識があったんだ。ただし、互いに憎まれ口をたたき合うような関係性だけど。


 でもなんとなく、師匠がルートヴィヒを見る視線が優しく見えて、きっと私のことだけじゃなくてルートヴィヒの成長もうれしいからじゃないかなって思った。


「俺が手を加えることなんざねぇや。今のあの二人にとっては、これが最善解だ」


 そう言ってから師匠はパンパンと手を叩く。


「とっとと仕上げの演奏をしろって」


「そうですね。一刻も早く、神聖曲の演奏を」


 大司祭様も師匠の言葉に頷いて、ルートヴィヒにそう言った。


「ああ」


 ルートヴィヒは頷くと、再び演奏を始めた。


 それは今まで聴いたことのないような、穏やかで優しいすべてを包み込む大きな愛が込められた音。


 ああ、これが大聖セバスティアンの作った本来の神聖曲なんだ。そう思ったらなんだか涙が出そうになった。


 いつの間にか大司祭様の指示で大聖堂の天窓が開かれる。


 シュタインウェイを見れば、ルートヴィヒの奏でる音と共に薄く発光しているように見えた。今までは、演奏者の魔力のみが音と絡み輝くのを見てきた。でも今は、調律しながらシュタインウェイの隅々まで行きわたらせた私の魔力も交じり合って、それまでとは比べ物にならないくらいたくさんの光の粒が現れていた。


 そうしてあふれ出した音と光は、大いなる闇と衝突することなくその闇の中に吸い込まれていく。


 ルートヴィヒの奏でる音は、闇を切り裂くのではなく闇そのものを包み込んで、交じり合い、光も闇も関係なく溶け合わせてしまった。


 次第に、あたりが明るくなる。


 大いなる闇が消えていった空は、澄み切った青い色を輝かせていた。


「闇が……」


 私が驚いてそうつぶやいたら、大司祭様も同じように天窓から空を眺めた。


「闇が、光と溶け合ってしまったのでしょう」


「でも、なんでですか? だってそもそも闇って……」


 私が問いかけると、大司祭様は首を振った。


「我々はただ単に『闇』を恐怖し忌避してきました。ですが本来の『闇』とは、そういうものではなかった、ということなのでしょうね」


 大司祭様の言葉に私は思わず息をのんだ。


「大聖セバスティアンはそのことに気づいてた、ということでしょうか?」


「おそらくは」


 じゃあ最初からそのことを楽譜に書くか、口伝として残しておいてくれれば、と私は思った。それが表情に出ていたんだろう。


 大司祭様は苦笑した。


「言葉や文字で伝えても、伝わらないものもありますから。この音色を奏でる者が、闇を祓うのではなくその闇ごと抱きしめてしまうような大きな何かに気づくことを、大聖セバスティアンは望んでいたのかもしれません」


 大司祭様のその言葉で私は理解した。


「大いなる闇が消えたことで、また混乱が生じているかもしれません。私は王都の様子を確認してきます」


 大司祭様と師匠が連れ立って大聖堂から出ていくのを見送ってから、私はルートヴィヒを見た。


「ルートヴィヒ」


「……なんだ?」


 私を見るルートヴィヒの目はとっても優しくて。


「あなたと一緒に神聖曲を作り上げられたこと、すごくうれしかった」


 私の言葉に一瞬固まったルートヴィヒは、その後フッと笑って手を差し出してきた。


「?」


 意図がわからなかったけれど、私はルートヴィヒの手に自分の手を重ねて置いてみる。


 すると、ぐいっと彼のほうに引き寄せられて、そのまま触れるだけのキスをされた。


「アマネ、ありがとう」


 ルートヴィヒがそう呟いた。


「ううん。私こそ、ありがとう」


 私がそう言うと、ルートヴィヒは笑って私の頭を撫でた。


「はー、お熱いことで」


 師匠が私たちを茶化してきたけど、すっごくうれしそうだからいじわるで茶化したんじゃないんだろう。


「お邪魔虫はとっとと退散しよう」


 師匠はそう言うと、大聖堂の出入り口に向かう。


「師匠! ハンマーをお返しします!」


「お前にやるよ。独り立ちした弟子への贈り物だ。シュタインウェイもこれからはお前が触るんだ、マイスター・アマネ」


 背中を向けたまま、師匠はひらひらと手を振りながら大聖堂から出て行ってしまった。


「えっ!? マイスター!? 独り立ちって……」


 私がそう呟くと、ルートヴィヒが私の手を引いた。


「アマネ」


「はい?」


 ルートヴィヒは私の前に跪くと私の手を取って軽く口づけた。


 え? ええ?? あまりにもスマートなその動きに私はただ驚いてあたふたするしかなかった。


 そんな私を見てルートヴィヒが笑う。


「マイスター・アマネ。これからは王都に留まり、俺のための調律師になって欲しい」


「え? でも……私なんかでいいの?」


「アマネより優れた調律師はいない。何より、マイスター・フランツがアマネのことを認めたんだ」


 ルートヴィヒの目は真剣そのもので。彼の本気の視線に射抜かれた私は思わず息をのんだ。


「それから、恋人としても俺の側にいてほしい。ずっと俺の側で、俺と共に生きてほしい」


 ルートヴィヒが私を見つめる。その目は、私の答えを待っている。


 もうここまで熱望されて、嫌です、なんて言えるわけがない。


 それに、私の気持ちもすでに固まっているから。


「……はい!」


 にっこりと微笑みながら、私は強く頷いた。





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