ルートヴィヒの音が聞きたい。彼の演奏した曲が聞きたい。
気持ちよく眠っていたら、私の前髪を優しく梳く感触がくすぐったくて目が覚めた。
「ふあぁぁ~」
大きなあくびを一つして、それからぐーっと体を伸ばす。
「んぐぐー……」
これが毎朝おこなう目覚めのルーティン。
「お前、おっさんみたいだな」
「!?」
突然聞こえた声に驚いて、声のした方を見ると、そこには頬杖をついて私の顔を見ているルートヴィヒがいた。
「ルートヴィヒ!? なんで!?」
私はびっくりして飛び起きると、キョロキョロとあたりを見回した。そして自分がいる場所を確認してさらに驚く。
「ここ……どこ?」
「俺の部屋」
私の疑問に答えるようにルートヴィヒが答えてくれた。
ああそうか、ここはルートヴィヒの部屋か……ってそうじゃなくて! なんで私ここにいるんだっけ? あ、そうだ。昨日ここで……。
そこまで思い出したところで私は顔が熱くなるのを感じた。
「思い出したか?」
私が赤くなるのをおかしそうに見ながら、ルートヴィヒは言ってきた。
「わ、忘れちゃったなー」
私はわざとらしく目をそらしてそう言ったけど、ルートヴィヒに両頬をつかまれて視線を固定されてしまった。
「かわいいな」
そう言って彼は私の唇に口づけてきた。それが軽いキスというよりは、情欲のキスっぽい雰囲気があって。
私は慌てて彼の胸を両手で押した。そして抗議の声をあげる。
「ちょっ、ちょっとまって!」
「何を待つんだ? アマネは俺のことが好きだろ? だったら問題ない」
そうだけど! そうなんだけど! でもそういうことじゃないのよ!
「それに……」
ルートヴィヒは私を抱き寄せて耳元で囁いてきた。吐息がくすぐったくて背中がぞわぞわする。
「一人だけにすべて背負わせないって、私も手伝うって言ってくれただろ?」
言ったわよ!? でもそんな色気たっぷりには言ってないし、(意味深)みたいな言い方もしてないから!
「それがうれしすぎて、今はアマネへの想いが溢れすぎてる」
そう言いながらぐりぐりと私の肩に頭をこすりつけてくる感じは、そう、犬。ゴールデンレトリバーっぽい!
あーもう……そういうとこだぞ? ぐぅ、可愛い。って、そうじゃない! ああもう、私はルートヴィヒに甘すぎる。でも仕方ないじゃない。だって、好きなんだもん。
「わ、私も……」
私がそう言うとルートヴィヒは満面の笑みを浮かべて私を抱きしめてキスをしてきた。
あれからもう1回戦だけやって(なにを!?)私は大聖堂に戻ってきた。
ちなみにルートヴィヒには指の治療を受けるようにきつく言いつけて、他の聖楽師に預けてきた。
今日は本来なら調律の作業に取り掛かる予定だ。
ただ、未だにルートヴィヒの奏でる音が聞こえるかどうか、確かめたいような怖いような、そんな状態で。
とりあえずは標準的に音を揃える作業をすることにした。
442ヘルツで鳴る音叉を取り出して、中央のAの音を合わせる。そこから順番に音を整えていく。
それは元の世界でもこの世界でも同じやり方。
でも、調律するハンマーには不思議と私の魔力がよく染み込んで、そこからシュタインウェイの中にも吸い込まれていくのを感じた。それは不思議な感覚で、今までやってきた調律とは違う体験だった。
そうか、師匠はさらに自分の魔力を弦にのせていたんだ。
この世界ならではの調律。
中音の1オクターブが出来上がったから、今度はオクターブ上にそれを移していく。
師匠のハンマーからシュタインウェイに伝わっていく魔力も調整しながら、音とよく馴染ませてみた。
これで正解なのかはわからない。けど、なんとなくこれが正しいような気がして。
今度はオクターブ下の音を整えて、さらにはユニゾンも整えていく。
これで基本的な調律は完了。
でも、一番の問題はここから。
ルートヴィヒがどんなふうに奏でたいのか、ルートヴィヒの好む音色はどうなのか、それを考えながら音を整えていく必要がある。
「はぁ……」
私は盛大なため息をついた。
それから、そっとピアノの側面に耳を押し付けて、目を閉じてみた。
それで何かが聞こえるわけじゃないんだけど、なんとなく、ね。
ルートヴィヒの音が聞きたい。彼の演奏した曲が聞きたい。私の高校時代に追い求めていた、理想通りの音を奏でてくれるルートヴィヒの演奏を、もっとそれ以上に昇華させたい。
欲張りなんだろうか、と思って。
でも、シュタインウェイで演奏したルートヴィヒの音は、まさにそれだったから。
その時、耳には聞こえないんだけど、ピアノに押し付けた耳にかすかな振動を感じて。
「!?」
あわてて目を開けてみたら、ルートヴィヒがシュタインウェイの前に座ってた。
「ルー……」
名前を呼ぼうとしたら、シッ、と口の前に人差し指を立てるジェスチャーをされて。
静かにしろってことかしら?
何なんだろうと思いながらルートヴィヒを見ていたら、彼は演奏し始めた。
今日はやけに胸がドキドキする。
なんでだろう?
音は聞こえないはずなのに、私はもう一度ピアノに耳を押し付けたくなった。
少しだけひんやりとしたシュタインウェイの白いボディに、そっと耳を押し付けて目を閉じる。
ヴーン、とかすかな振動を感じる。
これって、ルートヴィヒが打鍵している弦の振動音だよね?
音としては聞こえなくても、ルートヴィヒの心臓の鼓動と同じように、振動はちゃんと私の耳に届いていたんだ。
私はしばらくその振動に耳を澄ませた。
あ、これって癒しの聖曲だって気づく。
振動がリズムになって、それから私はそのリズムに合わせるように自分の頭の中で、私の音を鳴らした。
ルートヴィヒだとここはあっさりめに弾いちゃうんだとか、ここは溜めるんだとか、自分の演奏との違いを見つけて、なぜかそれがうれしくて。
「私は、そこはもっと明暗をはっきりさせたいな~」
思わずそう呟いていた。
「そうか? 楽譜にはそんな意図は書かれていないが?」
「でもせっかく転調するんだもの。色を付けたくならない?」
私の言葉にルートヴィヒは嫌な顔一つせずに、もう一度同じ個所を演奏する。
「うん、そう。私はこっちの方が好み」
「だったら、この後の展開はこうするのはどうだ?」
私の楽想にルートヴィヒが乗っかって、さらに彼の楽想を交じり合わせて。
彼の演奏は、私の理想を乗り越えて、さらにもっといい演奏になっていく。
「ルートヴィヒ……すごい……」
「何がだ?」
「私、あなたの演奏がもっと好きになっちゃった……」
私がそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。
「だったら、これからずっとアマネのために奏でてやるよ」
ルートヴィヒはそう言うと再び演奏を始めた。
「俺の音が聞こえないというのなら、聞こえるまで、ずっとそばで演奏してやる。だから、大丈夫」
ルートヴィヒが弾いてくれる、私の理想の旋律。
彼の演奏に耳を傾けながら私は目を閉じた。
それは、初めは振動だけだった。でも少しずつ色を帯びて、私の中に鮮やかな情景を描き始めて。
そうだった。初めてルートヴィヒの演奏を聴いた時も、同じように感動したんだった。
傲慢でかつ独断的、傍若無人を着たような彼が私の理想の音を鳴り響かせて。
私は「神さまずるいです」って思わずつぶやいたんだった。
私はそっとピアノから離れて、ルートヴィヒのそばに寄り添った。
「どうした?」
少し心配気に私のことを見上げてきたルートヴィヒを、私は強く抱きしめた。
「!?」
「ありがとう。私、ルートヴィヒのことが好き」
やっと私は素直に自分の思いを口にした。
「やっと言ったな」
ルートヴィヒはそう言うと、私の背中に手を回した。




