だって……今したらきっと……ほだされちゃう
シュタインウェイの屋根は開いたままになっていたから、そこから内部を覗いてみる。
以前のような存在感を失ったシュタインウェイは、あちこちの弦が切れ、心なしかハンマーや鍵盤も歪んで見えた。
こんな状態だったら、普通まともに演奏することは無理だし、演奏しようなんて思わない。
でも、ルートヴィヒは演奏を続けていた。弦が切れた箇所は別の音を補い、歪んだ箇所は弾くのを避けて。
よくもこんな状態でルートヴィヒは演奏を続けたものだと、私は感心するしかなかった。
「できるかしら……」
不安が私の中にジワリと広がる。
ううん。今はとにかくシュタインウェイの修復に集中しよう。
後からくる師匠がついた時には、ほとんどの作業を終えておかなくちゃ。
「修復、できそうか?」
道具を用意している私の隣で、ルートヴィヒが不安げな表情で聞いてきた。
「最後の整音は師匠がしてくれるし、安心して」
修復だけなら私でも問題ないはずだし、何より師匠が最後にちゃんと見てくれるんだもの。なんとかなるはず。
「俺はできれば……最後までアマネに仕上げてほしい」
「えっ?」
ルートヴィヒの突然の発言に、私は驚いて彼を見た。
「そんな……ムリムリ! 私、なんかにシュタインウェイを仕上げるのは無理だよ!」
「そんなこと関係ない」
彼は首を横に振ってきっぱりと言いきった。
「アマネならできる。フランツの弟子なんだろ?」
確かに師匠の弟子だけど。まだまだ独り立ちもできていないような状態よ? そんな大それたことを押し付けられても困るんですけど!? そんな私の心の叫びもむなしく、ルートヴィヒはじっと私のことを見つめてくる。
「それにアマネは俺の相棒だろ? 俺の弾くピアノはアマネにしか調律させない」
「っ……!?」
まっすぐに、私ができると信じきっているルートヴィヒの言葉に、私の胸の奥に何か熱いものが沸き上がってくるのを感じた。
でも、私はルートヴィヒの奏でる音が聞こえなくなっている。
ラウルゴに帰ってからも、ルートヴィヒの音だけが思い出せなくなっていた。
「あなたの音が聞こえないのに、どうやって調律しろって言うのよ!」
私はそう怒鳴って、ルートヴィヒの手を払っていた。
「俺の音を思い出せ、アマネ」
ルートヴィヒはそう言うと、私に手を差し出してきた。握るんだ、とまるで催促するかのようにさらにもう少し伸ばすように差し出してきて。
「そんなの……無理よ」
「いいから、握れ!」
半ば無理やりに手を握り締められて、そのままの勢いでルートヴィヒは握っていた私の手を引っ張ってきた。
「きゃっ!」
びっくりしている間に私の体はルートヴィヒの腕の中に閉じ込められる。
それから、自分の胸に私の頭を押し付けるようにさらに腕に力を込めてきて。
「聞こえるか? これも、俺の音だ」
耳に聞こえるのはドクドクと規則正しく、力強く脈打ち続けるルートヴィヒの鼓動だった。
「聞こえる……」
とくん、とくん、と耳に聞こえる音が不思議と心地よく、ずっと聞いていたくなる音だった。
「これも、ルートヴィヒの音……」
「アマネが欲しい、アマネの手掛けたピアノの音が欲しい、アマネと共に演奏したい」
「ルートヴィヒ……」
ルートヴィヒの鼓動と共に、彼の言葉が私の心に直接響いていく。
「私なんかでいいの?」
「アマネじゃないと嫌だ」
そんな彼の言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなり涙が止まらなくなった。
そんな私の涙を、彼は指でぬぐってくれた。
「やるわ。私、最後までやる」
私は彼の胸から顔を上げる。そして、涙でぬれた顔のままルートヴィヒに笑顔をみせた。
「さすが、俺が見込んだ調律師だ」
すると彼も私を見て微笑んでくれた。
私はルートヴィヒの腕から体を離すと、再びシュタインウェイに向き合いなおした。それから、そっとシュタインウェイの鍵盤に触れてみる。
初めてシュタインウェイに触れた時に比べて、弱々しく私の魔力を吸い上げるその様は、まるでこれが生きているように感じた。
「すぐにあなたを直してあげる」
切れた弦を張り替えて、残っている弦にもダメージがないか慎重に確認する。
弾いている間に弦が切れることがないように、そこは丁寧に確認した。
響板にひびや割れがなかったことがせめてもの救いで。もし響板に損傷があったら、修復にもっと時間がかかってしまうところだった。
それから張ってある弦がずれていないか、確認して、今度はハンマーなどのアクション部の交換と修復をしていく。
まるで何十年も放置されたピアノのようなダメージをうけているシュタインウェイを、私は丁寧にチェックしては整調の作業を繰り返す。
その中で気づいたのは、師匠がすごく丁寧にシュタインウェイの維持をしていた、ということだった。
施されたであろう整調の跡はどれも丁寧な仕事を思わせるものばかり。
偶然とはいえ、まさか私を拾ってくれた師匠がこの世界ではトップクラスの調律師だったことに、今更ながら驚く。
だってありえないよね? お酒が大好きで、いつも調律の依頼をめんどくさがっていたあのくそじじいが、こんな丁寧な仕事をするマイスターだったなんて。
「アマネ、もう真夜中だ。今日はもう休もう」
「え? そうなの!?」
大いなる闇のせいで昼も夜もわからなくなっているからか、私は時がたつのもわすれて作業に没頭していた。
「大神殿の中に俺の部屋が用意されている。そこで休もう」
「え……一緒に?」
「嫌か?」
ルートヴィヒはシュンと眉尻を下げながら言ってきた。子犬みたいな表情の彼に、私は慌てて首を横に振る。
「嫌じゃないけど……。大体同じ部屋ですごすと、その……やらかしてばっかだったじゃない?」
ルートヴィヒは私の返事を聞くと嬉しそうに笑ってきた。
「やらかしちゃだめなのか? むしろ今日はやらしたいんだが?」
「!」
ルートヴィヒはそう言うと、私の腰に腕を回して抱き上げてくる。そして、そのままスタスタと早足で大聖堂を後にした。
私を横抱きにしながら歩いていくルートヴィヒは、鼻歌でも歌いだしそうなくらい嬉しそうだ。
「ねぇ、まさか本気なの……?」
私がジタバタして抵抗しても彼は降ろしてくれない。むしろ楽しそうに口元に笑みを浮かべているくらいだ。
「本気だが?」
「っ……! で、でもほらさ、その……ゴ、ゴムとか、持ってないじゃない?」
口にするのは恥ずかしかったけど、それでルートヴィヒを思いとどまらせることができるのならそう言うしかなかった。
「うん? 俺はいつも持ち歩いているぞ。それがマナーだろ?」
そっ、そうだった! この人、初対面の私にご褒美と称してキスしてくるような男だった。
「すけこまし……」
「ちょっ! 言っとくけどな、アマネに出会ってからはアマネとだけだからな!?」
私の呟きに、ルートヴィヒは心外だといわんばかりに反論してきた。
「何が!?」
「ナニを、だ!」
聞かなくてもアレのことだってわかってたけど、なんだろう。恥ずかしくて背中がぞわぞわする。
「で、でも、いろんな都市でたくさんの女性に声をかけられてたじゃない……」
「そ、それはそうだが……。でも、アマネと出会ってからは本当に、一度も他の女性と同衾はしていない」
私はルートヴィヒのその言葉で顔が熱くなっていくのを感じた。
「いや、声をかけられた時はそのつもりだった。だが、アマネのことを考えたら……ヤル気になれなくて」
「ヤル気って……」
生々しすぎるわ! ってツッコミを入れたくなったけど、ルートヴィヒなりに誠実であろうとした結果なんだろう。
「これからはアマネ一筋になるから」
「そ、そんな言葉にほだされないんだからっ」
本当はもうほとんどほだされかかっているんだけど、私は意地なって声を荒げていた。
そんなやり取りをしているうちにルートヴィヒの部屋にたどり着いたのか、扉の前で下ろされて。
ルートヴィヒが鍵をポケットから取り出そうとしている隙に、このまま走って逃げようかとも考えた。
けど、行動に移そうとした瞬間にガッチリと手首をつかまれてて。
「逃がすわけないからな?」
そう言ったルートヴィヒの目が据わっていて顔が怖い。圧がすごい。
なにこのホラー展開。
ルートヴィヒは鍵を開けるとさっと扉を開き、私を部屋に連れ込んだ。
そしてそのまま私の体を壁に押し付けて、逃げられないように両手を壁につく。
おわー! これが噂の壁ドンだ! ちょっと旬が過ぎている感は否めないけど。
「俺がアマネのこと好きだって、前にも言ったよな?」
「えっと……そうだっけ?」
聞いたかもしれない。聞いたかもしれないけれど、私としては記憶から消してしまいたいことで、そこになければありませんね精神で貫きたいところ。
「しらばっくれるなら、何度でも言ってやる。もう我慢しない。アマネが好きだ、愛している」
もう逃がさないから、覚悟しろ。と耳元で囁いてくるルートヴィヒに私は翻弄されっぱなしだ。
ああもう! ほんとにこの人たらし! 私が抗議の声をあげようとすると唇を塞がれた。何度も角度を変えて重ねられるそれに酸素を求めて口を開くと、そこからぬるりとしたものが侵入してきた。
「ん……!んんっ」
私の口の中を動き回るその舌は、私の舌を絡めとっては吸い上げる。
息苦しさと気持ちよさで、体から力が抜けて立っていられなくなりそうだった。
そんな私に気づいたのか、ルートヴィヒは私の脇下に腕を差し込むと抱き上げてベッドへと運んでいった。
ぼふんっとベッドの上に放り出された私は、慌てて起き上がろうと体を起こすけれど……すぐにルートヴィヒにのしかかられてしまった。
「アマネ……」
私の耳元で熱い吐息まじりに囁いてくる声に体が震える。
「だめっ!」
私はルートヴィヒの胸を押し返す。
「なんでだ!?」
ルートヴィヒは私の肩口に頭をぐりぐりと押し付けてきた。まるで子供が駄々をこねているみたいだ。
「だって、私、まだ心の準備が……」
そうなのだ。私はまだ彼に抱かれる覚悟ができてない。だから、こんな形でなし崩し的に……というのはちょっと。
「いっつも心の準備なんてなかっただろ?」
「!」
それはそうかもしれないんですけど! でも、ほら。なんて言うか、その。
「まだ時間が必要なの!」
私はルートヴィヒの体を押し返しながら、そう言った。
「なんでだ? なぜこんなにアマネは頑ななんだ?」
ルートヴィヒは私の両手を取ると、そのままベッドに縫い付けた。そして真剣な眼差しで私を見下ろしてくる。
ああもう! そんな目でみないでよ!
「だって……今したらきっと……ほだされちゃう」
私がそう言うと、ルートヴィヒは目を見開いた。それから、もう甘くて蕩けてしまいそうですって感じで笑ったの。
「ぜひほだされてくれ」
ルートヴィヒはとろけきった顔でそんなことを言って、私の額に口づけてきた。甘い彼の声に頭がクラクラする。
あーもー。
もう何も言えない。降参。
だって、私もとっくの昔にルートヴィヒのことが好きになってたんだもん。私は覚悟を決めて目を閉じたのだった。




