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お礼がしたいなら、もっとちゃんとしたものをよこしなさい!





 でも実際私はルートヴィヒの演奏に聞いたのだ。口で語るよりも演奏はもっと雄弁だから。彼が何を目指していて、それにはこの子の何が足りないのかは手に取るようにわかる。


「さて、あなたはすぐに言うことを聞いてくれるいい子かしら~?」


 ピアノというのは同じ工房で同じように作っても、1台1台個性がある。調律に素直に応えてくれる子もいれば、なかなか言うことを聞いてくれない子もいる。


 それも仕方のないことでピアノの木の枠の中では約20トンもの力が弦の引っ張り合いっこをしているし、一つ一つの部品がちょっとずれていたり歪んでいたりするだけで音色は変わっちゃうし、弦を叩くハンマーは消耗品だからいつまでも同じ音を奏で続けることはできない。


 完成しているように見えて、無理矢理枠の中におさめた不完成品みたいなものなのよ、ピアノって。


 この世界でのピアノの調律も基本的には私が専門学校で身に着けた技術と同じだった。だからこそ私がこうやって今調律師として働けている話は置いといて。


 それから基音の高さも私のいた世界と全く同じ。そして、この神殿ピアノも標準的なヘルツ数に合わせられているようだった。


 けど、それだと面白みがない。師匠から教えてもらったコツというか、演奏する人の個性に合った調律方法があることを思い出しながら、私は耳を澄ませる。


「うん……この方が華やかな響きになるわ」


 さっき聞いたルートヴィヒの演奏を思い出しながら、私は音の高さを整えていく。ほんのちょっと、たった2ヘルツの違いなんだけど。それでも大きな礼拝堂ではこの2ヘルツで全く印象が変わって聞こえるのだから不思議。


 それからほんの少しだけ硬い音のしたハンマーには針を入れてあげて。


 応急処置的にルートヴィヒの演奏と相性のいい調律と整音を施しておけば、とりあえず今日のこの場はしのげるはず。これが、今後ずっとルートヴィヒが演奏を続けるピアノだったら話は別だけど、きっと来年の演奏巡回は別の人が来るだろうし、そこまでやる義理は私にはない。


 そうして2時間ほどみっちりと。ルートヴィヒのことなんてすっかり忘れて私は作業に没頭した。


「おっけ~。とりあえず仕上がりを確認したいから、さわりだけ弾いてみてくれない?」


 ピアノの音を整え終わって私はルートヴィヒを見た。


 ルートヴィヒは調律中、どこかに行ってしまうでもなくずっと礼拝堂の中で私の作業を見守っていた。というよりは監視していた、に近いかもしれない。


「わかった」


 さっきまで私を見下していたような雰囲気は消えていて、おや? と思う。


 もしかして、私の調律している様子を見てちょっとは私のこと見直してくれたのかしら?


 だったら、弾いて驚け聞いてビビれ。


 元の世界での修行とこの世界の師匠にしごかれた成果を込めた私の調律は、きっとあんたのことを大満足させるに違いないんだから!


 ルートヴィヒがピアノの前に座り、すっと息を吸って最初の音を紡ぐ。


 その瞬間、私の耳から雑音が消えた。


 さっきの演奏で感じた、透明の糸はもっと精巧な、クリスタルのようなきらめきを放ち、空へと昇華していくように聞こえて。


 そう、これ。この音が聞きたかったの。


 ここまで無駄を削ぎ落したルートヴィヒの演奏だからこそなしえる、輝きを増しつつも柔らかな音。


 ゾク、と背中を走ったのは私の調律によって変化したルートヴィヒの音が、期待通りの音であったことに対する高揚感だろう。


 私は知らないうちに唇の端を上げて笑ってた。


 けれども、ある程度のフレーズまで進んだところでルートヴィヒは演奏を止めた。


「お前、名前はなんという」


 唐突に名前を聞かれて、そのことが理解できずに私は何度か瞬きを繰り返した。


「名前がわからないと不便だろ!?」


「あ、ええと、アマネ・トノギです」


 少しイラついた様子のルートヴィヒに強く言われて、私はあわてて名乗った。


「アマネ、ここの低音部に入るときの違和感を消すことはできるか?」


 言いながらルートヴィヒは左手で低音部の旋律を奏でる。いきなり呼び捨てにされたことはちょっと気になったけど、それよりも今はわくわくが勝っていて。


「そこね、わかったわ。やってみる」


 弦の種類が変わった瞬間に響きが違って聞こえるのが、彼には耳障りなんだろう。たしかに、ここは低音部が主旋律を奏でるのだから、もっと高音部と同じように響いてほしい。


「ただ、やりすぎると下支えがなくなっちゃうから……」


 ピアノ、というものは単純に一つの音を整えればいい、という楽器ではない。すべての和音、すべての調合がそれなりに聞こえるように調和が何よりも大事。


 私は慎重にハンマーに針を刺してフェルト部分を少しだけ柔らかくしてみた。


「んー…………、この辺りが妥協点かな」


 単音を打鍵して、それから音階で弾いてみる。


 それからルートヴィヒが弾いていたフレーズを思い出して、私も左手だけで弾いてみた。


 彼の紡ぎ出す音とは違うけれど、たぶん違和感に関してはクリアしているはず。


「これで弾いてみて」


 ピアノの横にずっと立ったままで私の調律を見守っていたルートヴィヒに話しかければ、彼は無言で椅子に座り、自分が気になっていたフレーズを弾いた。


 うんうん、こっちの方がよりよくなった。


「もっとは無理なのか?」


「それは無理。そのフレーズだけに合わせた音にすると、他のところで違和感がでちゃうから」


「そうか……」


 ルートヴィヒはそう言うと、それ以上は何も言わずに曲の続きを弾き始めた。


 そうして、しばらく弾いては気になるところを彼がリクエストしてきて私が解決する、という作業を繰り返した。


 もうね、時間も空腹も何もかも忘れていた。ただ、ルートヴィヒと一緒に一つの曲の完成を目指して、ピアノを整えていく作業が楽しくて楽しくて。


 最後の整音が終わって、ルートヴィヒが試し弾きしているのを聞きながら私はそのまま眠っていた。





 私は空の真ん中に立っていた。澄んだ青空と頬に感じる清らかな風がとても心地よくて、私は思わず目を閉じてそれに身を任せる。そうしたら、耳に聞こえてきたのは心地いいピアノの音で。


 私は目を開けて、音のする方を見た。


 そこにはピアノを弾くルートヴィヒがいて、その演奏があまりにも綺麗だったから私は思わず息をのんだ。


 最後の一音が終わるまで、私は彼の音が作り出す世界を壊さないように小さく呼吸をしながら、ただピアノに真摯に向き合っているルートヴィヒを見ていた。


 蓋の開けられたグランドピアノからはキラキラとした光の粒が舞い上がっているのが見えて、これが彼の魔力なんだと気づく。


 ただ演奏するだけでなく、その一音一音に魔力を乗せることで、その音が波紋となって魔力を広げ、ラウルゴを中心としたある一定の距離の土地を浄化していく。


 それは、すごく幻想的できれいだった。


 でも何よりも、ルートヴィヒの奏でる音が本当に気持ちよくて、私はただその旋律に酔いしれるように耳を澄ませる。


 先ほど夢の中で見た澄んだ青空と清らかな風は、彼の演奏と魔力が作り出しているのだと気づく。


 そうして、最後の一音が荘厳なつくりの高い天井に吸い込まれるようにして消えて。


 私は思わず全力で拍手をしていた。


 ルートヴィヒの口の悪さだとか、偉そうな態度だとか、そういうものはすべて忘れて。


「起きたか」


 ルートヴィヒが私に気づいて椅子から立ち上がった。そして私に近づいてくると私の顔を覗き込んでくる。


「お前、よくあんなところで寝られるな」


 呆れたように言うルートヴィヒに私は慌てて体を起こす。どうやら礼拝堂の椅子でそのまま寝ていたらしい。しかも誰かの上着までかけられていたみたいで、ちょっと恥ずかしい。


「よだれまで垂らして、だらしのない奴だ」


「うっ、うるさいわね。仕方ないじゃない! ほぼ徹夜で作業したし、あなたの演奏が気持ちよくてつい……」


 袖口で口元を押さえながら言えば、ルートヴィヒは戸惑ったように私を見た。


「そんなに俺の演奏はよかったのか?」


 その言葉に私は何度も頷いた。するとルートヴィヒはちょっと照れたように顔を背けた。


「お前の調律も……悪くなかった」


 ぶっきらぼうに言われた言葉に思わず笑いがこみあげてきたけど、さすがにそれは失礼かなと思って我慢する。


 すっとルートヴィヒの指が私の顎にかけられて、何ごと? と思って上を見たら、彼の顔がものすごく近くにあって。


「え?」


 なんでそんなに顔を近づけるのって思っていたら、ちゅっと、唇に何か柔らかなものが触れてきた。


「……は?」


 なんでルートヴィヒにキスされなくちゃいけないの? こいつと私の間に、キスしたくなるような何かがあった?


 いや、ないでしょ? ないって。


 っていうか、これってどういうこと? 何が起こっているのかわからなくて、私はただただ目を見開いてルートヴィヒを見つめていた。すると彼はニヤリと笑って私を見る。


「お礼のキスだ」


「なっ!?」


 私はあわてて唇を手で覆ったけど、そんなことで感触が消えるはずもなくて。呆然としながらルートヴィヒを見たけど、彼は何食わぬ顔で私の上にかけられていた上着を手に取った。


「今日の俺は機嫌がいいからな。特別だ」


 そう言って、彼は上着を羽織る。ということは私に上着をかけてくれていたのは彼だ、ということになる。


「いや、なんなのよ、いったい」


 なぜだか急に無性に腹が立ってきて、私はわなわなと震えながらルートヴィヒをにらみつけた。


「だからお礼だと言っただろう? 女性たちは俺に口づけされたら、気絶するほど喜ぶんだがな」


 一体どこのプレイボーイだと思いながら、自分がそんな安っぽい女性と同じ扱いを受けたことにカチンと来た。


「馬鹿にしないでよ! お礼がしたいなら、もっとちゃんとしたものをよこしなさい! キス一つで徹夜の調律をチャラにできるわけないでしょう!」


「じゃあ、今から俺と一緒のベッドに入るか?」


 もうね、思いっきり、遠慮なく、目の前の馬鹿男の頬を叩いてやったわ。


 パン! ってきれいな破裂音が鳴って。


「え……は……?」


 ルートヴィヒが叩かれた頬を押さえて、呆然とした様子で私を見た。


「私はね、そんな安っぽい女じゃないわよ!」


 私が怒鳴っても、ルートヴィヒは何が何だかわからないという顔をしていて。


 そんな態度に、さらに怒りが込み上げてきた。


「もう帰る! 二度とあんたの調律依頼は受けないから!」


「ちょっと待て!」


 踵を返した私の腕をルートヴィヒがつかんだ。その手を振り払って、私はルートヴィヒをにらみつける。


「気安く触らないで! 私はね、調律師であってあんたに群がっていた女性たちと同じじゃない! わかった!?」


 それだけ言って私は礼拝堂から出て行った。


 本当にもう信じられない。なんであんなやつにキスされたのか。それもお礼とか言われて。


 公爵家の次男という立場に加えてあの容姿だから、相当モテているんだろうし、遊んでいるのかもしれない。


 けど、私は違う。


 私はちゃんと好きになった人とだけキスをしたい。あんなふうに誰彼構わずすることなんて考えられないし、許せない。


 この怒りを何かにぶつけなきゃ気が済まないと思った私の足は自然と市場に向かっていて。そこで私はありったけの食材とエールを買い込んで工房に戻ったのだった。





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