お前が向き合うのは俺でも神器シュタンウェイでもなく、ルートヴィヒだ
私は王都からラウルゴに戻ると、再び師匠の工房に身を寄せた。
帰ってきた私を見て、師匠は何も言わなかった。でも、私の表情が暗かったのを見て、何かあったことはたぶん気づいたんだと思う。
だって、あの師匠がやけに優しかったんだもの。
私は師匠にすべてを打ち明けた。
ルートヴィヒの調律は自分にしかできないって勘違いしていたこと。神器シュタインウェイでのルートヴィヒの演奏を聞いて、自分がどれだけ未熟だったかを思い知らされたこと。それから……ルートヴィヒの演奏する音だけが聞こえなくなったこと。
師匠は何も言わなかった。ただ、お疲れさんと言って私の頭を撫でてくれた。
それからしばらくはルートヴィヒに出会う前のような日常に戻った。
ただ、師匠は以前よりもさらに私に仕事を押し付けるようになったけど、でも、私も仕事をしていたら気がまぎれるからちょうどよかったのかもしれない。
そんなある日のことだった。
「おい、空が真っ暗になったぞ!?」
工房の外からそんな騒がしい声が聞こえてきて、私はそう言えば部屋の中が急に暗くなったなぁと思いながら窓から外を見た。
「えっ!? なにあれ!」
今日は朝から晴れの日で、洗濯物もすぐに乾いちゃいそうなくらいいい天気だったはずなのに、空には雨雲よりももっと黒い何かが広がってくるのが見えた。
「どうしたアマネ」
師匠が声をかけてきて、私は無言で師匠を手招きした。
師匠は窓のところまでやってくると空を見上げた。
「ありゃあ……、なんてことだ」
「まさか……」
私が呟くと、師匠がこくりと頷いた。
「ああ、ついに来やがった。あれは大いなる闇だ」
小説に出てきた未曽有の危機、大いなる闇の出現。それが現実に目の前で始まったことに私は思わずごくりと喉を鳴らした。
「で、でも聖女もすでに現れているし、きっと大丈夫ですよね?」
「うーん……そうだといいがな……」
なぜか師匠の言葉は歯切れが悪くて、私は胸の中に不安が広がっていくのを感じた。
ルートヴィヒは大丈夫だろうか?
きっと今は、聖女に神聖曲を弾いてもらうように動いているんだろうか?
そんなことが私の頭をかすめていく。
「アマネ、お前は念のためにいつでも行動できるように準備をしておけ」
「行動、ですか? それは、どういう……」
師匠の言葉の意味が分からなくて、私は聞き返した。
「伝手から聞いた話だが……今の聖女に大いなる闇が祓えるかどうか、微妙だとよ」
「まさか! だってミコトちゃんの演奏、すごく上手ですよ!? 練習を聞いただけですけど、すぐに弾きこなしていましたし」
最初から最後まで通した演奏を聞いたわけではなかったけれど、正直なところルートヴィヒよりも上手だと思ったくらいだったし。
だから、聖女であるミコトちゃんに大いなる闇が祓えないなんて、ありえないと思った。
「っていうか、どこからの噂ですか、それ!」
まるで聖女に対するやっかみのように聞こえて、私は見も知らぬ噂の出所に対して腹が立った。
「まあ、様子をみるしかねぇな」
腹を立てた私に肩をすくめるしぐさを見せて、師匠はそう言った。
確かに、王都から離れたこのラウルゴでできることは、ただミコトちゃんの演奏が成功することを祈るだけ。
きっと大丈夫、だよね?
ルートヴィヒもついているんだし……。
私はもう一度真っ黒に染まった空を見上げた。
けれども、シンフォリア王国を覆いつくす大いなる闇が現れてから3日がたったけれど、空は一向に明るくならない。
ラウルゴの人たちも不安げな表情を見せながらも、生きていくためには生活しないわけにはいかず、みんなランタンや松明、ろうそくをもって外で行動していた。
「王都からの新聞が届いた」
師匠の声に振り向けば、新聞を手にした師匠が外から帰ってきた。
「状況は!? 神聖曲の演奏はどうなったんですか!?」
私は師匠に詰め寄った。
「まあ落ち着け」
そう言って師匠は新聞を私に手渡すと、椅子に腰かけた。
私は手渡された新聞に目を通す。
「聖女による神聖曲の演奏は行われた……だが、大いなる闇は祓われず失敗に終わった……?」
新聞の文字を目で追いながら、そんな馬鹿な、という思いが膨らんでいく。
「なんで?」
小説では彼女が神聖曲を演奏することによって大いなる闇は祓われたはず。なのになぜ?
「あれだ、あのぼんぼんと同じ理由だろうよ」
「ぼんぼん?」
師匠のいう「ぼんぼん」が一体誰なのかわからず、私は首をひねる。
「バルテマイ公爵家のあのがきんちょだよ。あいつも技術一辺倒で、演奏の何たるかがわかってなかっただろう?」
そう言われて、師匠の言っている人物がルートヴィヒであることに気づいた。
「でも、ルートヴィヒの演奏は変わりました!」
思わず私は食って掛かる勢いで師匠に反対した。
「今の彼の演奏を聞いたら、ルートヴィヒのことを見直すと思います!」
「お、おう……」
私のあまりの勢いに、師匠が軽く引いているのが見えて私はあわてて咳ばらいをして平常を装った。
「すみません……」
「いや、別にいいんだが……。とにかく、だ」
師匠は新聞を指差した。
「いくら才能があっても技術だけじゃあ、神聖曲を本当の意味で弾きこなせはしないってことだ」
私はもう一度新聞に目を通した。何度読んでも変わらない内容に私は深いため息をつくと椅子の背もたれに体を預けた。
小説の中ではあんなに簡単に演奏されていた神聖曲が、現実ではこんなに難しいなんて思わなかった。ミコトちゃんの演奏技術も問題ないと思っていたのに、それ以外の理由がまさか演奏の失敗という形になって還ってくるなんて思ってもいなかった。
「どうしたらいいんだろう……」
新聞をなんとなく見つめながら私がぽつりとつぶやいた時だった。
工房の扉をコンコンとノックする音が聞こえた。
「はーい?」
私は慌てて立ち上がると、扉を開けた。
「マイスター・フランツ。神器シュタインウェイの調律の依頼です」
扉の向こうには騎士のような身なりをした男性と、その後ろにはまるでどこぞの騎士団でも来たのだろうかという、何頭もの馬と男性たちと、それから立派な馬車が見えた。
「は? マイスター・フランツ……?」
そう言えば師匠の名前はフランツだったなぁと考えながら、それからマイスターってのは神器シュタインウェイの調律ができる唯一の調律師に与えられた称号だったなぁと思い出す。
「え? はぁ? 師匠って……マイスター!?」
今まで技術はぴかイチだけどくえないくそじじいだと思っていた師匠が、まさかのマイスター!?
「シュタインウェイに何があった?」
師匠は特に慌てる様子もなく、淡々とした態度で訪ねてきた男性に尋ねた。
「聖女様の演奏が失敗に終わったことはご存じでしょうか?」
「ああ、さっき新聞で知った」
「そのあと、聖女様は神聖曲を演奏することを拒否されまして、聖楽師ルートヴィヒ様が変わりに何度も神聖曲を演奏することを試みられました」
ルートヴィヒの名前が聞こえて、胸がぎゅっとつかまれたかのように苦しくなった。
「ですが、その度に失敗に終わり、ついには大いなる闇の抵抗によりシュタインウェイの弦が何本も切れ、音も大きく歪んでしまいました」
ぽん、と師匠のしわの深い手が私の肩に置かれて、それで私の体に力が入っていたことに気づく。
「それで、マイスター・フランツに修理と調律の依頼をするために、我ら王立騎士団が派遣されたのです」
「なるほどな……」
師匠は私の肩に手を置いたまま、しばらく何か考え込んでいるようだった。
「この老体が馬車でのんびり行くよりも、こいつをさっさと早馬で王都に連れて行け」
そうして、ぐっと前に私を押し出して。
「えっ? ええっ!?」
私は事態が飲み込めずにただ慌てふためくしかなかった。
「弦が切れたのならば、新しい弦を張りなおせばいい。音が狂ったのなら整えればいい。そら、お前に仕事が来たぞ?」
「「ちょ、ちょっと待ってください!」」
その言葉は私と尋ねてきた男性と二人同時で発していた。
「そ、そちらの女性は? 我々はあなたをお連れするように国王陛下から申しつけられておりますゆえ……」
「そうですよ! シュタインウェイは師匠しか調律できないんですよね!? 何で私が行くんですか!」
私も男性も師匠に抗議の声を上げるが、彼は表情一つ変えずにこう言った。
「こいつは俺の唯一の弟子だ。技術的なところはもうすべて教えてある」
そう言って彼は私の手を取って、自分の手をそれに重ねた。しわくちゃで節くれだったごつごつとした手だった。
「俺も後から追いかける。だが、今は緊急事態だ。お前が先に行ってシュタインウェイを修復しろ」
「でも……」
「心配するな。お前ならできる」
師匠はそう言って笑うと、いつの間に用意していたのか、私の調律道具が詰まったカバンを私に押し付けてきた。
「ほ、本当にあとから来てくれるんですよね!? 実はめんどくさいから私に押し付けるとかじゃないですよね!?」
「おまっ……信用ねぇなぁ……」
「今までの師匠の行いを振り返ってから言ってください!」
私がそう叫ぶと、彼は肩をすくめた。
「そう言われると言い返せねぇなぁ」
師匠は苦笑しながら頭を掻いた。
「だがな、お前の腕を一番信用しているのは俺だ。だからお前を先に行かせるんだ。ほら、これを持っていけ」
そう言いながら師匠が私に手渡してきたのは、調律の時に弦を張っているピンを回すためのハンマーだった。
「こいつの持ち手にはシュタインウェイと同じ、ドラゴンの牙が使われている。相当魔力を持っていかれるだろうが、お前の魔力量なら問題ない」
持ち手とトルクをつなぐ金具には、何か紋様が刻まれていて、それが師匠だけの特別なハンマーだと聞かなくてもわかった。
「俺の過去の亡霊に囚われるんじゃないよ? お前が向き合うのは俺でも神器シュタンウェイでもなく、ルートヴィヒだ」
師匠の言葉に私の胸がドキリとなった。
向かい合うべきはルートヴィヒ……。それはとてつもなく大事な言葉のように思えて、私は深く胸に刻んだ。
「わかりました。先に行ってます」
「おうよ」
私は師匠からハンマーを受け取ると、それをカバンの中に入れた。
「では、ええとこちらの女性を先にお連れしたらいいのでしょうか?」
私と師匠がやり取りしている間空気になってくれていた騎士が、困ったように私と師匠で視線をさまよわせていた。
「馬で急げば3日もかからんだろう?」
「わかりました。それではお先に彼女を大神殿にお連れいたします」
そう言って男性は一礼すると、私に向かって手を差し出す。
「あ、はい……」
私はその手を取り、馬に乗せてもらった。
「聞いた通りだ! 部隊を2つに分ける。先行部隊は私と共に全速力で王都に向かう。残りはマイスター・フランツを乗せた馬車と共に王都に迎え」
「はっ!」
私を馬に乗せた騎士の掛け声であっという間に部隊が2つに分かれ、そして私を乗せた馬が勢いよく走り出した。
「きゃっ!」
生まれて初めての乗馬でどうしていいかなんてわからなくて、とにかく私は馬の首にしがみついた。
最初は怖くて目をあけられたなかったけれど、そっと薄目を開けたら周りの景色があっという間に流れていくのが見えた。自転車よりも早い。下手したら車くらいの速度が出ているかもしれない。
もし落ちたら大怪我どころじゃすまないと思えば、必死に鬣を握っていた手に力がこもる。
けれども、しばらく走っていると速度にも慣れてきて、少し余裕が出てきた。
すると、シャリン、シャリン、と馬につけた装飾品が鈴のような音を響かせているのが聞こえてきて。
それが私たち一団を取り囲む淡い光を生み出しているのが見えた。
なるほど。鈴を演奏することで光を生み出す魔力を紡ぎ出しているんだろう。
空は大いなる闇に覆われていて、あたりは真っ暗。
王都に近づけば近づくほど闇が濃くなっていくのがわかった。
途中で馬を交換しながら、2回だけ野営をして。
そうして私は再び王都へとやってきた。




