私は完璧に弾いたわ!(ルートヴィヒ視点)
だが、よりにもよってなんでこんなタイミングで大変なことが起こるのだろうか。
廊下を歩いていた俺に向かって、青ざめた顔色をした大司教が走ってくるのが見えて。
「ルートヴィヒ殿!」
そうして、その後ろからは数人の神官たちが走ってくる。
「何かあったのですか?」
俺は眉間にしわを寄せながら、大司教に尋ねた。
「大いなる闇が……っ」
まさか、と思った。
「大いなる闇が現れました!」
だが、駄目押しのように大司教がもう一度同じことを言った。
予兆はあったし、聖女が現れたのだからいずれ大いなる闇も現れることはわかっていた。だが、なぜこのタイミングなのだろう。
俺は廊下の窓から外を見た。すると、日中のはずなのに王都の空は真っ黒に染まり、不穏な影を落としているのが見えた。
その黒い染みのような大いなる闇は、王都だけでなく、シンフォリア王国全土を覆い隠すほどに広がっているように見えて。
俺は思わず舌打ちした。
だが、そんな俺の態度など気にも留めずに大司教は続けた。
「すぐに神聖曲の演奏準備を!」
今の聖女の状態で神聖曲の演奏はできるのだろうか? できたとして大いなる闇を祓うことはできるのだろうか?
一瞬にして脳内を様々な思いが駆け巡った。
だが、四の五のは言っていられない。
大いなる闇があらわれた時に国や世界を守るために、俺たち聖楽師は存在しているのだ。
「わかりました。ただちに準備を」
俺は頷くと踵を返した。
後ろでは、大司教が神官たちに指示を飛ばしている声が響いていた。
とりあえず、俺もすぐにミコトに神聖曲を演奏する時が来たのだと伝えに行くことにした。それから大いなる闇の襲撃に備えるのだ。
俺がミコトのいる大聖堂に戻ると、彼女は部屋の中央にあるシュタインウェイの椅子に腰かけて、呆然としていた。
「おい、ミコト」
俺が声をかけると彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ルートヴィヒ……様……」
「大いなる闇があらわれた」
俺は単刀直入にそう告げた。だが、ミコトはただ俺を見つめるだけで何も言ってこない。
「……おい、聞いているのか?」
俺は彼女の目の前で手をひらひらと振ってみたが反応がない。
「しっかりしろ!」
俺はミコトの肩を掴むと強く揺すった。
「何を弾くんですか……」
不機嫌そうに俺を見上げた後、また視線を床に落とした。
「神聖曲に決まっているだろう!? それが聖女の役目だ!」
俺はミコトの両肩を強くつかんだまま言った。だが、彼女はただ不満げな表情を見せるだけで何も言ってこない。
「早く、準備を!」
「じゃあ! 私が神聖曲をちゃんと弾ききったら、私の恋人になってくれる?」
突然、ミコトが顔を上げてそんなことを言ってきた。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ!?」
俺は思わず声を荒げた。だが、彼女はじっと俺を見つめるだけで何も言ってこなかった。
「どうして急にそんなことを言い出した?」
俺は焦っていた。だからミコトの両肩を揺さぶりながら必死に問いかけたのだ。けれど彼女はしばらくだんまりを決め込んでいた後、ようやく口を開いたのだった。
「私っ、ルートヴィヒ様のことが本当に好きなんです!」
それとこれとは関係ないだろう! と思わず怒鳴りつけそうになった。だが、それをぐっとこらえる。
とにかく今は彼女に神聖曲を弾いてもらわなければいけない。
「っ……わかった。大いなる闇を退けられたら、お前のことをちゃんと考える」
「本当ですか!?」
ミコトの表情がぱっと輝いた。だが、俺はとにかく彼女の気を反らすために頷いた。
「だから今は早く神聖曲を弾くんだ!」
俺はそう言うと、彼女の両肩から手を離した。
ミコトは嬉しそうに頷くとシュタインウェイに向き合い、そして集中をし始めた。
この演奏をする寸前の、すべての感覚を鍵盤の上に置いた指に集中している姿は、正直普段の彼女からは考えられないものだった。
そうして、演奏が始まった。
ああ、悔しいけれどなんて美しい音色だろうか。もう何度も聴いてきたが、やはり彼女の奏でる音は素晴らしいと改めて思った。だが、今はその余韻に浸っている場合ではない。
「天窓を開けろ!」
俺の指示ですでに配置についていた神官たちが、大聖堂の天井にある大きな天窓を開くための装置を動かし始めた。
すでに大聖堂には聖女の奏でる音と共に膨大な魔力の粒が漂い始めている。
そうして、開いた天窓から光の粒を伴った音楽が溢れだした。
そして、王都の空を覆いつくすように広がっている大いなる闇と大聖堂からあふれ出した光が衝突するのが見えた。
闇の浸食と、光を纏った音が互いに相いれないものであると、押し合いせめぎ合っている。だが、よく見てみれば徐々に闇は光を押し返しているようにも見える。
伝承では聖女が神聖曲で大いなる闇を祓うと伝えられているのに、その通りにはならないのか?
俺は固唾を飲んで目の前の光景を見ていた。
大いなる闇はあざ笑うように大聖堂の中へと入りこみ、そして聖女のほうにまるで意思を持った触手のように闇を伸ばした。
「あぶない!」
俺はとっさにミコトを背後に引っ張った。
「きゃっ!」
「天窓を閉めろ!」
俺の指示に慌てて神官たちが大聖堂の天窓を閉じる。
「大丈夫か!?」
「い、今のはなに!?」
ミコトが顔面蒼白のまま俺にしがみついてきた。
「くそっ!」
俺は大聖堂の天窓を見上げた。すでに閉じられた天窓の向こうでは、まるであざ笑うかのように大いなる闇がうごめているよう見えた。
「神聖曲が効かなかったのか?」
「そんな! 私は完璧に弾いたわ! 一音も間違えてないし、楽譜通りに弾いたわよ!? 私が悪いんじゃないわ!」
「わかっている」
俺はミコトの肩に手を置いて、落ち着かせる。だが、今の一連の出来事は、ミスなく楽譜通りに弾くだけでは神聖曲として成り立たないことを示していて。
「ミコト! もう一度弾いてくれ!」
俺は思わずミコトの肩に手を置いてそう叫んでいた。
「い、いやよ! もうこんな怖い思い、したくない!」
だが、ミコトは絶叫して拒んだ。
俺は震えている彼女を見る。ふと大司祭のほうを見れば、彼は苦い顔をしながら首を横に振るばかりで。
「っ……。彼女をいったん安全なところへ」
俺の指示に神官がミコトを連れて大聖堂を出て行った。
「ルートヴィヒ、どうするのですか?」
「俺が弾きます」
俺は大司教の問いに短く答えた。
「できるのですか? 聖女様でも成功しなかったのですよ?」
「このままでは王都が大いなる闇に飲み込まれます」
俺は真っ直ぐに大司教を見てそう言った。
何もしないままでいるよりも、少しでもあがいたほうがましだ。
聖女ほどの魔力はなくても、神聖曲に込められた意味を正しく理解して演奏できれば、万が一何かが起こるかもしれない。
俺は神器シュタインウェイの前に座ると、少しの間だけ瞑想する。
大聖セバスティアンがこの曲にどんな思いをこめて作曲したのか。大いなる闇を祓うために作曲したのだから、神々しい光で闇を押し返し、世界に光を取り戻すことを願って作ったのだろう。
だが、俺がそのことを表現しながら弾くにはどんな音を奏でることがふさわしいのだろうか?
俺は大聖セバスティアンがこの曲に込めた思いを正しく理解し、そしてそれを音にすることができるのか。
いや、今は俺がやらなければならない。不安を感じている暇すらない。
俺は大きく息を吸い込むと鍵盤の上に指を置いた。そしてゆっくりと弾き始める。
ずん、と何か見えない圧力のようなものが俺の体を押さえつける。それと同時に、俺の指先からシュタインウェイは信じられない量の魔力を吸い上げていく。
楽譜はすでに頭の中にある。テクニックも問題はないはずだ。
けれども、結果から言えば俺の演奏した神聖曲では大いなる闇を祓うことはできなかった。
ただ、大いなる闇の浸食を鈍らせる程度の効果はあったようで、それだけでもとりあえずは及第点なのだろう。
だが、いつまでもこのままではいられない。
聖女にもう一度神聖曲を正しく理解してもらい演奏してもらうか、それとも俺が神聖曲をちゃんと弾きこなせるようになるか。
聖女に過度の期待をするよりも、俺が何とかしたほうが早い。
俺は何度も何度も、シュタインウェイで神聖曲を弾き続けた。




