俺といないほうが笑えるんだな(ルートヴィヒ視点)
久しぶりの乗馬は少し手間取ったが、それでも子供の頃に身につけたものは体が勝手に覚えていてくれて、俺はフェルマッテに向けて馬を走らせた。
フェルマッテは王都から近く、そこから各地方都市に向かう中継地点として栄えている大きな町だ。
そこでアマネはラウルゴ行きの乗合馬車に乗り換える予定だとチケット売り場の女性から聞いて、俺はまず取り合い馬車の停留所へと向かった。
「アマネ!」
停留所でアマネの姿を探しながら、俺は彼女の名前を叫んだ。
「アマネ!」
だが、黒髪の女性もフードをかぶった人影もない。
まさか、すでにラウルゴ行の馬車に乗ってしまったのだろうかと思ったが、まだ馬車が出るまでに1時間の猶予があった。
時刻はお昼を過ぎた頃。
もしかすると昼食を取るためにどこかの食堂に行っているのかもしれない。
俺は一縷の望みをかけて、フェルマッテで一番人気の食堂へと向かった。
「いらっしゃいませ!」
混雑する店内に足を踏み入れると、すぐに店員が近づいてきて案内してくれる。だが、目的の人物の姿はまだ見つからない。
もう食事は終えてしまったのだろうか? それとも別の店を探しに行ったのだろうか? アマネを探しながら店内をぐるりと見回してもやはり黒髪の女性はいない。
「すまないが、黒髪の女性かフードをかぶった人物がこなかったか?」
「え? ああ、フードをかぶった人なら来ましたよ」
俺が店員に尋ねると、彼はすぐにそう答えた。
「本当か!? 彼女はどこに?」
俺は思わず前のめりになって尋ねる。
すると店員は少したじろぎながら、首を横に振った。
「先ほど食事を終えて出てきましたよ」
くそ、すれ違ったのか!?
「ありがとう」
俺は手短に礼を述べると店の外へと飛び出した。
「アマネ!」
店の外に出てもアマネの姿はなく、俺はすぐさま停留所へと戻る道をは出した。
まだ乗合馬車の発車までに時間がある。もしかするとどこで寄り道でもしているのだろうか?
そんなことを考えながら歩いていると、耳に聞き覚えのある音がかすかに聞こえた気がした。
「あの音は……」
トイピアノの、チープだけれども優しい音色。丸く粒のそろった、彼女の音だ。
俺はあわてて音のする方角へと走る。
すると、乗合馬車の停留所のある大広場へと出た。大広場の中心には噴水があり、そこには、探し求めていたアマネの姿があった。
「お姉ちゃん! もっと弾いてよ!」
「え~、もうあんまり時間がないんだけどな~……。じゃあ、最後の1曲ね?」
子供向けの可愛らしい曲が流れだす。
トイピアノを弾くアマネの顔には、ここ最近では見たことの無い笑顔が浮かんでいた。
本当に、心から嬉しそうな笑顔だ。
あの笑顔は、俺と一緒に満足いく調律ができた時に見せた笑顔と同じで。
でも、神器シュタインウェイでの俺の演奏を聴いた時からだ。あの時から、アマネの表情から笑顔が消えた。
俺が彼女を追い詰めてしまった。
そして、彼女の耳や記憶から俺たちの求める理想の音を奪い取ってしまったんだ。
「俺がかかわらなければ、アマネはあんなふうに笑っていられるんだな……」
彼女と音を追い求めることが楽しくて、彼女とああでもないこうでもないと話す時間が好きだった。でも、いつの間にか俺の演奏はアマネを追い詰めることしかできなくなったんだ。
調律なんてできなくてもいい。ただ側にいてほしいと彼女に願ってしまったけれど、たぶんそれはアマネに呼吸するなと言っているようなもので。
ああやって音楽と向き合っているアマネが一番輝いている。
俺から離れるなと懇願したけれど、果たして彼女を自分の側に置くことが最善なのだろうか。
俺から離れた方が、アマネは心から楽しんで音楽に向き合うことができるんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら、俺はアマネが弾き終わるまでずっと彼女の姿を遠くから眺めていた。
そうして、ピン、と最後の音が鳴り終えて。
「ごめんね! そろそろ行かなくちゃ馬車に乗り遅れちゃう!」
アマネはそそくさとトイピアノをケースの中にしまうと、子供たちに手を振って乗合馬車の停留所へと走っていった。
「アマネ……」
俺は彼女の後姿をずっと目で追っていた。
ラウルゴ行の乗合場所の出発まであとわずか。
掴まえるなら今しかない。
だが、アマネを掴まえて、無理矢理に王都まで連れ戻して、それで俺は一体何を手に入れるのだろう?
俺の音が聞こえないと苦しむアマネにとって、それは苦痛でしかないのに。
俺はその場で立ち尽くしてしまった。
アマネの幸せは、俺には与えられないと知ってしまった。
それなら、俺はもうアマネを追いかけてはいけない。
これ以上苦しめないために、俺の音がアマネに聞こえない場所にお互いがいることがいいんだ。
それがきっと最善の選択に違いないから。
乗合馬車は定刻どおりに出発し、ラウルゴへ向かう馬車が停留所から出てきて、ラウルゴに向けて出発した。
ちらりと窓越しに見えたフードを深くかぶった人影は、きっとアマネなんだろう。
「さよならだ、アマネ」
そう言ったのは、自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。
バルテマイ公爵家に俺だけが戻ったことに、兄は何も言わなかった。
ただ、これからはもう少し屋敷に顔を出してほしいと、それだけを告げてきた。
そこから、俺はどうやって大神殿に戻ったのかあまり記憶がない。
アマネが傍にいないという現実に体が重く、もうどこにも行きたくなかったし、何もしたくなかった。
けれども、ミコトに神聖曲を教えるという大役は誰にも変わってもらえない。
アマネの置手紙にはミコトちゃんとお幸せに、と書かれていた。だが、俺には彼女に対する想いなどこれっぽっちもない。
ただ、頼まれたから彼女に神聖曲を教えるだけだ。
そうして、ミコトにつきっきりで神聖曲を教える日々がしばらく続いた。
「ルートヴィヒ様!」
ミコトに名前を呼ばれて俺はハッと顔を上げた。そうだった、今は彼女と一緒に神聖曲の練習をしていたのだった。
「もうっ、質問しているんだから答えてくださいっ」
頬をぷくっと膨らませてミコトが抗議してきた。
それは、おそらくミコトからしてみれば可愛い仕草なんだろう。だが、俺からしてみればただ煩わしいだけだった。
「もうほぼ弾けているだろう? 後は演奏を通して何を実現したいか、心に思い描きながら演奏するだけだ」
「だから、それがわからないんですよぅ」
ミコトはムッとした顔でそう言った。
「だいたい、何を実現したいかなんて、そんなこと考えながら弾いたって意味がないじゃないですか? どう表現したい、というのならわかりますけどぉ」
「いや、魔力を愚見化するにあたって、その曲をどういう想いで弾くのか、魔力を通して何を起こしたいのかはっきり思い描けているかで、まったく違う演奏になる」
かつては自分もそこが理解できずに、ホロヴィート師匠にこっぴどく叱られたことを思い出す。
そこからスランプに陥って、いっそのこと演奏できなくなってしまった方が楽になるんじゃないかって、そう思った時もあった。
だが、そこから助け出してくれたのはアマネだった。
「よくわかりませんっ。楽譜通り間違いなく弾けて、楽想用語を守って弾けば作曲者の意図通りに再現できる。それでいいんじゃないんですか?」
ミコトはまたもや唇を尖らせて不満気な顔をした。
「俺の教え方でそれが理解できないのなら、俺では役不足だ。俺はもう行く」
これ以上ミコトの相手などしていられないと俺は立ち上がった。だが、そんな俺を引き留めたのはミコトだった。彼女は俺の服の裾を掴んでいる。
「なんだ?」
「あ……あの、その……」
ミコトは何か言いたげに口ごもった。だがすぐに意を決したように俺を見上げる。
「あの、私、ピアノ以外にも色々とルートヴィヒ様に教えていただきたいんです!」
「何をだ?」
俺はミコトの言いたいことがわからずに首を傾げた。
するとミコトは頬を赤らめて俯いた。そしてもじもじと体を動かしながら小さな声で言う。
「……恋」
「は?」
俺は思わず聞き返していた。
「ルートヴィヒ様は、恋したことがありますか?」
ミコトは頬を赤くしたまま上目遣いで俺を見る。その顔は、恋に夢見る少女のそれだった。
俺は思わず面食らってしまう。今まで演奏以外のことを聞いてきたものは誰もいなかったからだ。しかもよりによって恋愛の話とは。
「……なぜそんなことが聞きたいんだ?」
「だって、私、ルートヴィヒ様のことが……」
ああ、これ以上聞いてはいけないと、俺は本能的に悟った。
なるほど。ミコトのこういう態度をアマネは見ていて、だから俺に対してミコトとお幸せになんて見当違いも甚だしいメッセージを残したんだろう。
「あのな、聖女」
俺は深くため息をついた。
「聖女が神聖曲を習得すること以外にうつつを抜かす時間はない。俺もお前の恋路に付き合っている暇などないんだ」
俺は彼女の手を払うと今度こそ背を向けた。だが、ミコトはそんな俺の背中に追いすがるように叫んできたのだった。
「私っ、本気です!」
思わず足を止めてしまったのは失敗だった。だがもうすでに遅い。俺は振り返ってミコトを見る。すると彼女は目に涙をためていたのだった。
「私はっ、私……」
ぽろぽろと涙を流すミコトに俺は思わず舌打ちをする。
どうしてこの聖女はこんなにも面倒なんだ?
「泣くな」
「う……だって、私……」
「泣くなと言っているだろう?」
そんな顔をされたらまるで俺が泣かしたみたいじゃないかと、思わずため息が漏れた。
アマネと過ごした半年間は、このような煩わしいことは一度もなかった。
彼女が涙を盾にしたこともなかったし、女の醜い側面を見せることもなかったからだろう。
過って3度同衾してしまったが、それでも彼女はドライだった。せめてこの聖女の半分くらいでも色恋に興味があれば、もっと結果は違っていたのかもしれない。
でも、そんな彼女だから惹かれたんだろう。
俺は深くため息をついた後、ミコトを正面から見た。
「あのな、聖女」
「は……はい」
「まず、第一に俺はアマネ以外を好きになるつもりはない」
「え……?」
ミコトの目が見開かれる。俺はその目をまっすぐ見つめて続けた。
「第二に、俺がお前を構うのは神聖曲を弾かせるためだ」
「……はい……」
「第三に、もうお前に教えることはない。レッスンはこれで終わりだ」
俺はきっぱりと告げるとそのまま彼女に背を向けた。
どうして俺がこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、聖女はどうして俺のことなんかを好きになったのだろうか? どこを見て好きになる要素があったんだ?
俺はミコトの気持ちがまったく理解できなくて、思わず眉間にしわを寄せた。
「じゃあな」
そしてミコトを一瞥することもなくその場から立ち去った。
背後でミコトが何かを叫んでいたかのようにも聞こえたが、俺には関係のないことだ。
もう、何もかもがどうでもよくて、ただ面倒くさかった。




