私ね……。あなたの音だけが聞こえなくなったの
「そろそろ帰りますか」
練習室の窓から入ってくる太陽の光が茜色になったのを見て、私は今日の作業を終了させた。
今日の晩御飯はなんだろな~って思いながら、大神殿の廊下を歩いていると、ふと廊下の先にルートヴィヒと御琴ちゃんの姿が見えた。
ルートヴィヒと御琴ちゃんが2人並んで歩いてる。ルートヴィヒの腕にはしっかりと御琴ちゃんが自分の腕を絡めてて、なんならあれ、胸を押し付けてない?
なんて思いながら遠目に眺めていると、なんだか2人が仲良さそうに話している様子が目に映った。
少しばかりルートヴィヒが圧されている感じはあったけど、すごく親しげな雰囲気だった。
あのルートヴィヒもすっかり丸くなったというか、俺様感があまりしなくなったからか、確かに御琴ちゃんが好きになるのもわかるような気がした。
「このまま付き合っちゃうのかしら……」
私は思わずつぶやいた。
小説のストーリーでは御琴ちゃんはルートヴィヒではなく男主人公と結ばれる結末だった。でも、男主人公は未だに現れていないし、ルートヴィヒが大聖楽師候補に挙がっている時点で、まるでルートヴィヒが男主人公のような立場になっている。
「あれ、私ってヒロインの当て馬的な?」
ふと、ストーリー上いるはずのないもう一人の異世界人である私の立場が、まるでルートヴィヒのような立場になっていることに気づく。
「やだな~」
当て馬も何も、私はルートヴィヒに対して特別な感情はもっていないって。そりゃ、ちょっと関係性を進めてもいいかなって思ったけど、でも結局進められていない。
一夜の過ちを2回やらかしたけど、それでも付き合おうとも恋人になろうとも、そんな話題は出なかった。
だから、私とルートヴィヒの間には恋愛感情というものはない。
うん、ない。これっぽっちも、きっぱりと、ない!
そうやって一人であれこれ考えて、ふと視線を上げればバチっとルートヴィヒと視線が絡んだ。
「あ、やば」
私はそそくさとルートヴィヒの視界から逃げるよう大神殿から飛び出した。なんでかって?
「アマネ!」
後ろからルートヴィヒの追いかけてくる声が聞こえるんだもん!
「おい、待て!」
ルートヴィヒが追いかけてくるけど、私は全力で走る。だって! だって!
「なんで追いかけてくるのよ!?」
私は思わず叫ぶ。
「お前が逃げるからだろ!」
後ろからそんな声が返ってくる。いや、逃げるでしょ? なんで追いかけてくるのよ!?
「とにかく止まれ!」
「いや!」
私は走り続けた。でもね、私もルートヴィヒも馬鹿だよね。
だって、ゴールは二人が泊っている宿屋なんだよ?
私の目的地なんてバレバレじゃん?
走るだけ無駄だったってことでしょ!?
とにかく自分の部屋にダッシュで逃げ込もうと宿屋の階段を走ってのぼって、そうしてドアの鍵を開けたところで後ろからすごい力で部屋の中に押し込まれた。
「ひあっ!?」
背中には自分の体温よりも熱くて広い感触があって、服越しでもわかるくらいにドッドッドッて早い鼓動が伝わってくる。多分、BPM140くらい?
それから、カチッと扉の内鍵がかかる音が聞こえて、私はあわてて後ろを振り向いた。
「なんで鍵をしめるのよ!」
「また逃げるかもっ、しれないからだろっ!?」
私の後ろに立っていたのは、肩で荒々しく呼吸を繰り返しているルートヴィヒだった。
「なんで逃げたっ」
「に、逃げてないし、ルートヴィヒが、追いかけてくるから、怖くて走っただけだし」
私も息を何度も吸って吐いてしながら、彼に文句をぶつけた。
ぐ、とルートヴィヒが口をつぐめば、しばらくの間、二人の粗い呼吸だけが部屋の中に響いていた。
それから、ようやく呼吸が整ったのか、ルートヴィヒが額の汗をはらいながら深いため息をつく。
「久しぶりにまともに顔を見たと思ったら、逃げ出すんだからな。追いかけたくもなる」
そっとルートヴィヒの手が、私の頬に触れようと伸びてきて、私は思わず一歩後ろに下がった。
「ここ最近、ずっと俺の事を避けていただろう?」
触れることのできなかった手を所在なさげにひっこめると、ルートヴィヒがじろりとにらんできた。
「避けてません。むしろ、ルートヴィヒが忙しそうにしているから、そうなってただけです」
まるで子供がすねた時のような口調で言い返しながら、私は負けじとルートヴィヒをにらみつける。
それからふと、そう言えば私がルートヴィヒと初めて出会ったときもこうやってにらみつけあったことを思い出す。
あの時は絶対に負けるもんかってルートヴィヒから視線をそらさなかったけど、今日は彼の視線から逃れたくて思わずそらしてしまった。
「な、何か用?」
自分の足先を見ながら、私はルートヴィヒに尋ねた。
「そろそろ、契約が切れるだろ?」
「え? あ……そうね」
つま先で床をいじりながら、私は顔を上げずにそう答えた。
「再契約しないか?」
その言葉はある意味予想できていて、でもある意味予想外だった。御琴ちゃんが現れてから、ルートヴィヒは御琴ちゃんにかかりっきりだったし、その前にシュタインウェイでの神聖曲の練習を私には聞かせたくないと大聖堂に入れてくれなかった。
だからもう、私には見切りをつけたんだって思ってたのに。
私は顔を上げられないまま、前々から考えていたことを口にした。
「浄化聖曲の巡回演奏はもう終わったでしょ。再契約する必要はないと思うんだけど……」
「それは! ……そうだけど。でも、俺はこれからも俺が弾くピアノの調律はアマネにしてほしい」
私もそのつもりだった。ルートヴィヒの奏でる音だけが聞こえなくなるまでは。
でも、聞こえない音をどうやって判断して、調律にフィードバックさせたらいいのか。
無理な話なのよ。
「神器シュタインウェイの演奏を聴いた時、私は別に必要ないかなって……。だから、私、師匠の元に帰る」
「そんなことない!」
がっ、と信じられない力で両肩を握られて、私は驚いて顔を上げた。そうしたら、必死の形相でまるで私にすがるようなルートヴィヒの顔がそこにあった。
「あれは本当に特別なピアノだ。でも、あの音は俺の音じゃない! ただ押しただけでものすごくよく鳴り響くピアノに、俺が上手に弾かされられただけだ!」
「それでも……あの時の演奏は、完璧だったよ……。私なんかじゃかないっこない、今までで一番の演奏だった」
その時のルートヴィヒの表情が酷く苦し気に歪んだのを見て、あの時の演奏はルートヴィヒにとっては苦しいものだったのだと、初めて理解した。
「自分の努力ではない、何か別の力ではるかにいいものを与えられても、俺はうれしくない」
それは、今の私が自分の無力感に打ちのめされているのと同じような、そんな苦しげな声で。
ルートヴィヒも、あの試し弾き以降、ずっと苦しい思いをしているんだろうか。
「でも何より、一番嫌なのはアマネが苦しんでいることが嫌だ。あんなまがいものの音に振り回されて、俺とアマネの作る音が見つからなくなるのは、一番嫌だ」
そう言ってルートヴィヒは私をぎゅっと抱きしめた。ルートヴィヒの温もりが、熱いほどの熱が私の体を包む。
「もう一度シュタインウェイを弾いた時、その演奏をアマネに聴かれたくなかったのは、もうこれ以上あの音を覚えてほしくなかったからだ」
ルートヴィヒの言葉に、私は思わず目を見開く。だって、あの演奏を聴いたとき、私もルートヴィヒもすごくいい音だって思ったじゃない。それなのにどうして?
「アマネ、シュタインウェイでの演奏を聞いてから、何かにとりつかれたようになっていた。アマネが整えてくれたピアノの音じゃなくなってた。だからっ」
ルートヴィヒは、私が調律に苦しんでいたことに気づいていたんだ。
それで、わざと2回目に弾いた時の演奏を聴かせないようにしたんだって、ルートヴィヒの配慮に気づいた。
「もう一度再契約してほしい。俺と一緒に、俺たちの演奏を作り上げてほしい」
ああ、なんて甘い誘い文句なんだろうって、そう思った。
もし、私の耳がおかしくなっていなかったら、すぐにでも首を縦に振っていたと思う。
2人で互いに刺激し合って、刺激を受けて、そうして私たちの理想の音楽に到達する。
そんなことをルートヴィヒと出来たなら、きっとすごく幸せなんだろう。
でも、私にはできない。
「ごめんなさい、ルートヴィヒ」
私がそう口にした瞬間、ルートヴィヒが息を飲む音が聞こえた。
「私ね……。あなたの音だけが聞こえなくなったの」
「え?」
「こうやって話すことも、私が調律することも、他の人の演奏を聴くことはできるのに、ルートヴィヒの奏でる音だけが聞こえなくなった。私の記憶の中にあるはずの、あなたの音だけが、きれいさっぱり消えてしまったの」
ルートヴィヒの音は、私の理想の音だった。その感情の記憶は残っている。でも、どんな音だったかは、まったく思い出せなくて。
「だから……。もうルートヴィヒのためには調律できなくなったの」
「嘘だ」
私の言葉を遮るようにルートヴィヒが声を上げた。それから、私を抱きしめている彼の腕にさらに力がこもって。
苦しかったけど、それでもその苦しさがなぜだか心地よくて。
「……嘘じゃないわ」
「そんな……俺の音だけ聞こえないとか、ありえないだろ?」
「でも、聞こえないのよ」
そう言って私はルートヴィヒの体を押して、彼の腕から逃れた。それから少し距離をおいて、ルートヴィヒと向かい合う。
「俺から離れるな! 俺が何とかしてやるから!」
それは、すごく力強くて魅力的な言葉だった。ルートヴィヒなら本当に何とかしてくれるのかもしれないと、そんな淡い期待を抱かせる殺し文句。
だけど今はその言葉がなんだか重たく感じて、私は思わず視線を床に落としたままつぶやいた。
「もう無理よ……私じゃあなたの音楽を作れない」
「っ!」
ルートヴィヒの息を飲む音が聞こえて。それから、しばらく沈黙がその場を支配した。




