ルートヴィヒ様の目の前から消えてよ! あなたがいると邪魔なの!
大神殿のピアノの状態は様々で、ほとんど手を付けなくていいものもあれば、内部のさび落としが必要なくらいの子もあった。
今日のピアノはちょっと音が狂っていて前回の調律から結構時間がたっているような感じだった。
とりあえずは掃除して、それから弦の張り具合やハンマーの当たり具合、鍵盤の沈み具合など、細かい整調作業をした。
整調作業が終われば今度は調律に入る。
トトーン、とピアノを打鍵して、音のうねりに耳を澄ませる。ハンマーで微調整をしながら音を整えていくこの時間が、私は一番好きだった。
何もややこしいことは考えない。雑念のすべてを一旦捨てて、ただ音だけに集中する。
ピアノの響きや、部屋の空気までも調律して整えていくような感覚。
ここ最近、いろいろなことがありすぎて、私自身の心も整っていなかったから、私は調律をしながら自分の頭を空っぽにしていく。
そうして大神殿のピアノを調律し始めてから、1週間ほどがたった。
あれから、私はルートヴィヒとまともに会話をしていない。
というか、顔を合わせないように私が意識してた。
時々ルートヴィヒと御琴ちゃんのレッスンは見学させてもらってたけど、やっぱりルートヴィヒの演奏する音だけが聞こえない状態は続いていた。
でも、それ以外の音は問題なく聞こえるの。だからまだ誰も私がルートヴィヒの演奏するピアノの音だけが聞こえなくなっていることに気づいていない。
ルートヴィヒが弾き始めた瞬間、彼の音だけが無音になる。
最初は耳自体が悪くなったのかと焦ったけど、たぶんこれ、気持ちの問題なんだろうな。心因性ってやつ?
なんでだろうって、あれからしばらく考えたけど、私の中でルートヴィヒの音に対する執着心が強いからだろうって結論が出た。
だって、ルートヴィヒの奏でる音は、かつての私が目指していた音だったから。
高校生の頃の記憶がよみがえる。
あの頃の私は、それこそ空いた時間があればピアノの練習をしてた。なんなら、授業中でも頭の中でピアノの音を鳴らしながら、指を動かし続けてた。
それくらいに、私はピアノを弾くことにのめり込んでいた。
そんな私がこんなふうな音を奏でたいと、願って願って、気が触れたんじゃないかってくらいにあこがれていた音が、ルートヴィヒの指先から紡ぎ出されるんだもん。
はじめて、ラウルゴの神殿ピアノでルートヴィヒの演奏を聴いた時。その時、本当はルートヴィヒについて行って、私の理想の音を一緒に追いかけたいって思った。
だから、ルートヴィヒの方から専属契約の話をしてくれたのは、実はすごくうれしかったの。
ルートヴィヒも自分の理想の音を完成させるためには、私が必要なんだって思ってくれたってことだから。
でも、本当はそうじゃなかった。
私は必要なかった。
神器シュタインウェイを弾いたルートヴィヒの音は、まさに私の理想通り、いや、その理想をはるかに超えた高みにある音だった。
高校生時代の私の理想なんてまだまだちっぽけなもので、ルートヴィヒと一緒に作り上げた音ですらも、マイスターの調律したピアノとルートヴィヒの演奏の前では子供のお遊びみたいなものだったんだって。
その時、ハンマーを回す手に力が入りすぎて、ビィンッ! とピアノの弦が切れてしまった。
「あっ……」
雑念を追い払っていたつもりだったのに、いつの間にか雑念に囚われていたことに気づく。
古いピアノや長く放置されていたピアノならいざしらず、チューニングハンマーをまわし過ぎて弦を切るなんて、調律学校に入りたての新入生くらいしかやらないことなのに。
「ルートヴィヒ様や大司祭様がすごく褒めていたから、どんな調律師なんだろうって思ったけどぉ? 声をかけてもぼーっとしてて気づかないし、やっと動いたと思ったら弦を切っちゃってるし~」
急にそんな声をかけられて。驚いて部屋の入り口の方を見たら御琴ちゃんが立ってた。
「あ、今のは、ちょっと手に力が入りすぎちゃって」
御琴ちゃんの言葉に私は思わず言い訳をした。
「ふぅ~ん……」
御琴ちゃんが納得できないと言ったように私を見てくる。
「ルートヴィヒ様ってば、レッスンの時はレッスンのこと以外のお話はしないし、休憩時間はあなたのことばかり話すし、つまんない」
「え? それはどういう?」
御琴ちゃんの言葉に私は思わず聞き返した。
「たかが調律師に、なんでルートヴィヒ様は気をかけてるのかしら」
そう言って御琴ちゃんはぷいと横を向いた。
「たかが調律師……」
私は思わずつぶやいた。
「あ、ごめんなさい。つい本音が……」
私のつぶやきをどう勘違いしたのか、御琴ちゃんが慌てて謝ってくる。
でもその言い方って、謝っているように聞こえるけど謝ってないよね?
私は思わず苦笑してしまう。
「まあ、ルートヴィヒが何を考えているかなんて私にはわからないから、彼に直接聞いてみたら?」
私がそう言うと、御琴ちゃんがちょっとだけ眉をひそめた。
「なんか、余裕ある感じでむかつく」
「え?」
御琴ちゃんの言いように私は思わず聞き返した。
「なんで? せっかくルートヴィヒ様とずっと一緒にいるのに、どうしてあなたの話ばっかり聞かされるのよ!」
いきなり私に向かって御琴ちゃんは感情をぶつけてきた。なんだか情緒不安定? いや、違うか。
これはたぶん、嫉妬だ。
若いなぁって、その時私は思った。
「御琴ちゃんって何歳?」
「は? なんで急に年齢なんて……」
「いや、若くていいなぁって思って」
私の返事に御琴ちゃんは首を傾げた。
「17歳だけど……なによ」
「わっかーい! 私より7つも年下なんだ~!」
私は思わず笑ってしまって、それで御琴ちゃんはますますムスッとした表情を浮かべる。
「な、なによそれ。ライバルにもならないって、そう言いたいの!?」
「え? ライバル? なんで?」
御琴ちゃんの言葉に、私は思わず聞き返した。御琴ちゃんってルートヴィヒのことが本気で好きなのかな?
「私とルートヴィヒはそもそも契約を交わしただけの聖楽師と調律師だし。それ以上の感情は何もないわよ?」
私がそう御琴ちゃんに言うと、御琴ちゃんは眉根をぎゅっと寄せて、ギッとにらんできた。
「じゃあルートヴィヒ様の目の前から消えてよ! あなたがいると邪魔なの!」
すっごいドストレートに感情をぶつけられて、私はかえって冷静になっていく。
「言われなくても、もうすぐで契約期間も切れるから、そしたら私はラウルゴに帰るわよ」
「え?」
御琴ちゃんはちょっと驚いたように私の方を見た。
「あくまで半年の契約期間で巡回演奏について回るって契約だったし」
私の言葉に御琴ちゃんは信じられないものを見るような目をする。うーん、それを信じてもらえなかったら、何を言えばいいのよ。
「残り1週間。それで私はここからいなくなるから、安心して」
私はそう言って御琴ちゃんに微笑んだ。
私がいなくなったら、ルートヴィヒもこれ以上私に関する話題も出さなくなるだろう。
「作業の邪魔になるから、そろそろいいかしら?」
年長者の余裕を見せるように私はにっこりと微笑んで見せる。
「なによ、余裕見せちゃってぇ」
御琴ちゃんは悔しそうに下唇を噛む。
「あなたなんかに、ルートヴィヒ様は渡さないから!」
そう言うと御琴ちゃんはくるりと踵を返して部屋を出て行った。
御琴ちゃんが出て行ってから、しばらくしてようやく私は体の中に溜まった息をすべて吐き出すように、長いため息をついた。
「あのガツガツ感は、若くないと出せないわよね~」
誰に言うでもなく、独り言をつぶやく。
「とにかく、残りの1週間。やることやって、はやく師匠のところに帰る。それだけよ。それだけ……」
私は自分自身に言い聞かせるように、もう一度つぶやいた。




