いつの間に想いあがっていたんだろう。
それから、ルートヴィヒは数日かけて大曲である神聖曲の譜読みを終わらせ、弾きこなすための練習を始めた。
実際の演奏が始まれば、私の出番がやってきて。
「どうしてもこの高音域が気に入らない」
「わかった。触ってみるね」
ルートヴィヒのリクエストに応えるように、私は練習用のピアノの調律をした。
でも、完成形として弾くのは神器シュタインウェイで、今の私の技術ではあの音に近づけるほどの調律はできない。
私の耳の中ではあの時のルートヴィヒの演奏が聞こえているのに、私が調律したピアノから聞こえてくる音は全然違う音。
「うーん……」
きっとルートヴィヒもそのことを感じているからか、なんとなくすっきりとしない表情を見せる。
ルートヴィヒならもっとここは響かせることができるはず。この和音ももっと深い響きを出せるはず。
頭の中の理想の音と、現実に聞こえてくる音の差に、私は焦りを感じ始めていた。
「アマネ、休憩しよう」
「え……」
何度も打鍵しながら耳を澄ませていた私に、ルートヴィヒが話しかけてきた。
「でも、まだここの整音が終わってないから」
「はぁ……」
私の言葉に、ルートヴィヒがため息をついた。
ため息をつかれたことに、私の体がびくっと震えた。
「あんまり根を詰め過ぎるな。まだ俺自身の演奏も固まっていないんだ」
「それはわかってる。でも、それでもこの子はもっと謳えるようになるはずだから……」
「それでも! いったん休憩だ」
急に大きな声を出されて、私は体を小さくした。
「あ、いや……。大きな声を出して済まない……。適度な休憩で頭がすっきりするだろうし、食事をとらないと体力が持たないぞ?」
「わ、わかってるから。大丈夫。もう少しだけやったら、食事も休憩もとるから」
はぁ、ともう一度ルートヴィヒはため息をついた。
なんでだろう。彼がため息をつくたびに、私が彼にため息をつかせているんだって思ってしまう。
「わかった。無理をするなよ?」
「うん」
ルートヴィヒは練習室から出ていったけど、私はピアノの前に座ってもう一度耳を澄ませた。
ルートヴィヒが奏でる音を思い描いて、最大限に響かせられるよう調律をしていく。
でも、やっぱりどうしても違う。
ルートヴィヒは練習中だし、ピアノ自体が違うんだって言ってくれたけど、たぶん神器シュタインウェイを調律したマイスターなら、この子であってももっといい響きを引き出したと思う。
「なんで……なんで……」
ぽたっ、ぽたっ、と鍵盤の上に涙の粒が落ちていく。
悔しい。なんでできないんだろう、私。
ルートヴィヒにあきれられるのが怖くて、ルートヴィヒが求める最高に美しい音が出せないことが苦しくて、こんな自分が許せなくて、涙がどんどんあふれてきて止まらない。
泣くもんかって思う。泣いたって音は良くならないってわかってる。
でも、思いあがっていた自分の現実を知って、それが悔しくて苦しくて、涙が止まらない。
師匠や元の世界で習った知識のおかげで、ちょっと他の調律師よりもできることが多かっただけなのに。
いつの間に想いあがっていたんだろう。
天響、あんたはまだまだ調律師の入り口に立ったばっかりなのに、一角の調律師になった気でいたの?
「馬鹿みたい……」
ぽつりとつぶやいた言葉が、自分の心に深く刺さっていく。
ピアノの前で涙をこぼしたまま、私はしばらく動くことができなかった。
「やっぱり気になって戻ってきたんだが……」
私が顔をあげると、練習室にルートヴィヒが入ってきたところだった。
「なんで泣いているんだ!?」
私は慌てて顔をそらしたけど、ルートヴィヒは私の方に歩いてきてしゃがむと私の顔を覗き込んできて。
「俺に何かできることはあるか?」
「……ないよ」
そんなの、あるわけない。だって、これは私の問題で、ルートヴィヒは関係ない。
「でも……」
「いいから、放っておいて!」
私は思わずルートヴィヒの手を払いのけていた。
「……わかった」
ルートヴィヒはそう言うと、練習室から出ていった。
次の日、ルートヴィヒは練習室に来なかった。
私が練習室の前で待っていても、彼はいつまでたっても姿を現さない。
私は彼がいないと練習室に入ることも、ピアノの調律をすることすらできないのに。
なんで? なんで来ないの? なんで私の前に姿を見せてくれないの?
ピアノの練習は一日でも休めば指が動かなくなるじゃない?
今日は、このまま来ないつもりなの?
頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、不安ばかりで。それにどんどん押しつぶされてしまいそうになる。
息が苦しい……。
「あ、もしかして……」
ふと、思い当ることがあって、私はすぐに移動した。
神器シュタインウェイのある大聖堂へ。
そして、近づけば近づくほどに彼の音が聞こえてくることに気づいた。
まさか、今日はシュタインウェイで練習しているの!?
私は逸る気持ちを抑えて、神器シュタインウェイが置かれている大聖堂へと入ろうとした。
すると、私の目の前に現れたのは大司祭様だった。
「いけません」
「……え?」
突然の制止の言葉に、私は首を傾げる。
なんで? だって私……ルートヴィヒの音を聴きに来たのに……。
「あなたは聴いてはいけないと、ルートヴィヒが言っていました」
大司祭様はそう言いながら首を横に振った。
「どうして……?」
そんなのおかしい! なんでルートヴィヒの演奏を聴いてはいけないの!?
「そんなっ……そんなのってないです!」
私は大司祭様を押しのけるようにして、大聖堂の中に入ろうとした。
でも、大司祭様は私の肩を掴んで押しとどめてくる。
「ルートヴィヒが望んでいません」
「どうして!?」
私は大司祭様の手を振りほどいて叫んだ。
「私が聴きたいって言ってるんです! 私が聴きたいから聴くんです!」
「いけません」
「なんでですか!? なんで私がルートヴィヒの演奏を聴いちゃいけないの!?」
なんとしてでも大聖堂の中に入りたくて、私は必死でもがく。
「アマネさん、落ち着いてください」
「私はっ!」
大司祭様に腕を掴まれて、私は叫んだ。
「私は……っ!」
もう、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
彼の音をもっとよく響かせるのは、私の役割じゃなかったの!?
シュタインウェイがあるから、もう私はいらないの?
いらないから、私に演奏を聴かせてくれないの!?
その時、私の頭の中でプツンと、何か張り詰めた糸のようなものが切れる音が聞こえた。
「え……」
途端に、それまで扉越しに聞こえていたルートヴィヒの演奏が聞こえなくなった。
「アマネさん?」
私の名前を呼ぶ大司祭様の声は聞こえる。
けど、ルートヴィヒの演奏だけが突然、イヤホンが抜けてしまったかのように何も聞こえなくなった。
いや、まさかそんなはずはない。
ただ、ルートヴィヒが演奏するのを止めただけだよね。
呆然と立ちすくんでいた私の様子に、大司祭様の腕の力が抜けた。
私はその隙をついて、大聖堂の扉を押し開けて中に入った。
「アマネさんっ!」
大聖堂の中心には変わらず神器シュタインウェイが鎮座している。そして、その前にはルートヴィヒが座っていた。
その指はまだ動き続けていて、彼の体も動いている。
のに、音が何も聞こえない。
「なんで……どうして?」
私は呆然としながら呟いた。
なんで、私の耳には何も聞こえないの?
「アマネ?」
私に気づいたルートヴィヒが演奏を止めて、私の方を見た。その瞳には、明らかに私を咎める色が浮かんでいて。
「!」
思わず私は振り返って走り出していた。
「アマネっ!?」
背後からルートヴィヒの慌てた声が聞こえたけど、私はそれから逃げるように走り続けた。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……っ」
どれくらい走ったか覚えていない。でも、気がついた時には私はもう息を切らしていて、体中にぐっしょりと汗をかいていた。
「う……うぐっ……」
もう駄目だってくらいに息が苦しいのに、私の目からは涙があふれ出てくる。
なんで? なんでこんなことになってるの? ただルートヴィヒの演奏を聴きたかっただけなんだよ?
それで突然耳がおかしくなって、ルートヴィヒの演奏だけが聞こえなくなって。
「なに、それ……おかしいでしょ?」
ブルブルと震える手を私はぎゅっと握りこむ。
昨日まではうるさいくらいに耳の中に残っていたルートヴィヒの残響も、今は何も聞こえない。
王都の人のざわめきや、時折通り過ぎていく馬車の音は聞こえるのに。
「ルートヴィヒの音だけが……」
すっぽりと、私の中から消え去っていた。