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今までと全然違った! すごい! すごいよ!





「それ、本気でそんなことを思ってるの?」


 私は思わず低い声が出た。


「ア、アマネ?」


 私の声のトーンが変わったことに気が付いたのか、ルートヴィヒが驚いた表情をする。でも、今の私には彼を気遣う余裕はなかった。


「本気でそんなふうに思っているの?」


 私は自分でも信じられないほど腹が立っていた。ルートヴィヒの行動に、とにかく無性に腹が立った。


「だったら、私の手と交換してよ!」


 私の叫び声は静かな神殿の中に響き渡った。


「……!」


 ルートヴィヒが目を見開いて、私を見る。


「大事な手やピアノに八つ当たりしないでよ!」


 私は感情のままにそう叫んだ後、目じりに涙を浮かべていたことに気が付いた。


「弾きたくても弾けない人間だっているのに、あなたは一時の戸惑いに怒りを爆発させて、八つ当たりして、最低よ! 馬鹿!」


 もうそれが合図だったみたいに涙があふれて止まらない。


「ルートヴィヒのばかぁっ! あんたの音に、惹かれたから契約したのにっ……なんでこんなこと、するのよっ……!」


 一度溢れた感情は全く止められなくて、泣きたくもないのに勝手に涙が溢れてくるし、一度泣き出したらもう止まらないし。


 私はルートヴィヒのお腹の上に馬乗りになったまま、次から次へと溢れてくる涙を何度もぬぐい続けた。


 そんな私の腕をルートヴィヒはそっとつかむと、自分のお腹の上から私の体をどかそうとした。


 でも、私はそれを拒むようにルートヴィヒの胸にしがみついて声を上げて泣き続ける。


「アマネ……」


 困ったように名前を呼ぶルートヴィヒの声が、さっきまでとは打って変わって優しく響いて、私はただ泣き続けた。


 しばらくそうしていたら少し落ち着いてきて、まだ油断すると涙が溢れてくるけれど、私は体を起こした。


 するとルートヴィヒも体を起こしてきて、私はあわててルートヴィヒの上から退いた。


「アマネ」


 泣きすぎてしゃくりあげている私の涙を、ルートヴィヒは右手でそっと拭ってきた。


「落ち着いたか?」


「うん……ごめんなさい」


 私が素直に謝ると、彼は安心したように息を吐いた。


「師匠以外の人にあんなに怒鳴られたのは、初めてだ」


「わ、私だってあんな大声を出したのは初めてよ」


 まさか自分があんな風に感情を爆発させるとは思ってもみなかった。


「その…………悪かったな」


 ルートヴィヒはなんだか気まずそうに謝った。


「昨日、師匠に言われたことがショックで……どれだけ弾いても師匠が言うことの意味が分からないし、弾けば弾くほど演奏がすさんでいくのが苦しくて……。そんなときにアマネの癒しの聖曲を聞いて、頭を横殴りにされたようなショックを受けたんだ」


「私の演奏で?」


「ああ」


 ルートヴィヒは頷くと、少しだけためらった様子を見せてから、決心したように口を開いた。


「俺はあんなふうに演奏することはできないって。あんな包み込むような音を奏でることはできないって。そう思ったら苦しくてたまらなくなって……。もういっそのこと、ピアノが弾けなくなった方が言い訳できるとか、そんなことを考えた」


「……その出口がない感じ、わかる気がする」


 私の言葉に、ルートヴィヒの目がかすかに見開かれるのが見えた。


「私もそうなんだけど、人のことはよく見えても、自分のことって見えてないんだよね」


 私はさっきまでルートヴィヒが座っていた椅子に座った。


 そして、一つ呼吸をしてから昨夜の女の子の火傷を癒した時と同じ、癒しの聖曲を弾き始める。


 トイピアノとは違って、神殿ピアノは私のタッチを余すところなく拾い上げ、音楽として歌ってくれる。ルートヴィヒの師匠が調律した神殿ピアノは、どこまでも素直な音を響かせてくれるんだと気づく。多分それは、彼がとても素直な気持ちでこのピアノを整えてくれているから。


 だから、私も素直に自分の思いを乗せて指を動かす。


 ルートヴィヒの手が癒されますように。ルートヴィヒの心の痛みが消えますように。


 そんな願いをいち音いち音に込めながら、私は指を滑らせていく。


「アマネ……」


 名前を呼ばれて、私は演奏しながらルートヴィヒを見た。


 さっきまで泣いていたのは私なのに、今は彼が泣きそうな顔をしている。


「俺のことを思って弾いてくれているのか?」


 自分の手に魔力のこもった光の粒が宿っているのを見ながら、ルートヴィヒは声を震わせながら言った。


「アマネは、優しいな」


「優しいとかそう言うのじゃなくて、人間として当たり前でしょ?」


 単純なメロディだから私は会話をしながら演奏を続けた。


 私の魔力と音とが交じり合いはじけて、ルートヴィヒの痛んだ右手に吸い込まれていく。


「俺のために誰かが演奏してくれるのは初めてだ」


 割れた爪が元通りになり、内出血して赤黒く腫れあがっていた右拳が、見る見るうちに癒されているのを不思議そうに見ながら、ルートヴィヒはぽつりとつぶやいた。


「私がいくらでも、何度でもルートヴィヒのために弾いてあげるわ。それが聖曲なんでしょ?」


 私は演奏を続けながら答えた。


「師匠に教えられた聖曲の意味を思い出した」


 ぽつり、とルートヴィヒがつぶやく。


「ただ技術があってもダメ。魔力を単純に乗せるだけでもダメ。その演奏と魔力を通じて誰のために何をなし得たいのか。そのことをはっきりと思い描きながら演奏すること……。師匠はそう俺に教えてくれた」


「誰のために何をなし得たいのか……か。今の私は、ルートヴィヒの心が癒されることを願って弾いているの」


「!」


 神殿ピアノは気持ちいいくらいに私の魔力を吸い上げて昇華していくのがわかる。不思議と胸がどきどきとしているのに、頭は返って冷静で。


 このフレーズはこういうタッチで弾きたい、もっとルートヴィヒの心に沁み込むような音を出したい。


 そんな思いが次々と溢れてくる。


「私も、元の世界の先生に同じようなことを言われたわ。音楽において、音とリズムは手段でしかない。本質は、それらを使って何を伝えたいのかを考えながら演奏することだって」


 それは私にとっては大きな意味のある言葉だった。それはピアニストにはなれなかったけれど、調律師としてピアノにかかわり続けている今の私にとっても大事な言葉だった。


「だから、足りなかったら言って? 何度でも弾くから」


 そう言って私はルートヴィヒに笑って見せた。


 そうしたら、彼は私が想像もしないような行動にでた。


 急に私を思い切り抱きしめてきた。それも結構な力強さで。


「ちょっ……!?」


「アマネ……っ」


 突然の抱擁と至近距離から聞こえる彼の声に、私の心臓がどきんと大きく高鳴る。


 でも、そんな私の動揺なんてお構いなしにルートヴィヒは私を強く抱きしめ続ける。


「苦しいんだけど!」


「なんとなく、わかったような気がする」


「何が?」


 ルートヴィヒの言葉の意味がわからなくて、私は思わず聞き返す。すると、彼は私を抱きしめたまま答えた。


「俺はずっと師匠から言われた言葉が理解できなくて、ただ弾くことに必死になっていた。でも、それは俺の独りよがりな演奏で……。聖曲を弾くことによって、何をしたいかなんて何も考えていなかった」


「……」


 私はただ黙ってルートヴィヒの言葉を聞いていた。


「でも、アマネのこの演奏は俺のために弾いてくれたんだろう? 俺のためだけに音を紡いでくれた」


 ルートヴィヒはそう言うと、私を抱きしめていた腕をゆっくりとほどいて私の目を覗き込んだ。


 その目があまりにまっすぐで真剣で、思わず心臓がどきんと大きく音を立てる。


「アマネなら、もしも俺のように神殿ピアノので浄化聖曲を弾くなら、何を願う?」


「何を……願う?」


 そう問い返された私は、アダジオの自然豊かな風景を思い出した。


 アダジオの人たちの笑顔と、やさしいおかみさんや昨日の女の子の顔が思い浮かぶ。


「ここの人たちが、笑顔になれますように。大地や空気がきれいになって、アダジオのきれいな景色が守られますように、かな」


「そうか。そういうことなんだ」


 何かを掴んだのか、ルートヴィヒが自分の手を見ながらそう呟いた。


「その……弾く?」


 なんとなく、今なら彼が演奏できそうな気がして、私は椅子から立ち上がった。


「ああ……ありがとう」


 ルートヴィヒに素直にお礼を言われたことに驚いたけど、今の彼ならなんとなくそれは自然なことだと感じる。


 私は彼の集中を乱さないようにそっとピアノから離れて、距離を開けた席に座った。


 しばらく瞑目していたルートヴィヒが長く息を吐く。それから、滑らかに彼の手が鍵盤の上に乗せられた。


 その演奏は、最初の一音から今までと全く違っていた。


 今までの演奏はとにかく透き通ったきれいな糸を張り巡らせていくようなイメージを受け取っていたけれど、今日の演奏はとても温かなものを感じた。


 その温かな何かがアダジオを覆い包むようなそんなイメージ。


 それは今までよりもさらに透明でそして強固で、そして清らかで。ルートヴィヒの心がそのまま音になったかのようで。


 私は思わず、演奏の邪魔にならないように呼吸をすることすらなるべく我慢していた。


 この礼拝堂がすべて、ルートヴィヒの想いで満たされていく。


 今までの演奏でも十分だと思っていたけれど、今日のルートヴィヒの演奏はそれまでのものとは比べ物にはならなかった。彼の紡ぐ音のひとつひとつに、浄化聖曲を通してルートヴィヒが何を伝えたくて何を願っているのかがはっきりとわかる。


 そうして、最後の一音が天に吸い込まれて。この神殿を中心にした一帯が完全に浄化されたことを私も感じ取った。


 私は思わず立ち上がって、彼に駆け寄っていた。


「今までと全然違った! すごい! すごいよ!」


 私が興奮してまくしたてると、彼は少し困ったように笑った。


「アマネのおかげだ」


「私?」


 ルートヴィヒにそう言われて、私は思わず首をかしげてしまう。でも、彼はそれには答えずに視線をピアノに移した。


「アマネのおかげで、師匠の言っていた俺に足りていないものがわかったから」


 ルートヴィヒはそう言うと、ピアノ椅子から立ち上がって私に向き直る。そして、今まで見たことのない、優しくて本当にうれしそうな笑顔を私に見せてくれた。




「ふんっ、本気になるのが遅すぎるんじゃ! こんなにできるんなら、もっと早くにできただろうに」


 ブツブツと文句を言いながらルートヴィヒの師匠、ホロヴィートさんのその口角は嬉しそうに上がっているのを私は見逃さなかった。


「じゃが、ワシの浄化聖曲に比べればまだまだじゃの」


 そう言ってホロヴィートさんは礼拝堂の外に出ると、大きく息を吸う。それはまるで、ルートヴィヒが浄化した清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んで味わっているようだった。


「ルートヴィヒ。お前はやっと聖楽師の本質の入り口に立ったところじゃ。もっと研鑽することじゃな」


「はい。わかってます」


 ホロヴィートさんの激励の言葉に、ルートヴィヒがはっきりと頷いた。


「ならいい。ほれ、まだまだ巡回演奏は続くんじゃろ。また縁があれば会うこともあろうて」


 それだけ言うと、ホロヴィートさんは礼拝堂の出口に向かってずんずんと歩いていく。


「あ、あの!」


 私は思わずホロヴィートさんに声をかけていた。


「なんじゃ?」


「この巡回演奏が終わったら、ホロヴィートさんに調律を習いに来てもいいですか?」


 どうやったらあんなにも素直に歌うピアノに調律できるのか、私はそのことが気になって仕方なかったの。


「やめとくれ。そんなことをしたらお嬢ちゃんの師匠に、ワシが大目玉を喰らうわい」


「え?」


 ホロヴィートさん、私の師匠のことを知っている?


「あー、腹が減ったわい。串焼きを食べに行くから、じゃあの」


 私が驚いてその真意を問おうとしたけれど、ホロヴィートさんはそのままさっさと行ってしまった。


「アマネ、その……次の都市に向かっていいだろうか?」


「え、あ、うん!」


 まさかルートヴィヒが私にそんなことを尋ねてくれるなんて思ってなくて、私はびっくりした。


 言い淀んだルートヴィヒに、私は食い気味に答えた。


「だって、一人では巡回演奏はできないでしょう?」


「あ……ありがとう」


 頬を赤らめながらお礼を言ってきたルートヴィヒを見て、私は思わず笑ってしまう。


 少しだけ、ルートヴィヒが私のことを気遣ってくれたことがうれしくて、最初は嫌な奴って思ってたけど、ちょっと見直そうかなって思った。





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