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プチンと頭の中で何かが切れる音を聞いた気がした。






 あれからどれくらい時間が流れたんだろう。


 ぐう、とお腹の虫が鳴ったことで私は時間のことを思い出した。


「はああ……お腹すいた」


 そうつぶやいてから私はルートヴィヒの演奏がまだ続いているのにようやく気付いて、彼のほうを見る。


 あれからルートヴィヒは演奏を一度も止めることなく、ずっと聖楽を弾き続けている。


 正直なところ、弾けば弾くほど彼の演奏は乱れてきた。聖楽の本質を見失っているというか、彼の中の焦りが曲ににじみでているように感じて。


 正直なところ、これ以上練習しても無駄だって思ってしまった。


「ねぇ、いったん宿に帰りましょう?」


 私はルートヴィヒに声をかけた。でも、彼はこちらに背を向けたまま演奏を続けている。


「もう夕方よ? お昼ご飯も食べずに弾きっぱなしじゃない」


 お昼どころか、もうすぐ日が暮れる時間だ。いい加減にやめてほしいけれど、ルートヴィヒはいっこうに演奏を止めようとはしなかった。


「ねぇ、聞いてる?」


 私は彼の肩を軽く叩いた。それでも彼はこちらを見ようとしない。


 私は少し腹が立ってしまって思わず声を荒げた。


「……もう! どんどん曲が荒れてる! いったん気持ちをリセットしないと、いい演奏なんてできないわよ!」


 私の言葉に演奏をやめたルートヴィヒは、苦しそうな表情をしてこちらを見た。


「宿に戻ってご飯食べよ? また明日練習したらいいじゃない」


 そうして、私がルートヴィヒの腕を引っ張ると、思っていたよりも抵抗なく彼は立ち上がった。


「ほら、行くよ」


 ルートヴィヒの手を弾けば、彼は黙ってついてきた。


 あまりにも従順すぎて調子が狂うなぁって思ったけど、口にはしなかった。今の彼を刺激するのは良くない気がして。


 そうして宿屋に帰ると、おかみさんが待ってましたと言わんばかりに1階の食堂で夕食を振舞ってくれた。


 今日の夕食のメニューはオニオンソースが決め手のチキンソテーときのこたっぷりのパスタ。


「うん、ここの宿屋の食事、おいしい~!」


「ありがとねぇ。そう言ってもらえたら、おばちゃんうれしいわ」


 おかみさんがニコニコと笑いながら焼いたパンを持ってきてくれた。


「はいよ、パンお待ち! ひよこ豆のスープはおまけだよ!」


「え? いいんですか?」


「いいのいいの! 熱々だから気を付けて食べてくれ」


 おかみさんはそう言うと、私とルートヴィヒの前にかごに盛られた焼き立てのパンとひよこ豆たっぷりのスープを出してくれた。


「わ~おいしそう!」


 私はさっそくパンを手に取って頬張る。焼きたてのパンはふわふわで、小麦の香りが口の中に広がる。


「ん~おいしい~」


 チキンソテーにかかっているオニオンソースをパンで拭って食べれば、また違う味が口の中に広がって、自然と口の端が上に上がっちゃう。


 私が幸福感にひたっていると、突然、奥のテーブルの方で子供の泣き声が上がった。


「うわーん! あついよう!」


「冷たいお水をもってきて!」


 子供の声をかき消すように、大人の慌てた声が響く。思わずびっくりして声のした方を見てみると、5歳くらいの女の子が顔を真っ赤にして泣いているのと、テーブルの上にはひっくり返ったスープボウルが見えた。


「火傷した!?」


 私は椅子から立ち上がる。


「この水で冷やしな!」


 おかみさんが調理場からあわてて水の入った桶を持ってきた。


「ああ、もう大丈夫よ。すぐに冷やしたからね」


 子供の母親らしき人がそうやって声をかけながら、女の子の手を桶に入れているのが見えた。


「うう~、じんじんしていたいよぅ!」


 火傷の後がジンジンと痛む感覚を思い出して、私はそれから自分の荷物のことを思い出した。


「そうだ!」


「アマネ?」


 急に席を立った私にルートヴィヒが驚いていたけど、そんなことはお構いなしに2階の自分の部屋へと走った。そうして、置かれていた荷物の中からトイピアノを引っ張り出す。


 そうして再び1階の食堂へと降りていった。


「ちょっと火傷のあとを見せてくれる?」


 野次馬の中に突っ込んでいって、私は女の子の母親に声をかけた。


「え? あなたは……」


「ちょっとした火傷なら治せるかも」


 この世界に来て、師匠の元で調律師としての腕を磨きながら、それとは別に師匠から教えてもらったことがいくつかあった。


 その一つが、癒しの聖曲だ。


 ルートヴィヒがいつも弾いている浄化聖曲は瘴気を祓うためのものだけど、それとは別に私の魔力を癒しの力に変える、癒しの聖曲を師匠が教えてくれていたことを思い出したの。


 床に胡坐で座り込むと、私は太ももの上にトイピアノを乗せて、癒しの聖曲を奏で始める。


 トイピアノ特有のピンピンという音が、まあるい雨粒みたいにはじけて、それに私の魔力がなじんで同じようにはじけた。


 すると、それまで熱さと痛みに泣いていた女の子が泣くのを止めた。


 火傷の痛みが引きますように、痕が残りませんように。


 私は女の子への祈りを込めて曲を弾き続ける。


 トイピアノでの演奏だから、単純な旋律しか弾けないのだけれど、私はその分想いを込めて演奏した。


 やがて、曲が終わって女の子の方を見れば、すっかり泣き止んでニコニコと笑っていた。


「おてて、いたくなくなったよ! おねえちゃん、ありがとう」


「よかった」


 私はほっとして、女の子の頭を撫でた。


「アマネ、すごい……」


 ルートヴィヒが驚いたようにつぶやいた。


「え? そ、そうかな? これくらいならルートヴィヒでもできるでしょ?」


 私はちょっと照れくさくなって、思わず頭を掻く。


「確かにできる。だが、アマネの演奏は……」


 ルートヴィヒは途中で口をつぐんだ。


 え? 何? なんで? なんで急に黙るの!?


「どうかしたの?」


「いや……。もう今日は休む」


「え、あ、うん」


 どう見てもルートヴィヒの様子はおかしかった。何かをずっと考えているような、そんな雰囲気のまま彼は2階へと行ってしまった。


「いったいなんのよ、もう……」


 私は訳が分からず、思わずそう呟いた。





 翌日、いつも通りに目が覚めて、なんとなくルートヴィヒの部屋の扉をノックしてみたけど、返事はなかった。


「おはようございます」


「ああ、おはようございます! お連れさんは朝早くに外出されましたよ」


 1階の食堂に降りてみれば、おかみさんがそう教えてくれた。


「そうなんですね、教えてくれてありがとうございます」


 私はテーブルにつきながらおかみさんにお礼を言うと、おかみさんはニコニコと笑いながら朝食のパンとスープとベーコンエッグを出してくれた。


 今朝のスープはミルクスープだ。


 少し硬く焼かれたパンを浸して食べると、ミルクの優しい甘みがパンとよく合っておいしかった。


「ごちそうさまでした! ちょっと出かけてきますね!」


「はい、いってらっしゃい」


 なんとなくだけど、ルートヴィヒは先に神殿に行っているような気がして、私は神殿に向かう。


 そうして、中に入れば案の定ピアノの音が聞こえてきた。


 でも、その演奏は昨日よりも苦しく聞こえてきて、私は中に入るのをためらってしまった。


 なんでだろう。弾き込めば弾き込むほど、本来の浄化聖曲の響きから遠ざかっているように聞こえてしまう。


「はぁ……どうしよう」


 礼拝堂の中に入れずに、私は二の足を踏んでいた。


 その時だった。


 バーン! とピアノの鍵盤を強く叩く不協和音が鳴り響いて。


 私は驚いて礼拝堂の中に飛び込んだ。


「なに!? 何があったの!?」


 神殿ピアノの前に座っているルートヴィヒの姿を見つけて、私は走って近づく。そうしたら、彼の右拳がピアノの鍵盤の上にあるのが見えて。


 ルートヴィヒはもう一度、右拳をピアノの鍵盤にたたきつけた。


 ジャーン! と再び耳障りな不協和音が鳴り響く。


「ちょっと!」


 私はびっくりして、思わずルートヴィヒの腕を掴んだ。


「何してるの!? ピアノの鍵盤をたたかないで!」


「アマネには関係ない」


 ルートヴィヒが私の腕を振り払うと、また鍵盤をたたきつけた。


 不協和音が再び礼拝堂に鳴り響く。


 なんで? なんで急にこんなことになったの?


「くそっ……! 何が違うんだ……!」


 呻くように呟いてからルートヴィヒは舌打ちし、再びピアノを弾き始めた。


 もうそれは、演奏するというよりも鍵盤に八つ当たりしているように見えて。


「そんな弾き方したら、指を痛めるでしょ!?」


 思わずそう叫んだ私に、ルートヴィヒは反論する。


「うるさい! 俺の指なんかどうだっていいだろ!」


 そんなひどいことを言うルートヴィヒが許せなくて、私は思わず声を上げる。


「よくない! いいわけないじゃない! なんでそんなふうに言うのよ!?」


「だまれ!」


 ルートヴィヒはまた鍵盤をたたきつけた。


 その拍子に彼の指から血がにじみ出るのが見えた。


 私は思わず息をのむと、ルートヴィヒの右腕にかじりつくように腕を巻き付けた。


「はなせ!」


「はなさない!」


 私はルートヴィヒの右拳を両手で包み込んで、ピアノから引きはがす。そして、彼の指をそっと見た。


「やっぱり……。爪が割れてるじゃない」


 割れた爪から血がにじんでいて、私は思わず顔をしかめる。


「なんでこんな無茶なことを」


「アマネに何がわかる! 息をするように当たり前にあんな音を奏でて、お前には俺の苦しみなどわかるものか!」


「そんなことない!」


 私はルートヴィヒの言葉を即座に否定していた。


 きっとたぶん、私の方がもっと切実に理想の音に対して飢え渇いているのに、ルートヴィヒにそんなことを言われるのは心外だった。


「私よりも自在にピアノが弾けるのに、俺の苦しみは私にはわからない!? ええ! わからないわよ! 駄々っ子みたいわめいて八つ当たりしている人の気持ちなんて、わかるわけないでしょ!」


 私は思わずそう叫んでいた。


 ルートヴィヒは私の言葉を聞いて、驚いたように目を見開いている。


「駄々っ子だと……?」


「そうよ! 駄々っ子の八つ当たりよ!」


「ふざけるな!」


 ルートヴィヒはそう叫ぶと、私の手を振りほどいてもう一度ピアノの鍵盤に右手を叩きつけようとした。


 まるでそれは、自分の腕をわざと駄目にしようとしているように見えて、私はルートヴィヒの体に飛びつく。


「わっ!」


 それは勢い余ってルートヴィヒの体ごと、椅子から床へと落ちた。


 とっさのことで私は衝撃に目をつぶった。でも、思ったよりも体は痛くなくて、なんでだろうって目を開けたら、目の前にルートヴィヒの顔があった。


 それから、自分がルートヴィヒの上に乗っかっていることに気づく。


「っ! 何を考えている!」


「それはこっちのセリフよ!」


 私はルートヴィヒのお腹の上に乗ったまま、彼の両手を捕まえて叫んだ。


「私の音がなんだって言うのよ!?」


「昨日の女の子の火傷を癒した演奏! 俺はあんなふうには弾けない!」


 私の言葉を振り払うように、ルートヴィヒは激しく首を横に振った。でも、私の言葉は止まらなかった。


「それがどうしたって言うのよ! もう私はあなたの弾く音の先にしか、理想の音楽を見いだせないというのに! 八つ当たりでこんなことして! 手が壊れてしまうわよ!?」


「別にこの手が壊れたって構わない!」


 ルートヴィヒのその言葉に、私はプチンと頭の中で何かが切れる音を聞いた気がした。




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