その心構えがそもそも間違っとるわい!
宿屋に戻るとルートヴィヒが誰かと一緒にカウンターに座っているのが見えた。
まーた女性をとっかえひっかえしているみたい。私はあきれながらため息をついた。
「何してるのよ」
私が声をかけると、ルートヴィヒは振り返る。
「ああ、アマネか」
私に気づいたルートヴィヒは一瞬だけ私を見たけど、すぐに視線は隣に座る女性に向けられた。
むっ、その態度は失礼じゃないか? そう思ったけど二人の間に割って入るつもりもないし、疲れたからさっさと眠りたかったから、すぐに部屋に向かうことにした。
「部屋の鍵を下さい」
「夕食はどうするんだい?」
「外で済ませてきましたので、休みます」
心配そうな顔をしたおかみさんに申し訳ないけど、今は食事よりも睡眠の方が欲しかった。
「そうかい。ゆっくりとおやすみ」
おかみさんは私に部屋の鍵を渡してくれた。鍵を受け取ってから私は2階にあがり、部屋の鍵を開けて中に入った。
造りは古めかしいけれど、掃除の行き届いた部屋は清潔感があった。
私はベッドに腰をかけて靴を脱ぎながらため息をついた。
「……疲れた」
今日は本当に疲れた。
そう思いながら私はベッドに横になる。ふかふかの感触が私の体を優しく受け止めてくれて、そこから睡魔に襲われるまで数秒もかからなかった。
「えっ!? いま何時!?」
そうして次に目が覚めた時、窓から見える空はすっかり明るくて。
私は大慌てで身支度を済ませてから1階に降りると、ルートヴィヒはすでに朝食を食べ終わっている頃だった。
「おかみさん! 簡単に手早く食べられるものをお願いします」
「はいよ。なんとなくそんな気がしたから、サンドイッチ作っておいたよ」
「ありがとうございますっ!」
宿屋のおかみさんからサンドイッチを受け取ると、私は大急ぎで宿屋を出た。
すると、宿屋の入り口で腕組みをしてふんぞり返っているルートヴィヒに出会った。
「遅い」
なんでよ、と私が不満を口にする前にルートヴィヒはさっさと歩き出す。私は慌ててそのあとをついて行った。
「遅くないです。ルートヴィヒがせっかちなだけよ」
「ふんっ」
なんだかルートヴィヒの機嫌が悪いようで、私は居心地の悪さに肩をすくめる。
そういえば彼は、昨日の調律後の試し弾きもしていないんだった。
「昨日、なんで礼拝堂からいなくなってたの?」
「別に構わないだろう? 最初の時点でほとんど調律に問題はなかったんだ」
「そうだけど、最終確認は大事じゃない? 確認もせずに弾いた後で文句を言われても困るし」
私が口をとがらせて抗議すると、ルートヴィヒは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「あいつとなるべく会いたくないんだ」
「あいつ?」
誰だろう? 私が首をかしげると、ルートヴィヒはそれ以上何も言わなかった。
なんだか変だな、とは思ったけれどあまりしつこく聞くのもどうかなと思ったから、私はそれ以上何も言わなかった。
そうしてお行儀は悪いんだけど、歩きながらおかみさん特性のサンドイッチをほうばる。
茹で卵をつぶしてマッシュしたものとハム、それからレタスとトマトが挟んである具沢山サンドイッチを食べて終わるころ、ちょうど目的地が見えてきた。
そうして神殿に着くとすぐに礼拝堂へと通されて。
礼拝堂に入ると、すでに神殿ピアノは準備万端。
私はいつものように中央のやや後方に座ろうとした。すると、そこには昨日、串焼きをごちそうしたおじいさんが先に座っていた。
「ほっほっ。昨日はありがとうよ」
「あ、いえ」
なんでおじいさんがここに、と思ったけれど、考えてみれば元聖楽師だって言ってたし、明日の聖楽演奏が楽しみだと言っていたから、おじいさんは元から聞きに来る気満々だったんだろう。
「ここで聞くとは、ツウじゃな」
「調律師としては、音響が気になりますから」
いつも後ろよりの席で聞くのは、調律師となった時からの習慣だ。ピアニストを見るよりも、奏でる音の響きがどうしても気になるから。
神殿ピアノの椅子に腰かけたルートヴィヒが、一瞬こちらをちらりと見た。そして、げっ、というふうに表情をゆがめたのが見えて。
あれ? と思った。ルートヴィヒの視線は私ではなく、隣のおじいさんを見ていたから。
けれども、彼の浄化聖曲の演奏が始まったらそんなことはすぐに忘れてしまった。
ルートヴィヒの奏でる音は、今まで聞いた中でもさらに研ぎ澄まされて。
私はその響きにただただ魅了されていた。
演奏が終わって私が我に返ると、すでにおじいさんの姿は隣にはなく、ルートヴィヒのいる神殿ピアノの方へと歩いていた。
「馬鹿もの!」
「!」
突然おじいさんがものすごい大きな声でそう叫んだから、私はびっくりして体が少し浮いた。
「よくもそのような演奏を、ワシに聞かせられたものじゃな!」
ルートヴィヒは、おじいさんの怒りに気圧されて、何も言えずにただ茫然とおじいさんを見ていた。
「聖楽師が聞いて呆れるわい」
「おじいさん! そんな言い方は……」
私が思わず口を挟むと、ルートヴィヒが私を制した。そして、彼はおじいさんのほうに向き直ってから口を開く。
「ご指導ありがとうございます」
おじいさんはふんっと鼻で息をしてから、ルートヴィヒに言葉を返す。
「今のお主の演奏では浄化聖曲を奏でる資格はない」
「っ……」
ルートヴィヒの体がびくっと震えるのが見えた。
おじいさんはそんなルートヴィヒにさらに言葉を続けた。
「ピアノの鳴りは良くても、お前の性根が全然成長しておらん!」
昨日、私と一緒に串焼きを食べたあのおじいさんと、本当に同一人物なんだろうかと、私は目をこすって疑った。
「ですが師匠! 俺はあの頃よりもずっと上手くなっているはずです!」
「その心構えがそもそも間違っとるわい!」
ルートヴィヒがおじいさんと師匠と呼んだことで、二人は師匠と弟子の関係を結んでいたのだと気づく。
「浄化聖曲に込められた意味を理解していても、お前の心は全くそれを訴えかけておらん。いつまでそうやって技術屋でいるつもりじゃ!」
ルートヴィヒは何も言えず、ただ唇をかみしめている。
「そんなんだから、いつまでたってもお前は大聖楽師になれんのだ」
おじいさんの言葉にルートヴィヒがとうとう耐えきれなくなって、口を開いた。
「わかっています!」
どん、と拳で自分の太ももを叩きながらルートヴィヒが叫んだ。
「ふんっ。調律師を連れて浄化聖曲の巡回演奏を回っていると聞いたから、期待しておったんだがな。お嬢ちゃんには悪いが、期待外れじゃわい」
おじいさんが私を見た。その眼には心底がっかりした、という表情が見て取れて。
ルートヴィヒの師匠にあたるおじいさんは、ものすごくルートヴィヒの演奏に期待して聞きに来たんだってわかった。
「このまま巡回演奏を終えたところで、お前さんは大聖楽師にはなれん。何が自分に足りないのか、しっかりとここで見つめなおすことじゃな」
おじいさんはルートヴィヒにそう言い残すと、礼拝堂から出て行ってしまった。
私は一瞬ルートヴィヒの側にいた方がいいのかな、と迷ったけれど、本能的におじいさんを追いかけていた。
「おじいさん! あ、あの!」
私が声をかけると、おじいさんはゆっくりと振り返った。一瞬、おじいさんの目が大きく見開かれて。
そういえば、走っている間にフードがずり落ちてしまっていたことに気づく。
「ほう……お嬢ちゃんは異世界人じゃな? ふむ、だが聖女ではなく調律師じゃと?」
「は、はい……」
珍しがられるのか、それとも哀れに思われるのか。私は内心身構えてしまう。
「お嬢ちゃん、大聖楽師になるには何が必要だと思うかのぅ?」
けれども、次におじいさんが口にした言葉は全く関係のないことだった。
「え? それは……」
突然の質問に私が言い淀んでいると、おじいさんはにっこりと笑ってから私を手招きした。
神殿の外に出ると、アダジオの自然豊かな景色が目の前に広がる。
「なぜシンフォリア教の聖楽師は、浄化聖曲の巡回演奏をしているのかお嬢ちゃんは知っているかの?」
「ええと、この世界は瘴気に覆われているので、定期的に神殿ピアノで浄化聖曲を演奏して瘴気を浄化するため、ですよね?」
瘴気に汚染された土地では、人々はその瘴気に蝕まれて体調を崩す。それに、作物も育たず生活が困窮し、結果戦争が起こることもある。それを防ぐために浄化聖曲を定期的に演奏することになったと、小説の中でかかれていたことを思い出す。
「そうじゃな。では、先ほどのルートヴィヒの演奏で、真の浄化はされていると思うか?」
「え? ちゃんと浄化できていると思ってました」
私が驚いて聞き返すと、おじいさんは少しがっかりしたように首を振った。
「あの演奏ではまだ不十分じゃ。いくらピアノが鳴るようになっても、奴の演奏技術や魔力が優れていても、あのままでは真の浄化はできん」
おじいさんはそう言うと、大きく息を吸い込んだ。そして、空に向かって一気に息を吐き出す。
「じゃがな!」
おじいさんは快活に笑ってから、私に向き直った。
「ワシの弟子はよい聖楽師じゃよ。きっと答えを見つけると、ワシは信じておる」
「え? あ……はい……」
私が戸惑いながら頷くと、おじいさんは嬉しそうに笑った。
「お嬢ちゃんにも期待しておるぞ」
そう言って私の肩を軽く叩くと、おじいさんはそのまま歩いて行ってしまった。
私はしばらくその場に立ち尽くしていたけれど、ルートヴィヒのことを思い出して神殿の中に引き返した。
すると中から浄化聖曲のメロディが聞こえてきた。
「ルートヴィヒ……」
鬼気迫るルートヴィヒの演奏に、私は声をかけることもできず、ただ彼が何度も何度も繰り返し聖楽を弾くのを聞いていた。
この演奏のどこが問題なんだろう。
こんなにもきれいで美しく弾いているのに。
私はルートヴィヒの演奏に耳を傾け続けた。