狼吠
どこまでも駆けなさい―――
空をゆく雲の如く、風流れるままに。
蒼く、雄々しく続くあの空流れる雲のように。
今も忘れえぬ、たったひとつの言葉。
いつどこでそれを聞いたのか、欠片も覚えてはいない。
それを発した人がどのような顔をしていたか、どんな風に俺を愛し慈しみ育てたか、面影も声もぬくもりも何一つ、大人になった俺の記憶にはない。
それでもこの言葉だけをどうしてか覚えてる。
それは、遺言だから、なのかもしれない。
俺の名は夏蒼流(シャ=ツァンリウ)。
人から見れば…ただの化け物だ。
その日は随分と風が荒れていた。もとより砂漠は草原や町に比べて風の強い場所ではあるが、今日は気を抜くと幌を巻き上げて中にまで砂がすごい勢いで舞い込んでくるので床はすっかり砂まみれだ。揺れも酷いし、まるで海の上にでもいるかのようでほとほと参ってしまう。
「すさまじい風だねぇ」
あまりのすさまじさに赤い髪の若き座長が閉口して、ついに短くそう文句を言った。
「誰かが風の精霊の機嫌でも損ねたのかな」
座長の傍らで、精霊使いでもあるエルフの司祭が言葉を返す。
「だとしたらいい迷惑だよ」
砂でじゃりじゃりする髪をかきあげて盛大にため息をつくと、紅の髪の女性は膝の上にいる幼い少女の頭をなでて苦笑した。
「こら、エクセル。ここにいなさいと言っているだろう」
「えー」
大人たちの参りきった様子とはうらはらに、母親の膝の上から何度となく脱走を図ろうとする娘は不満そうな声を上げた。座員たちにとっては旅を困難にするだけの砂嵐ですら、こどもには興味深いものなのだろう。
「だって、あたりみんな茶色の風なのよ。あたし、こんな色の風は見たことないもの」
「エクセルは砂漠を行くのも初めてだもんね」
「うん!」
母の手を振り切って荷車…厳密には車ではないが…の窓の木戸を開け放ち、身を乗り出して外を見ようとしていた少女を慌てて落ちないように抱きながら、銀の髪のエルフが彼女の機嫌を損ねぬように話をあわせる。司祭の腕に収まって、座でもっとも小さな姫君は興奮した様子で窓の外を流れていく逆巻く風に見入った。
砂漠を突っ切る行軍に馬車は不向きだが、らくだとそりを巧く組み合わせた砂地越え専用のらくだ車が開発されたおかげで、旅人やキャラバンの砂漠越えも昔ほどは過酷でなくなっている。それでもこんな激風の日には、押し流されたり倒されたりする危険性もあるため、止めては進み進んでは止まる状態が続く。
もともとこの旅一座は平原でも似たような状態に直面することが多いため予定よりも遅れることに対しての焦りなどはないが、だからといってこうした悪条件に慣れているわけではない。案内役としてやとった砂漠の民の指示通りに一進一退を繰り返しながら砂漠の横断を始めて、もうかれこれ三日ほどになる。
「迂回したほうがよかったんじゃねえの?」
長く外に出られないせいか退屈しきった様子であくびを噛み殺し、長剣を腰に下げた栗色の髪の戦士がぼやいた。
「こんなに動けないんじゃ時間の無駄な気がするがねぇ」
行けども行けども砂ばかり、進んでるかもわかりゃしない上にこの砂嵐だ。
幼い少女…エクセルの覗いていた窓を閉めようとして睨みつけられ、彼は両手を上に上げて苦笑しながら言葉を続けた。
「砂漠を迂回してたらひとつきはかかるし、砂に二週間拘留されてもこっちのが早いというのはわかってるだろう」
「けどなぁ、サウラ」
「つまらないからって文句を言うなゲイル。退屈なのはわたしも同じ」
幼なじみである座長に見透かされ、剣士はやれやれと肩をすくめてまたもとの位置に戻る。
「ねえねえゲイル、退屈なの?」
「退屈ではあるがね嬢ちゃん、お前さんとここでチャンバラは無理な相談さね」
最近になってようやく母の許しを得て武術を習い始めたエクセルは、暇となると師匠であるゲイルにまとわりついてはその指南を迫る。たいくつという単語に即反応してエルフの腕から飛び降り駆け寄ってきた娘に、ゲイルは困ったように笑って追い払うように手を振った。
「なによぅケチ」
「けちって、エクセル……ここで暴れられたら困るよ。僕とお勉強するのなら、いくらだってつきあってあげるけど」
頬を膨らませている少女の体を再び抱き上げて、顔を覗き込みながらエルフがいうのに
「やだ。アレクと勉強なんてつまんないんだもん」
あっさり誘いを蹴って、また文字通りに司祭を蹴って腕から逃れると、やんちゃな少女はもう一度窓のほうへと駆け寄っていった。
茶色い風の隙間から、一座の別のらくだ車が見える。
どこが地面でどこが空かも分からない激しく逆巻く砂の奔流に、今にも飛ばされていきそうな一座の車たちをはらはらついでにわくわくどきどきして見詰めている少女を、同じ車内の大人たちが見守っている。
ランプがゆらゆらと揺れている。その光にあわせて、ちいさな淑女の緋色の髪も揺れている。
「一番退屈するのはエクセルだと思っていたのにね」
銀色の長い髪を後ろでくくりながらエルフの司祭が苦笑して言うのに、
「こどもってのはどこでも元気なもんさ」
頭の後ろで腕を組み壁にもたれたまま咥え煙草のゲイルが答える。
一座には今、エクセル以外にこどもがいない。
たまにこども連れの芸人が座と同行することはあるが、座長の娘である彼女のほかはみんな行きずりだ。
友達が出来てもつぎの街でお別ればかり。さよならをした日は一日泣き通しで、母親であるサウラはなだめながら夜を寝ずに過ごすこともざらだ。
一座は旅から旅の根無し草。流浪の民ではこどもも育てにくいと、こどもが出来ると大抵みんな座を離れていく。エクセルだけが、座とともに、座から離れられずにいる。
その寂しさを大人では埋めてやれないと知るだけに、座員はみな彼女に甘い。
だからたしかに少女は我侭で可愛がられ放題だが、母親であるサウラは座長の娘として彼女にきちんと厳しく教育もしつけもしたし、周囲の大人たちはすべて親代わりのつもりで少女に接してきた。
「砂、入って来ちゃうからそろそろ閉めないとだよ、エクセル」
「はーい」
聞き分けもよく善悪の区別もつく。人の気持ちも考えるから、寂しいとはけして言わない娘。
一座の誰もが、この赤毛の少女を愛していた。愛に溢れた、けれどずっと一緒にいてくれる友達だけがいない、この寂しい少女を。
それから少ししてほんのわずかだが砂嵐が弱まり、再び出発出来るようになったので、御者たちはらくだたちを外に出して車につないだ。
「だいじょうぶ?ザジ」
「ほいさ。こんなくらいならわけもないよ嬢ちゃん」
赤毛の少女が心配そうに尋ねるのに笑顔で返し、白髪混じりの髭を蓄えた御者が再び手綱を取る。
ざりざりと砂を擦る音に、らくだたちの足音が混じり、緩やかに車が滑り出す。
雨音にも似た、幌に砂のあたる音。
窓を開けてももうそれほど砂は入り込まないだろうと、アレクがエクセルを呼んで再び木戸をあける。幼い少女はすぐにそこに飛びついた。
「綺麗ね」
大人が見ても綺麗とは思わない景色だったが、少女はそう云って微笑った。
「そうだね」
ただ乾いた風が吹く、遠く飛び石のように岩が突き出ているだけの褐色の土地を、エクセルは飽きもせずに眺めている。
「このあたりは昔、なんかの王国があったあたりだというよ。もう滅びてしまって何も残ってはいないけど」
「へえー」
アレクの言葉に、少女は更に目を輝かせた。この砂の下に埋もれて眠っている歴史や人々の夢の跡に思いを馳せているのだろう。
車はゆっくりゆっくりと砂を滑る。
砂漠の民が指し示す方向には、いつもひとつの星が出ている。
星を読み天候を見て、この乾いた砂の大地に生きる人々もいるのだ。
彼らの知恵を借り、別の土地に生きるものたちもこうして未踏の地であったここを行き来できるようになったのは、今からそれほど遠い昔の話ではない。
人々は憎しみあい排除し合う傍らわかりあうことも出来るのだと、まだこの土地の人々が思いもしなかったころ、彼らとの橋渡しを買って出たのはどの国にも属さぬこの一座のような旅人たちであった。彼らは砂漠に住むノーマッドたちと街の人々との橋渡しを長い年月と努力を持って成し遂げ、そのおかげでこの砂漠は、今では多くの人の交通の要となったのだ。
「砂漠の民は、その王国の生き残りの末裔だと言われているんだよ」
「それじゃもしかしたら案内役のみんなも王様やお姫様だったかもしれないのね?」
「うん、そうだね」
夢見る瞳で見上げた幼い娘に、きっとそうだ、と続けて、エルフは微笑を浮かべた。
強く吹く風の音、耳を傾ける少女の髪がはためく。
ふと、彼女は星明りの先にある大きな岩場に目を向けた。
揺れる車内で、大人たちはこれからの進路や予定について話をしている。邪魔をしないように彼女はそっと、少し後ろに控えていた司祭の服の裾を引いた。
「エクセル?どうしたの」
口に人差し指を当てて、しー、と小さく云うと彼女はエルフを輪の中から引っ張って窓のほうに呼んだ。
周りの大人たちは勿論気がついたが、知らぬふりをしてやっている。苦笑しながらアレクは引っ張られるままに窓辺へと近づいた。
「ね、あそこ」
少女は司祭にだっこをせがみ、アレクは彼女を抱き上げると指差す方向に目を凝らした。暗くてどうにもよく見えない。
「あの岩場がどうかしたの?」
目を細めて見据えるエルフの髪を引っ張って、少女は少しだけ声を低めた。
「あそこにね、…なにか、いるみたいなの」
―――それは、砂に半ば埋もれていた。
月明かりの下で輝く青銀の毛並みは、遠目で見てもそれは見事なものだった。しかし体のあちこちに傷口が痛々しく広がり、こびりついた砂に吸われた血はもう凝結し乾いていた。
口を硬く閉じているのは身を苛む激しい痛みに耐えたからであろうか。
変な方向に曲がった片足、残る三本の足のつめに、同量の砂が絡み食い込んでいるのは、その傷をおして駆け続けてきた証なのだろうか。
「なんと、綺麗な狼……」
小さく呟いた座長の足にしがみつき、発見者の赤毛の娘は声もなく、ただ、月明かりに照らされた獣の死骸を見つめていた。
砂嵐に半ば埋められた狼の傍らには、眠るようにひとりの少年が倒れている。
年のころはエクセルより少し幼いだろうか。まだ一桁の年齢に見える。狼に寄り添うようにしてきつく目を閉じたその子に外傷はなく、抱き上げるとかすかに暖かかった。
「いきているのか?」
「みたいだよ。でも、狼のほうは……」
問う声に、ゆるく首を振り、アレクが答える。彼の腕に抱き上げられたその少年はうめき声ひとつ上げることはなく、司祭の言葉がなければ生きているようにはまるで見えなかったが、抱き上げたアレクにだけはかすかな鼓動と息遣いが伝わってきている。
「でも早く暖めてあげないと死んでしまうと思う。この子だけでも連れて戻らないと」
エルフの背後で、月明かりに照らされて鈍く輝く蒼銀色の狼は力尽き倒れたままの姿勢でゆっくりと砂に埋められていく。
吹き抜ける風があたりの砂を動かし、自然がその死屍を埋葬しているのだ。
その様子を、赤毛の娘が声もなく見詰めていた。
「では戻ろう」
やがて座長はそういうと娘の手を引き、先に立って止めてきた一座のらくだ車の方へと歩き出した。皆がそれに続く。
手を引かれながらエクセルが後ろを振り返った。アレクが少年を抱いてついてくる。司祭の腕の中で眠ったままのその少年の髪は、月明かりの下、とても不思議な色をしていた。
座員たちは座長が連れ帰ったこどもを見て十人十色の反応を見せたが、もともとどんな人間も迎え入れて家族にしてきたような一座だ。次の街までの一時的にしてもこれからずっとになるにしても、誰もその子を座に迎えることに反対はしなかった。
ただ、座員の間でその素性に関してだけはいろいろな憶測が飛び交った。誰もが砂漠の行軍で退屈しきっていたところに、珍しい狼とともに倒れていた少年だ。無理もないことだろう。
「狼はこの子を守っていたように見えたな」
座長…サウラは、しつらえた寝床に寝かせた少年の額に手を当て熱を確かめながら呟いた。
「あの狼も普通の種ではなかった」
蒼銀に輝く毛並みを持ち、鋭い牙を備えた狼。普通草原などに生息しているものよりひとまわり大きく、足の付け根の形と位置が微妙に違っていた。
「魔物の類で、そういうのがいるってのは知ってる。もっともそいつぁ伝説的な種でこの地方にいるはずもないんだがね」
ゲイルがぽつりと言う。一同は顔を見合わせ、それからまたこどもに視線を戻した。
「…この子は何者なんだろう」
あの獣がただの狼でなく魔物であれば納得がいく部分もあるが、謎は残る。人間を守る魔物など普通はいない。
謎の鍵を握るのはこの子だ。
エクセルは大人たちのやり取りの間中、母の傍に隠れて眠ったままの少年を見ていた。
(綺麗な子……)
長い睫毛、整った顔立ちの幼い少年。死んだように動かないまま、瞼を開けない。
砂漠の冷えた空気に冷やされたためか高熱が出ているとかで、うっすらと汗をかいているのだけが、その子が生きていると目で見て分かる唯一の証だ。
「起きないね」
呟いた娘の言葉に、母親は苦笑しながら娘を寝かしつけるために彼女をつれてその場を離れた。
その子を乗せたまま車を激しく動かしては危険、と緩やかに緩やかに一座は歩みを進めた。あれからもう三日という日付を費やしているのに、一日分の距離しか進んでいない。
こどもはいまだ目を覚まさないままだが、少しずつ熱も下がり、脈拍や呼吸も安定してきた。
眠ったままの少年の、その張り詰めた表情が穏やかになることはなかったが、少なくとも生死の境を彷徨う状態ではなくなったので、ようやくアレクやサウラたちも一安心と少年の傍にエクセルだけを残して仕事に戻ることにした。
「ね、そろそろ起きようよ」
少年の隣にごろりと寝転がり頬杖をついて、少女は何度も声を掛ける。
「起きて、あそぼ」
たとえ眠ったままであっても、同じ年頃のこどもが傍にいるのが嬉しいらしい。起きたら友達になれるだろうかとわくわくしながら、少女は彼の目覚めを待っていた。
昼が過ぎ、夜になった。
その夜も終わり、また昼になった。
山の端を夕日が染め上げて、藍色のヴェールが天から降りてくる。
月は白から黄金色の衣装に着替えて、我が物顔で広い天空を闊歩する。
星たちはまるで宝石箱をぶちまけでもしたように色とりどり天を飾り、星を知り尽くしたものたちはそれを読み旅人たちに行き先を指し示す。
緩やかに流れていく宵闇の時刻、こどもは眠り、大人たちは明日へと思いを馳せる。
そんなころあいになって、ようやく、待ち人はその目を開けた。
宵の薄闇と同じ色の瞳が、瞼の下から現れて戸惑いの色を浮かべる。ここはどこだ、と呟いた、小さいが確かな声音に隣でうとうとしていた少女が目を覚ました。
自分の状況が把握出来ていないらしく少年は不安げに周囲を見る。そして傍にいる少女に気がつくと、慌てて布団を跳ね除けた。
「あ、待って!!」
エクセルが叫ぶ声がした。車の中からの叫びに外で星を見ながら明日の予定を審議していた大人たちが振り向くと、ちょうど幌を跳ね除けてあの少年が飛び出してくるところだった。
「目が覚めたんだね、よかった」
茫洋とアレクが呟く合間にゲイルが駆け出し、車から飛び出して落ちそうになった少年をすンでのところで受け止める。怯えた少年が悲鳴を上げながら逃げ出そうとするのを押さえつけ、ゲイルはギャラリーに助けを求めた。
「アレク、サウラ、何とかしてくれこのガキ!!」
少年はなおもゲイルの腕から逃れようと暴れている。止めに入ろうとしたアレクの目の前でふと少年がゲイルの腕に噛み付こうとした。
(牙……?)
エルフの目にはその瞬間、鋭い二対の牙がしかと見えた。
「―――怯えるな、少年。わたしたちは敵ではないよ」
不意に、優しい声音が少年の動きを止めた。顔を上げた少年にサウラは微笑み、歩み寄るとそっと手を伸べて少年の髪を撫でた。
「あなたは……?」
ゲイルの腕の中で動きをとめ震える声で尋ねた彼に、サウラはかがんで目線をあわせ、ゆっくりと言った。
「わたしはサウラ、旅一座の座長をしている。砂漠で君を拾い保護していたが、熱を出していたので随分心配したよ」
それから、ゲイルの腕から少年を抱き上げて、降ろす。
「君がどんな素性であろうとも危害を加えるつもりはないし、君が素性を話す必要もない」
じりじりと下がり、少年は自分を見ている人間たちを観察した。
警戒をあらわにしてはいるが敵意は感じられない。ただこの場に留まっていいものかどうかを思案している様子だ。
「わたしたちから逃げる必要もない。君が望むところへ送り届けると約束しよう」
サウラは言った。おいおい、と止めに入るゲイルを拳で殴打し、サウラは少年の傍に歩んだ。
「ただひとつ、君の名前が知りたい。呼ぶとき困るからね」
それ以外の望みを、座長は言わなかった。
結局、少年は逃げるのを止めた。サウラの言葉によってではない、砂漠がまた逆巻く風でその足を止めたからだ。その日は結局、丸一日一座はその場から動けなかった。
少年は車の隅でずっとひざを抱え座り込んでいた。幌の傍、外へと一番近い場所だったが座員たちは特になにも言わなかった。
エクセルは目が覚めた少年の傍によっては離れ、よっては離れしていた。
少年は無口で、ほとんど口を聞かなかった。
取り立てて座員たちに反抗的な素振りを見せることはないが、心も口も閉ざしたままだ。
「結局、あの子の事はなにも分からずじまいだね」
苦笑しながらアレクが言うのに、サウラが頷く。
「事情はおろか行き先すらも言わないときたらね。でも、気がついただけでもよかった」
母親の顔でサウラはこどもたちを見た。少年と仲良くなりたくてそばをちょろちょろしている娘に苦笑いをしている。
「迷惑でないといいけどね、蒼流に」
そんな心配とはまったく無縁に、少年は赤毛の少女などいないかのように虚空をただ見詰めているだけだ。
宵闇色の髪の少年は、夏蒼流と名乗った。
不思議な響きの名前は恐らくここより随分東方の国のものだろうとゲイルは言った。
「シャ、ツァンリウ、ね」
名前だけしか言わず、短く礼を言ったきり少年はしゃべらない。ただ一度だけ、拾ってからどれくらい経過したのかと、どちらに向かって進んでいるのかとだけ聞かれた。答えてやると少年は異国の言葉で礼を告げ頭を下げた。
それから数時間、ずっと同じ場所で座ったまま、じっと宙を睨んでいる。大人たちは心配しエクセルは不思議そうに少年を見ていたが、本人は周りなど見えていないかのようにずっと表情を変えず動きもせず。
まるで岩みたいね、と、少女はエルフにそっと囁いた。
夜明けがきて風が少しだけ弱まった。らくだたちの足音が再び砂漠に流れる。
黄色い砂塵が風に舞い上げられては窓の木戸を揺らし、幌に当たりざあざあと音を立てる。
「街まで、あとどのくらいなの?」
エクセルが尋ねた。地図を見ながらアレクが目算し
「あと三日くらいだと思うよ」
答えて笑った。かなり広大なこの砂漠は、隅っこを横切るだけでもかなりの日数がかかる。その退屈な日々ももうすぐ終わりだと知るや、少女は嬉しそうに笑った。
「砂の黄色もいいけど、やっぱり草とお日様が恋しいの」
「だよなぁ」
照れたように言う幼い少女にゲイルがそう答えて笑う。退屈もきわみのふたりは街に着いたとたんに稽古なんぞおっぱじめるに違いないと、声には出さずアレクとサウラは同時に思い、顔を見合わせて苦笑した。
蜃気楼に街の遠景が浮かんで見えそうな距離まできた、その夜のこと。
月が綺麗に冴え渡る。雲ひとつない夜空が頭上に広がる。
砂漠をわたる冷たい風が、着慣れない服の隙間から忍び入り、手足の熱を奪ってゆく。
「……ずいぶん、遠いな。」
呟いて吐く息の白さに舌打ちをしながら蒼流はひとり、砂漠の砂の上を歩いていた。
月と星の向き、かすかに流れる風が運ぶ懐かしい匂いだけを頼りに、彼はまだ少しふらつく足で砂の上を歩いた。
座員たちが寝静まる夜中、こっそりと起き出して幌を音も立てずに開けた。冷たい空気をほんの少しだけ中に招き入れたかわりに、少年の姿がらくだ車から消えた。
小さな影が、ふたつ砂漠をゆくのを、月だけが見ていた。
しばらく歩いたころだろうか。彼はふと足をとめ、天を見上げて星を見た。
「方角はこちらでいいのか…」
倒れていた間のことはなにも分からない。あの耳の長い生き物に聞いた情報がすべてだ。
助けてくれたあの人間たちには悪いことをした、と彼は心の中で少しだけ思った。悪い者たちではなかったが、一緒にいていいことはないだろう。
(俺は、彼らから見れば化け物だから)
心の中で苦笑いして、少年は再び進路のほうへと足を進めようとした。
その刹那だ。
不意に少年の耳が何かを捉えた。驚いて振り返り、少年はそこに予想外のものを目のあたりにして、一度目を見開いてからぱちぱちと瞬きをする。
「まっ、待ってよー……」
数秒もしないうちに今度は声が聞こえた。少年は髪をかきあげて、肺の空気をすべて吐き出すような深い深いため息をついた。
赤毛のあの少女だった。砂漠の中を、ローブをずるずる引きずりながら歩いてくる。
どうやら少年のあとを追いかけてきてしまったらしい。
「やっ、と、おいついた」
肩で息をしながら、少女は少年のすぐ近くまできて荒い息をつきつきそう云って笑った。
「……帰れ。」
しかし蒼流はエクセルに短くそれだけを云うと再び背を向けて歩き始める。
「どうして?」
少女は少年の後ろ、同じ距離を保ちながら歩き、尋ねた。
「いいから、帰れ。」
「理由聞かなきゃ帰りませんわ」
「………。」
互いに無言のまま、しばらく歩いた。風が少しずつ強くなってくる。
エクセルが小さくくしゃみをした。蒼流はそれでようやく振り返り、自分の羽織っていたフードつきのマントをついてきた少女に押し付けた。
「着ろ。風邪をひく」
「え、でも」
「俺はいい。お前になんかあったらあの座長が哀しむだろう」
随分と大人びた口を聞く見かけ八つか九つの少年に、エクセルはほんの少しだけ笑った。
ぶっきらぼうなその態度と行動にかすかに優しさが滲んでいる。それが少女にはとても快いものに思われた。
「着たら帰れよ」
言いながら向けた小さな背に
「いやですわ」
エクセルは言い返してすぐ隣に駆け寄り、並んだ。
「聞き分けがわるいな!」
ついに少年が初めてちゃんと目線をあわせて、言葉を荒げて少女を見た。少女もまた少年をしっかりと見る。
「だって、」
エクセルが微笑した。母親とよく似た笑顔だった。
「ひとりでお母さん迎えに行くの、寂しいかなって思ったから」
少年が、少女を凝視した。見開かれた目に、驚きとともに恐れが見える。
「どうし、て…」
「みんなはたぶん知らないと思う。でも、そうなんだよね?」
自然に優しく抱きとめられて砂漠の中に眠るあの狼と少年とを最初に見たときから、エクセルにだけは分かっていた。
こどもが安心して眠れる場所は母の傍だ。母が命を賭けて守るのはこどものことだ。
簡単なことだが、普段は誰も気に留めない。
「狼さんのことはね、連れて行けなかったの!」
慌てて駆け去ろうとした蒼の着物の裾をつかんでエクセルは言った。
勢いを止められて転び、蒼流はエクセルの腕を振りほどこうと振り返る。
「ごめん、ね。」
泣きながらそう言った少女の顔を見て、少年の手がそこで止まった。
蒼流は、少しだけ躊躇ったあと、無表情のまま少女の涙を袖でぬぐった。
少年と少女は、こどもには少し長いローブの裾を引き摺りながら、ふたり並んで歩いた。
少年はほんの少しだけ年長の少女の手を引いて、砂漠をゆく。
明かりは月のか細い光だけ。あたりは巻き上げられる砂でまっ黄色。なにも見えない。
「もう、どこから来たのかも分からないね」
少女が少しだけ不安そうに言った。
「だから帰れって言ったんだ」
少年の声は少しだけ不機嫌だ。感情の色がちゃんと見えるその口調になんとなく嬉しさがこみ上げてきて、少女が笑う。
「なにがおかしい」
「あたしがいなかったら帰ってこないつもりだったくせに」
「うっ…」
少年が言葉に詰まったのをしてやったりという顔で少女はまた笑った。
帰り道が分からない。帰れないかもしれない。
手をつなぎ歩く幼いこどもたちの影が砂漠に伸びる。そのつたない足取りと、延びる薄い影を蹴散らすような横薙ぎの風。誰も起こさずに来てしまったことをほんの少しだけ少女は後悔したが、少年とふたりなら、少年がこうして少しだけ心を開いてくれたならそれでいい気がした。
「ずいぶん遠く離れてしまったのか」
「そうだね」
眠っていた間にらくだの足で進んだ距離と、方角だけはなんとか感覚で分かる。あとはエルフの教えてくれたわずかな情報だけを頼りに行くしかない。
どれだけ歩いても、きっと今夜中にはたどり着けない。こどもの足では大人の一日の距離も三日の行程になるだろう。
そして、仮令たどり着けたとしても、もうあの遺骸はとうに砂の下だ。
「夜明けには大騒ぎになるだろうな」
蒼流が、ぽつりと言った。
「すまない。こんなことにつきあわせて」
やがて小さな呟きは、風に紛れ少女にだけ届いた。エクセルが手を強く握りかえした。
「行こう。」
「え?」
「お母さんに逢おうね、絶対」
少女が言った。少年が彼女を見た。エクセルの赤い髪が風に翻る。
前方を睨むように見据えたまま、少女が今度は少年の手を引いた。
「それでお母さんに逢ったら、あたしと一緒に、帰ろう。」
驚きもあらわに少年は前をゆく少女の背を見た。迷いの欠片もない口調と足取り。
「お前には、関係のないことだろうに」
複雑な気持ちをそのままに呟いた声に、迷いなく澄んだ声が答える。
「関係ないよ。」
「ならどうして」
「逢いたい気持ちも、一緒にいたい気持ちも分かるから。」
言葉に、少年は、目の前で揺れる赤い髪を見た。まっすぐ前を見て歩き続けるその少女の科白の中に、少年は、自分とよく似た彼女の切なさを垣間見た気がした。
「お母さんと逢って、さよならしたら一緒に帰ろうね」
引いてくれる手のぬくもりに、少年はこみ上げてくる涙を鼻の頭でこらえる。
長い前髪に顔を隠して、やがて彼は少女の手をそっと振り解いた。
「……それは、無理だ」
解かれた手と呟いた言葉にエクセルが振り向いた。
「俺は、化け物だから、人間と一緒には行けない。」
そのまま数歩後ろに下がる。泣きそうな顔で笑い、少年が駆け出そうとするのをエクセルは手を差し伸べて止めた。
「化け物なんかじゃないよ。だってあの狼さん綺麗だったもの」
心から少女は言った。
「だが、ひとは俺たちを狩る。……俺達が魔物だからだ。」
少年が返す。
月の光の下、宵闇色の髪と目がきらきらと輝いている。
砂が蒼白く光る中に浮かび上がる、綺麗な蒼銀の瞳。
「お前はこどもだからそんなことが言える。でも人間は」
口ごもり、蒼流がうつむく。
「もしかして、お母さんを殺したの、人間なの?」
悲しげな少女の問いがかぶる。人間がすべて善人ばかりではないことくらい、旅一座の娘はとうに知っている。
「違う、母上は……」
首を激しく振り、人狼の少年は、両手で顔を覆って叫ぶように言った。
母が同族に殺されたこと。幼い自分をつれて追っ手から逃げる途中傷を追い、無理をして獣の姿に身を変えて日夜問わず駆け続け、死んでしまったこと。
追われる理由も、殺されなければならなかった理由もなにも知らない。大人びてはいてもまだ幼い蒼流に、大人たちの争いなど無縁だったからだ。
ただわかることは父も母も故郷をも失ってしまったこと、そして
「母上が昔云っていた。ひとは、魔を恐れそのあまりにそれを殺す……だから我々は我々と彼らのために人目に触れず生きているのだと」
敵ばかりの恐るべき世界にひとり放り出されて路頭に迷っていることだけだ。
「…、だから……。」
目の前の少女に果たしてこの恐れが分かるだろうか。愛されて育ったのだろうこの娘に。
「―――それでも、帰ろう。」
やがて少女は言った。少年と同じ、泣きそうな顔で笑っている。
「俺は母上と一緒にいたい。」
少年が言った。少女は首を振る。
「ダメだよ。それじゃなんでキミのお母さまがここまで走ったかわからないじゃない」
エクセルは言い、それから立ち尽くしたままの蒼流の腕を引いた。
ふたりは再び歩き出した。
月が仄かに照らし出す砂の上をゆく。
蒼流は片道だけのつもりで、エクセルは彼とともに帰るつもりで同じ道を歩く。
蒼い闇が二人の前後で揺れている。
「キミの名前、なんて言うんだっけ」
唐突にエクセルが聞いた。
「…夏蒼流」
ぶっきらぼうに答えるのに、少女が声に出して呼んでみる。
「サ、シャンリュ?」
「違う。ツァンリウだ、ツァンリウ」
異国の韻を巧く言葉に出来ず苦戦する少女に思わず忍び笑いを漏らして少年が訂正した。
「それ、どういう意味なの?」
「空と海の深い色。それと…流浪の」
少女に説明してやりながら少年はふと思う。名前の示すままこれから流離うのだとすれば、もしかしたらこれは運命なのかもしれないと。
「んー、じゃあ、あおくんね。」
「ええええ?!」
しんみりしかけた少年の気持ちを微塵に打ち砕くように少女が笑って言う。
「あたしはエクセリーヌっていうの。よろしくね」
つないだ手を勢いよく振りながらエクセルも少年に名乗った。少女の笑顔に、車内にいたときは互いに名前も名乗りあうことなく言葉も交わしていなかったことに今更気付く。
「えきせ、りん?」
蒼流もまた異国の名前に触れるのは初めてらしい。うまく発音できずに苦戦していると、
「エクセリーンならまだ許せるモノを……」
声を低めて眉をひそめ深刻に呟いた少女に、彼は思わず吹き出して笑った。
「じゃあリンだ。リンって呼ぼう。」
「ならあたしは蒼って呼ぼう。」
こどもたちは笑いながら歩く。しっかりと手をつないで。
来た道ももうわからない、足跡も吹き消された砂漠の只中を。
「帰り道はもうわからないな」
「そうね。でもきっと大丈夫だよ」
「どうして?」
「どうしても。」
あちこちぶつけたり擦り切れたりして、足が痛くてもう歩けないくらいになって、ふたりはようやくどことなく見覚えのある気がする岩場にたどり着いた。
実際には、よく似た場所、だったのだろう。そんなに簡単に戻れる距離ではない。
「ここかな」
それでもエクセルの言葉に蒼流が納得したのは、彼がもう、母の遺骸には逢えないことを心の奥で悟っていたからだろうか。
「そうだな。きっとここだ」
蒼流はそういうと、突き出た岩肌を撫でてそこに座り込んだ。
この砂の下にもしかしたら母が眠っているかもしれない。
別の場所であったとしても、風が吹き流す同じ砂の下にはかわりがない。
不思議な安堵と絶望が心をゆっくりと浸していく。次第に荒れ始めた砂嵐が、彼の表情を傍らの少女からも隠す。
「迎えが来たら、君はひとりで戻れ」
小さな声で少年は言った。
「いや」
少女は拒む。
「…俺はもう、ここで眠りたいんだ」
首を振る少女に少年は言った。怖いものばかりの世界に独り残されることのほうが、ここで死ぬよりずっと恐ろしかった。
「じきに夜明けが来る。朝日が昇れば、帰る方向は……わかるよな?」
巻き添えにしてここまで連れてきてしまったこの勝気な少女のことだけが心残りだった。
大丈夫だと言っていたから、恐らくは迎えが来るのだろう。それまで彼女に何もなければいいがと、少年はぼんやりと思った。
「なんども言わせないで。帰るときは一緒だって言ってるじゃない」
いい加減にしなさい、と、言葉を荒げて腕を引こうとする彼女の手を、少年が振り払う。
「君こそ何度も言わせるな。君は帰れ。…ここは危ない」
砂漠の夜には危険が多すぎる。大さそりや人を襲う獣も徘徊しているし、流砂や竜巻の危険だってある。明かりも持たずにここまで来てしまった以上、動いている間はいいとしてもじっとしているのは危険だ。
冷えた空気は体の自由も少しずつ奪う。吐く息の白さに、魂までもが凍りそうだ。
「わかった。帰る。」
やがて少女はため息混じりに言った。
「はやく行け。気をつけて、出来るだけ急いで歩け。」
「……蒼は、ここに残るのね?」
頷く少年を真正面から見詰めて少女は一言だけ最後に言った。そして背を向けて歩き出す。
「じゃあ好きにしたらいいわ。
そうしてお母さまの心まで殺すつもりなら、ここにいればいい。」
去り際の少女の言葉は、座り込んだままの少年の心に深く鋭く突き刺さった。
あの狼はきっと最期まで願ったろう。息子の無事を。
我が子に生きていて欲しいから逃げたのだ。
(それを、どうかわかって)
エクセルは一度だけ立ち止まった。
少年が、きちんと母に別れを告げて帰るなら、一緒に行きたい。
祈る思いで待った。動く気配はない。
冷え込む夜の空気に背を押され、少女は来た道をゆっくりと引き返した。少年は動かない。岩にもたれたまま、目を閉じ母が眠る大地、それを覆う砂を手にすくい、風に散らす。
ふたりのこどもは今度は違う道を歩き出した。
ひとりは来た道を戻り、ひとりは戻らない。長く伸びる影がゆっくりと離れていく。
「やっぱり、こんなのダメだ」
呟いて顔を上げる。エクセルは風に逆らうようにして振り向いた。逆巻く風に舞い上げられた緋色の髪はまるで闇を照らす炎のように見えた。
岩によりそうようにして座ったまま少年は動かない。
その向こう側に不意に大きな影が見えた。
「……!蒼!!」
叫んで駆け出した。大さそりが二匹、獲物を見つけて歓喜の声を上げている。
きっとそのまま、少年は死にたかったのだろう。獣の感覚を持つはずのあの少年が敵の接近に気付かないわけがない。砂漠に鮮やかな緋を散らし、屍を母親と同じように自然のままに葬られながら穏やかな眠りにつきたかったのかもしれない。
「逃げなさい、蒼!」
だがそのとき、小さなナイフ以外に武器を持たぬ少女は叫びながら、身ひとつで大さそりに挑もうとした。
声に少年が顔を跳ね上げるようにして振り向いた。驚愕に目を見開いてこちらを見ている。
どうして戻ったと、無言のままに問いかける目線。
答えずにエクセルは小さな、あまりにも無力な護身用の小刀ひとつで、身の丈数倍もの化け物に挑みかかった。
…―――だって、死なせるわけにはいかないもの。
言葉にしない想いが、少しでも少年に伝わるだろうか。
自分がもしここで倒れても伝えたい、それは誰かの声のかわり。
あのとき、あそこでなにがあったかは知らない。あたしにはわかんない。
キミが何者かも知らない。化け物かどうかなんて知らなくていい。
そんなの、どうでもいいことだから。
ねえ蒼、キミのお母さんは死んじゃった。
でもお母さんはキミのことを守ったんだ。
だから、キミは生きなくちゃダメ。
だから、あたしはキミを絶対に連れて帰る。
「 守 り た い の 」
巨大な肢が振り下ろされてくるのを、少女は恐怖に目を見開いて見た。
ガキン、と金属同士が打ち合うような激しい音が宵闇を裂いて響く。
「きゃあああ!」
弾き飛ばされて砂の上を転がり、エクセルは悲鳴を上げた。はじかれたナイフが転がる。手を伸ばし、掴み取ると体を跳ね上げて体勢を整える。
そして月明かりの下、彼女は見た。
さっきまで自分がいた位置に振り下ろされた大さそりの長い前足、その傍に、しなやかな肢体、鮮やかな蒼銀の毛並みを風に揺らして立つ、狼の姿を。
「蒼!」
迷うことなくその名を呼んで、彼女はもう一度叫ぶ。
「逃げて!こんなとこで死んじゃいけない!!」
駆け寄ろうとした彼女をかばうように、その狼はまだ小さいからだを大さそりの前に置く。低く構え、唸りながら振り向かず
「……邪魔ばかりしてくれるんだな、このお節介娘。」
苦笑するような声だけが、少女の元へ届く。
「蒼……?」
二体のさそりの攻撃を何とかかわし、囮になるようにわざと挑発して狼が身を翻す。
「無事にお前を帰さないとあの一座に申し訳が立たない。おかげで、死に損なった」
彼は笑ったのかもしれなかった。
そのまま闇の中に走り、消えてしまいそうな蒼銀の躯。それを大さそりがすさまじい速度で追いかける。
「助かるなら、キミも一緒にじゃなきゃ意味がない!」
ナイフを掴み追いかけようとするエクセルの前で、激しい攻防が繰り広げられていた。すくむ足を奮い立たせ彼女は彼らを追いかけた。
さそりの鋭い鋏と尻尾が時折狼を捉え、大地に打ち付けるように叩く激しい音。
闇の奥から悲鳴が響く。
(…お願い、守りたいの―――)
なにかわからない、けれどなにかに祈る。
「リン、どうしてきた!」
「だって蒼ひとりで戦うなんて無理だよ……!」
ただ 誰かを 守りたかった。
まったく同じ気持ちで二人のこどもは敵を挟んで視線を交わす。
自分たちでは絶対に勝てないだろう敵を前にしても、ひるまない流浪の民の娘と、誇り高い人狼の少年。
(もしここで死んでも)
互いが互いを帰したかった。平和な場所へ。
楽園などでなくても、這い回るだけの土壌でも、そこには誰かがいる。
心の中に、いつも誰かがいる。
独りではないから戦える。どんなものにも立ち向かえる。
それが絶望と云う名の強大な敵であったとしても、死と云う抗いがたい運命であったとしても、誰かが願い想いを重ね、ひとはいつでも立ち向かう。
守るべき者がいるうちは、まだ死ねない。
蒼流の心から、不思議と死に向かう気持ちが消えていた。
「リン、走れ」
ついに足を打たれ、もんどりうって倒れた狼は人間の言葉ではっきりと言った。
「だけど」
「ふたりで死んでどうする。走って、もし間に合えば助けを……だから、」
死にたいから残るのではないと言葉で示し、傷を負い蹲ったままの狼は顎だけをしゃくって彼女に道を示す。
「―――頼む、行ってくれ。」
落ち着いた声音に促され、追うさそりの一体に怯えながらもまろぶようにして少女は駆けた。
その前方に人影が見えた。思わず声を上げた少女を掠めるように飛来した数本のナイフが大さそりの関節のつぎ目にあやまたず突き立ち、次の刹那少女の両脇を風のように駆け抜けたふたつの影。
「まったく、世話焼かせてくれるなお子様たちは」
「危ないからエクセルは離れててね」
聞きなれた低い笑い声と、諭す優しい声音がすれ違う瞬間少女の耳もとで聞こえた。
「ゲイル!アレク!」
二人の青年は少女の声にも振り向かずに駆けた。すれ違いざまのゲイルの一閃が大さそりの胴体を薙ぎ、真っ二つに割られた巨大な虫の上部が体液を撒き散らしながら轟音を立てて砂漠に落ちる。
アレクの詠唱の声が遠く聞こえた。続く光、爆音。鋭く響く悲鳴は獣の声。
「蒼―――!!」
叫んで駆け出そうとし、足をもつれさせて転んだ。見上げた土煙の向こうからやがて背の高い男の影がうっすらと現れる。
その腕に抱かれて死んだように身を横たえている蒼銀色の狼の姿を見て、ようやくエクセルは安堵のため息をつくと緊張から解き放たれてその場に昏倒した。
黄色い風が吹き荒れる中を、一座のらくだ車がゆっくりと進んでいく。
一日がすぎるころ、がたごとと風が吹くたび揺れるその車内で蒼はようやく目を覚ました。
「リン……」
覗き込む少女の名前を呼んで、彼はぼんやりと辺りを見回す。
「お、気がついたかい。サウラ、アレク、坊主が目ぇ覚ましたぞ」
どうやらカーテンで周りを覆い特別に寝室を作ってくれていたらしい。
たまたまわずかに隙間を開けて覗き込んでいたゲイルが起き上がった蒼に気付いて外の仲間たちにそれを知らせる。
「よかった、あのまま死んじゃったらどうしようかと思った。」
安心したのかぐずりはじめたエクセルに困ったような笑みを浮かべて蒼がそっと手を伸ばした。遠慮がちに髪をなでる。
「人間の姿に戻ってるな……」
そのことに今気がついたように呟いてから、蒼流は不意に警戒とかすかな怯えをあらわにして開けられたカーテンのほうに視線を向けた。
「おいおいそんな顔するなよ」
ゲイルが苦笑し、サウラも微笑んで少年を見る。
「丸一日眠り続けていたから心配したよ。傷は深くなかったけど、安静にしていてね」
少年に近づいてかがみこみ、目線を合わせてエルフの司祭が言った。
「…あんたたち、俺のことが恐くないのか」
少年はゲイルとアレクを交互に見詰めて問う。ふたりは顔を見合わせて笑い、少年に横になるように告げてからテントを出て行った。
「エクセルを守ってくれて、ありがとう」
残ったサウラが、頭を下げて言った。エクセルが少年の布団の端を優しく叩く。
どうしていいかわからない顔で、少年は戸惑いながらなにも答えられずにいた。
「それでね、君さえよければ一座に残ってくれないかと思って」
もし他に行くところがないのならばだけど、と座長は言った。
「エクセルの友達が、一座にはいなくてね。歳の近い君がいてくれたらこの娘も寂しくないと思うんだけど、どうかな」
優しく微笑む座長ととたんに顔を輝かせた娘を見て、しかし蒼流は寂しそうに笑った。
それから顔を背け布団を深くかぶる。
「…化け物の友達なんかいないほうがいい」
一言だけを残し彼は眠ってしまった。サウラは娘を残し、寝室から出た。
数日の間、安静を言い渡された蒼は寝室で横たわったまま、あいもかわらず無言だった。
一緒に砂漠を歩いた時には言葉を交わしたのに、エクセルにも一言すら言葉をかけようとしない。名を呼ばれても頑なに答えようとはしない彼の様子に、大人たちは心を痛めた。
そして、昼が終わり夜になった。
「蒼流くん、ちょっと」
月明かりに照らされた砂地が穏やかに広がる、珍しくも風のない時間に、アレクは寝室で身を起こし虚空を睨んでいた少年に声をかけた。
少年は声にも視線を向けることなく動き一つない。
「蒼君。少しだけ出ておいで。君の逢いたい人のところについたよ」
辛抱強くアレクは声を掛け続け、このひとことでようやく蒼流は彼に視線を向けた。
「逢いたい人?」
「うん」
出ておいで、と言いながら彼は蒼流の手をとり、彼が振り払おうとはしないのを確認してからゆっくりと歩いて外へと連れ出した。
月が冴え渡る綺麗な夜だった。もうすぐ街につくと話していた筈なのに街の影すら見えない。
「戻った、のか」
目の前に突き出た巨大な岩は、あの少女が自分を拾ったといったあの場所ととてもよく似ていた。うっすらと覚えている。母が倒れ自分が意識を失ったあの場所。
わざわざ引き返したというのか。行きずりの、しかも人間ではない化け物のために一座すべて引き連れて、ただひとりのためだけに、こんなところまで。
「すまなかったね。勝手に君だけをここから連れてきてしまった」
サウラは岩のすぐ傍で待っていた。少年の姿を見つけると、手を差し伸べながら彼女はそう云って謝罪した。
「留まっていればよかったのだけれど、案内人が言うに、ここは砂がとても崩れて流れやすい場所なのだそうだ。それで離れてしまった。君の母上はもう埋もれて見えない。掘り出すのは困難だろうが……」
我がことのように苦しげな表情でいう彼女に、あの娘の親だなあとしみじみ少年は実感した。
どこまでも人のいい一座の人達。彼らをいとおしいと思った。心の底から。
「いいんです」
しばらくして、少年は言った。
「ひとめ逢いたかった。本当は一緒にここで死にたかった。けど、もういいんだ」
魂の拠り所だったものはもうどこにもいない。
彼にとってはなにより尊かった銀色の狼はこの砂の下に永遠に眠っている。
追いかけてももうきっとたどり着けない場所に行ってしまった。
追いつけないのなら、追いかけても仕方ないのだろう。
彼女に守られた命の燃え尽きるまでひとりでも生きていかなくてはならない。
「座長殿」
少年は、まっすぐにサウラを見た。
「……俺は、化け物です」
苦い笑みを浮かべながら岩の傍に歩み、座長と剣士、そして司祭と幼い少女を見詰める。
「そこの三人は見ただろう、俺が魔物だという事実を。魔物の身では人間と一緒にはいられないと、今でも俺は思っている。」
「蒼は化け物でも魔物でもないよ」
エクセルの言葉に、蒼流が微笑した。綺麗な笑顔だった。
「ありがとう」
ゲイルとアレクはなにも云わず、少年をただ見ている。
「だけど、もし」
少年は躊躇いがちにうつむいたままで言葉を続けた。
「もし、そう云ってくれるのが彼女だけでないなら、俺を連れて行って下さい。
いつ処分してくれてもかまわない。もとよりあなたがたに拾われた命だ。」
緩やかに風が吹いた。少年の長い前髪を揺らし通り過ぎた風は彼の背後で天に向け駆け上った。
「置いてやっちゃどうよ」
最初に口を開いたのはゲイルだった。
「わたしはもとより異論はないよ。申し出たのはわたしだしね」
サウラが肩をすくめた。エクセルが嬉しそうに母のズボンを引く。
「なあ坊主、お前さんが化け物なのは知ってる」
ゲイルの言葉に、蒼流の肩が少しだけ揺れる。アレクはただ黙ったまま見守っている。
「けどな、俺らが駆けつけたときお前は最後までその化け物の力をこの娘には向けなかった。それだけで理由としちゃ充分だと思うがね」
「理由…?」
「お前さんをただの化け物じゃないと認める理由さ」
背を向けてひらひらと手を振り、煙草吸いてえから戻るわと引き上げるゲイルに苦笑しながら、そこでようやくエルフの司祭が立ち尽くす少年に手を差し伸べた。
「ようこそ、夏蒼流。我らが一座へ。」
…――― 守りたい者のために力を振るうとき、
魔物だ人間だなんて枠は意味を無くすもんさ。
草原の上を馬車がゆく。街の明かりをすぐ傍に見ながら、揺れる車中でゲイルはのちに弟子となる少年にそう云った。
「獣は飼いならしてもいつか牙をむくとは思わないのか?」
「むくなら最初からむいてんだろ」
少年の言葉に愉快そうに、ゲイルは煙草の端を噛み潰しながら笑う。
「なあ蒼流。お前の母親がお前を守ったときお前さんは彼女の傍で死にたいと思ったろうが、お袋さんはそんなこた望んでなかった。エクセルの嬢ちゃんがお前にさんざ言った意味、もうわかっただろう?」
「え……」
「もしもだ。あのときお前さんがあの娘を助けて死んでたとして、あの娘がお前のあとを追って死んだら、どう思う?」
言葉を飲み込んで考え込んだ少年の髪をぐしゃぐしゃと撫でゲイルはまた愉快そうに笑った。
「そういうことだ」
「それで、母上の心を殺すって云ったのか」
少年は窓の傍で楽しそうに外を眺めながら司祭と話し込んでいる少女を見た。
「あの娘も生まれる前に父親を亡くしててな。座員を守るために死んだ父の話を聞いて育ってんだ。お前のことは人事じゃねえんだろう」
目を細めてゲイルはサウラとエクセルを見た。蒼流も彼女たちに視線を向ける。
「いいか、夏蒼流」
刀に手をのばし、掴むとゲイルはそれを少年のほうに放った。
「力の善悪は目的による。魔の力だろうがプラスに向けりゃあ悪いものにはならねえ。てめえが化け物だろうが気にするこたねえ。母親に置いて行かれて悲しいならお前は置いていかねえでいられる男になれ」
言葉に蒼流が剣を強く握り締めた。顔を上げてゲイルをみる。
その瞳に、火がともる。
「死なずに守れる男になれ。――― そのための力だ。」
馬車が街に近づいていく。砂漠の吹きすさぶ風に洗われて、死神の影消えた戦士の顔の少年は窓辺に立つ少女の隣に進み、流れていく景色を見た。
「人間の街は初めてだよね、蒼」
エクセルが笑った。
「ああ」
答えて蒼流もぎこちない笑顔を向けた。少女がこっそりと少年の手を握り、囁く声が届く。
もう、恐くないよ。
それはどちらの言葉だったのだろう。
馬車をすり抜けて後方に流れ去った風以外には、知るよしもない。
ひづめの音響かせて馬車は街の門を潜った。
見上げた空はただ蒼く、雲は風の導くままに流れていく。
ゆるやかに、ただ、遥かまで。