七 汚染物質
終わりの会が済んで、お隣の高森くんにとっときの笑顔で話しかけようと思ったら、廊下から「お兄ちゃん」って声が聞こえて、高森くんが教室を飛び出して行ってしまった。
さすがに妹ちゃんにはかなわない。
廊下を手を繋いで帰っていく仲良し兄妹を、金井さんがうらめしそうに見つめているのを見逃すもんですか。
ふん、血は乳よりも濃ゆいのよ!
でも、一日、疲れた。
ぐったりとため息ついてランドセルを背負ったとき、わたしの左肩で、
「とぉもりん」
達川くんの声にびっくりして振り向いた。2メートル先の席から真面目な顔して近付いてくる。
たぶん、おそらく、いや間違いなく、『ともい』と言ったのを『とぉもりん』と聞き間違えただけなんだろうけど、例の、『ん……』『んんん……』が頭をよぎって、とっさに周りを見回した。
「ちょっと待って!」
落ち着いて! さっきは放課後ならいいよみたいなこと言ったけど、まだこんなに人がいるんだよ! せめて二人っきりになるのを待って!
彼が30センチ手前までずんずん迫ってきた。わたしは慌てて15センチ後ろに下がった。
ダメ! もし、いま、パーソナルスペースに入られたら、わたしはきっと『そっとまぶたを閉じました』になってしまう。
それで、達川くんは、
「はい」と、手にした消しゴムを突き出した。
「えっ、あっ、ありがと」
いつの間にか落としてたのを拾ってくれたんだ。
そう思ったのは、それがわたしが使ってるのと同じ消しゴムだったからだ。
拍子抜けだった。
こんなにクラスメイトがいっぱいいる中でどんなふうにアプローチしてくるのかってちょっと期待したのに。そういえば『放課後ならいいよ』なんて、頭の中で思ってただけで言ってなかったっけ。
消しゴムを受け取ると、達川くんは、じゃ、と片手を上げて、逃げるように教室を出て行った。
えっ、帰っちゃうの?
おいおい、せめて「一緒に帰ろうよ」ぐらい言ってみたらどうなの? そしたら、まあ帰りぐらい一緒に帰ってもいいかなって返事してやるのに。
それで、途中の公園で寄り道してブランコなんか乗ったりしてさ。だんだん日が暮れてきて、「あーあ、帰りたくないなあ」って、ぽつりと言ったら、達川くんがブランコからおりてわたしのところにきて、後ろからきゅって抱きしめて「僕もだよ」なんて耳元でささやいたら、もう、わたし、きっと『お持ち帰りですか? こちらでお召し上がりですか?』なのに。まったく、最近の若い男ってきたらなってない、草食系ってやつかね。
手の中の消しゴムに目をやって、ハッとして、慌ててそれをスカートのポケットに突っ込んだ。
「ユカ、どうしたの?」
きくちゃんだ。 たいていきくちゃんは家が同じ方向のこころちゃんと一緒に帰る。
わたしのところに来るのはこころちゃんが、あの、ほら、あの3位の子の――誰だっけ?――のいるグループと一緒に帰ったりするときだ。
わたしと一緒に帰るといっても、学校を出てからバイバイするまでわずか10メートルほどだけど。
たったそれっぽっちの距離なのに、一人で帰れない人が学校には山ほどいるんだ。そういう子たちって、大規模災害が起きたときなんか、自分の身は自分で守るってできるのかな?
まあ、べつに誰がどうなっても高森くんさえ無事ならわたしはいいんだけどね。
「うん、消しゴム拾ってくれたみたい」ポケットの中から消しゴムだけを取り出して見せた。
「それ、消毒しといた方がいいよ」
きくちゃんはつくづく男子が嫌いだ。それで、何かとわたしを仲間に引きずり込もうとする。
お気持ちは嬉しいけど、ひといちばい男好きのわたしが達川くんで肉食動物ごっこしてるのがバレたら殺されちゃうかもしれない。高森くんを悪くいうのもきっとわたしから男を遠ざけようという魂胆だ。
きくちゃんはいつものように男子が触ったものがいかに汚いかをていねいに教えてくれる。
いわく、
・男子はトイレに行ってもろくに手を洗わない。
・男子はトイレで必ず『ピィちゃん』にさわる。(注:きくちゃんは男子が言うみたいな男らしいストレートな呼び名を平気で口にするけどわたしは恥ずかしくて子供っぽい可愛めな呼び方ですら小さな声でないと使えないから男の子のはいつも頭の中で可愛く『ピィちゃん』に変換してる。ちなみに女の子のは『ロロちゃん』)
・男子の『ピィちゃん』の中には十年分の汚れが溜まっててドロドロになってる。
・それなのにトイレで『ピィちゃん』に触っても手を洗わない。
・なので、男子が触ったものには『ピィちゃん』菌がついてる。
・だから、男子が触ったものは『ピィちゃん』だと思え!
「だから、その消しゴムは、達川の『ピィちゃん』と同じなんだよ!」
ひええ!
慌てて手にしてた消しゴムをポケットに落として、手のひらをスカートでゴシゴシ擦った。
「帰ったら、消毒しとくよ」
わたしが男子嫌い発言をするときくちゃんはニンマリ満足気に頷く。
「そうそう、あんたは男なんかに近寄っちゃダメだよ」
きくちゃんがわたしの手を取っていつものように指をからめた。
「帰ろ」
世間では恋人繋ぎって言うらしいけど、女の子同士はわりと普通にやってることだ。ひょっとして、きくちゃんの男子嫌いは女の子が好きだからなのかもと思ったこともあったけど、違う。
――――――――――――――――
「ユカ、わたしアンタのことがずった好きだったんだ」
「きくちゃん」
「アンタを高森なんかに渡さないよ!」
「ん……」
「んんん……」
――――――――――――――――
違う!
妄想としては面白いけど、違う。
きくちゃんお気に入りの佐藤くんはまるっきり男の子だ。パンツの中を覗くまでもなく男子だ。性別は男だけど心は女で女の子として生きていきたいという男の子というわけでもない。地元のサッカークラブで活躍してて結構上手らしくて、女の子にキャーキャーいわれてへらへらしてるわかりやすい男の子だ。
そのせいできくちゃんはそれまでサッカーなんてなんの興味もなかったのに、ザスパの情報を集めたりランドセルにマスコットキャラクターのヘンテコな人形をぶら下げたりしている。
わたしに「ねえ、オフサイドって知ってる?」って、それ、いちばんめんどくさいタイプのにわかじゃん!
きくちゃん、佐藤くんにモテたいなら、そんな乙女チックな追っかけなんて似合わないことしてないで、バッサリ髪を切ってスポーツやんなきゃ。
うちのクラスで佐藤くんのお気に入りは、ソフトボールの潮田さん、陸上の米山さん、それに同じサッカークラブの松本さんなんだから。
三人とも、髪短いでしょ?
佐藤くんはね、汗かいた女の子のうなじが大好物なんだよ。体育の後なんか、わざわざ背後に回り込んでちらちら見てるんだよ。変態だよ。
わたしが夏休み中にうっかり髪を切りすぎただけで、二学期になって急に佐藤くんから朝の挨拶されるようになったぐらいだからね。
男の子をモノにしたいなら、もっと良く相手を観察しなきゃね。
わたしなんか、高森くんを観察しすぎて、あまりにも金井さんと仲良すぎることにショックを受けてるんだから。
「あ」いけない、思い出した。
「どしたの?」
「そっちの手、『ピィちゃん』の菌ついてるよ」
繋いだ手を胸の高さに持ち上げる。消しゴムを持った方の手なんだった。
「いいのいいの、わたし『ピィちゃん』には免疫があるから大丈夫なの」
きくちゃんがにっこり笑うから、ほっとし た。
さすが、男の兄弟がいるだけあって、きくちゃんは『ピィちゃん』慣れしてるから見ても触っても平気なんだ。
実に頼もしい。