一 生物兵器
「ケーくん、明日の遠足、楽しみだね」
学習机に広げた遠足の持ち物の中から『遠足のしおり』を手にとって振り返った。
「一緒の班になれてよかった」
わたしの部屋のベッドの上で彼が優しく微笑む。
「うん!」
しおりを持って彼の横に座ってページを開く。五年一組二班のメンバーとそれぞれの係が表になっている。
班 長:牝牛座の女
副班長:どうでもいい男子
地図係:高森啓示
時計係:友井優香
保健係:こんなの知らない男子
美化係:そうぞうしい女子
わたしと高森啓示くん! 二人が仲良くお雛様みたいに並んだ名前をみると嬉しくてたまらなくなる。
班で集まって係を決めたとき、全員のしおり六冊の自分の係の欄に名前を書いて回した。その方が仲間意識が出るっていう、先生のアイデアだ。おかげで、この『高森啓示』は彼本人の直筆サイン、お宝だ。もちろん、わたしも高森くんのしおりには渾身の愛を込めて名前を書いた。
しおりを持って帰ったその日に、二人の名前の間に傘マークを書き込んで、それで「もう夫婦じゃん!」って叫んで、で、焦って消した。
わたしがその場の勢いで何かをすると、たいていろくでもないことになる。そんなをの誰かに見られでもしたらわたしと高森くんの密かな関係がバレてしまう。
「ユウユウ、なにか、線の跡が残ってるよ」
ケーくんがしおりを覗き込んで耳元でささやく。だってホントは消したくなかったんだもん。
二人の間に少しの沈黙。
せーのっ!
「あっ、ケーくん!」
彼にいきなり肩を押された。
同級生でも男の子の力は強い。ベッドに転がったわたしの上に、彼が乗っかってきて、身動きができなくなった。
「ユウユウ、好きだよ」彼の吐く息が頬に熱い。
「ダメ、わたしたち、まだ小学生なんだよ」
「五年生なんてもう大人と同じだよ!」
これはちょっと言い過ぎだったような気がしたけど、ここでツッコミ入れても仕方ない。
わたしを力強く抱きしめる彼の体は、なんて言うか、えっと、どう言ったらいいんだろ。こういうのを『語彙が少ない』っていうらしい。
ああ、そうだ、このあいだ「オマエ、早生まれだろ、三月生まれなんて、まだ四年生と同じなんだよ」って、あの、ほら、誰だっけかにいわれたけど、まあそれはいいや。
「ケーくん……」ああ、彼の顔が迫ってくる。わたしはそっとまぶたを閉じた。
「ん……」
「んんん……」
もお、小学生なのに!
キスなんてまだ早いのに!
「ユウユウ、ケーくんのこと大好き!」
ケーくんに思いっきり頬ずりで甘えちゃう。
ほらほら、ケーくん、もう一回!
「ん……」
「んんん……」
頭の中がポカポカしてきて、わたしは「ん……」「んんん……」を何度も何度も繰り返しながら、ベッドの上で両脚をじたばたさせた。
「優香さん、お友達がいらしてるわよ」
あっ、部屋の外でお母さんが呼んでる声がかすかに聞こえる。きくちゃんたちが来たみたいだ。やれやれ、これからいいとこだったのにな。
「はあい」
顔の上のケーくんを放り投げて、起き上がった。可哀想なケーくんは勢い余ってベッドから転げ落ちて床の上でくてっとなってる。ベッドから降りて情けない姿の彼を掴みあげ、枕の上に置いた。
「いい子だから大人しくしててね」
わたしが相手をしてあげない限り、くたくたウサギのぬいぐるみが大人しくしてない訳がないんだけどね。
もう一度、ケーくんに、わたしの方からチュッてしてあげて、ジャケットとリュックを持って部屋をでた。
二階からカーブ階段を降りてホールからリビングに顔を出す。
晩御飯の支度にはまだ早いお母さんがソファーに座ってあくびのでそうな音楽を聴きながら優雅に午後のティータイムを楽しんでた。
サクサクに焼いたスコーンにたっぷりメイプルシロップをかけたのがお母さんのおやつだ。太るぞ、と言いたいけど、お母さんは何があっても太らない。もしわたしがお母さんと一緒にティータイムを楽しんだら、怖くて体重計に乗れなくなるというのに。
「菊川さんと桐谷さん。いつものKKコンビね。寒いから上がってって言ったんだけど、お外で待ちますって……」
お母さんはいつものように地球人の二倍の時間をかけてゆっくりしゃべる。お母さんの周りだけ、時間の進み方が違うみたいに。
なのでわたしはいつもお母さんが話し終わるまで辛抱強く待たなければならない。そういうときは頭の中でいろんなことを考える。
お母さん、きょうは寒くないよ。
お母さんみたいに20℃以下になったら寒いといい、23℃を超えたら暑いというような人は珍しいんだ。部屋の温度計が20℃を超えていないと、「あら一枚羽織らなきゃ」なんて、まるで飼育器の中にいる希少生物だよ。
あ、お母さんが話終わる。
でも、そこですぐに返事をしてはいけない。
表情をよく見て、さあ、お返事してもいいわよ、という感じになってからじゃないと、お母さんののんびりした脳細胞は反応できないみたいなんだ。
いきなり言葉を返したりすると、
「あら、何を怒ってるの?」ってなる。
一方のわたしはものすごく気が短い。すぐにイライラするし、頭の中は暴言だらけだ。
ぐずぐずするな、とっととやれ、何やってんだバカヤロー! だ!
学校でもクラスの子の会話についつい脳内でツッコミを入れまくってる。
きっと、お父さんとお母さんがわたしを作るとき、ものすごくイライラしてたにちがいない。
お父さんのイライラ成分がお母さんに入り込んで、お母さんのイライラと掛け合わさってできあがったのがわたしなんだ。
でも、普通、そんなにイライラしてるときにそういうことするかな? もっと、こう、ラブラブって感じじゃないの? よくわかんないけど、一種のストレス発散ってやつ?
ひょっとしたら、お父さんは男の暴力的イライラと女のヒステリックイライラを融合させたらどんな生物が生まれるか、実験してみたのかもしれない。
お父さんの会社でやってるバイオテクノロジーってやつだ。お父さんの会社はそのバイテクで生み出した細菌に二酸化炭素を食べさせて水素エネルギーを作る研究をやってるらしいけど、裏ではわたしみたいな人間も生み出して生物兵器にしようと企んでるのかもしれない。
そのうちカッコイイ変身ヒーローがわたしの前に現れて「ついに見つけたぞ、イライラ怪人、覚悟しろ!」とかさけんでヒーローキックを放ってくるにちがいない。
だから、わたしは周りの人にイライラしてるのを気付かれないように、頭の中では暴走してても、みんなの前では深呼吸しながらおだやかに生きていかなければいけないんだ。
ああ、はやく人間になりたい。
そんなわたしに、お母さんは全部のイライラを与えてしまったから、もう体の中にそういう成分がひとかけらも残っていない。じつに穏やかで優雅で、マシュマロみたいにふわふわ生きてる。
そんなお母さんに対して、頭の中で酷い言葉が溢れてこないのは、この人のゆっくりに慣れてるからだ。しかも、この人は機嫌がいいといくらでもお小遣いをくれるし、欲しいものはなんだって買ってくれる。のんびりになりすぎて、おサイフのヒモまでゆるくなって伸びきってしまってるんだ。
だからわたしはお母さんの機嫌が悪くなるようなことは絶対にしない。
お母さんが少し不機嫌な眉毛になるのはわたしがテストを見せたときか、通知表をもらって帰ったときぐらいのもんだ。
あ、お母さんの目にGoサインがでた。
「お友達が、あしたの、遠足の、おやつを、買いに、行くって、いうから、これから、キミトまで、一緒に、行って、それで、ちょっと、おしゃべりして、きます」
早口にならないように、ところどころに『、』を入れて話をするといい。
キミトっていうのはJRの駅前に二年ぐらい前にできた大きなショッピングモール。いろんなお店が入ってて楽しくて一日中いても飽きないんだけど、子供だけで行くにはちゃんと家の人に許可をもらってでないとダメだと、キミトがオープンしたときに学校から配られたプリントに書いてあった。
もちろん、そんなことを未だにまともに守ってる子なんてクラスではわたしぐらいなもんなんだけどね。
それにお母さんは、わたしが、いつ、どこで、だれと、どんなことをするのか、をきちんと言わないと、必ず聞き返してくるから、最初に全部話すようにしてる。
「いまから? キミト……」
さあ、お母さんが長考に入りました。どうでしょう、少し遠いでしょうか? 自転車で15分はわたしが文句を言いながらでもなんとかこげる精一杯の距離だ。
お母さんは壁の時計を見上げてから、小さく頷いた。
「楽しそうね。でも、遠くても遅くなるのはちょっとだけにしましょうね」
「はい」
よっしょあ! 頭の中でガッツポーズ。門限延長してくれた。いつもは五時だけど、五時半までに帰ってきたらいいって意味だ。
「お小遣いはある? あそこのカフェで、いま、季節限定の栗と抹茶のラテがおいしいわよ」クリームをいっぱい乗せていただくの、と思い出しながら幸せそうな目をする。
「はい、お小遣いは、今月の分が、まだ少しあるから、大丈夫です。カフェは、お友達と、相談して、決めるね」
お母さんのオススメなら絶対にめまいがするほど甘いヤツに違いない。オシャレなカフェには行きたいけど、一杯五百円ぐらいするラテは友達には気楽に勧められない。
「そうね、気を付けて行ってらっしゃい」
わたしはお城の舞踏会に出掛けるお嬢様の雰囲気で優雅に膝を曲げてご挨拶をしてリビングを出た。
玄関を開けると、窮屈な時間の流れから、一気に開放された気分になる。
思わず深呼吸+ぐっと伸びをした。
でも、門のすぐ前にはきくちゃんとこころちゃんが自転車で待っていた。