第5章 馬の背と土のにおい(6)
「――というわけで来週は日焼け止めが必要になりそうだから、忘れないでねっ!」
いよいよ動画配信は無事に終わろうとしている。
最後に残るのはお決まりのあいさつだけだ……と思っていたのだが、
「いつもならこんな感じで、またねーって終わるんだけど、今日はせっかく外で撮影してるからもうちょっと続けちゃうね」
水無瀬はそう言うと、川のほうへと歩き始める。
「なにしてんだよ?」
声に出さずに口の動きだけで伝えると、水無瀬は「あっ」と口元に手を当てる。
『ごめん、センパイに伝えるの忘れてた』
直後、スマホに松本からメッセージが届いた。松本は申し訳なさそうな顔をして両手を合わせている。
『伝えるの忘れてたって、なにを?』
しゃべるわけにはいかずスマホのメッセージで問うと、
『台本をちょっと書きかえちゃったんだよね』
『ちょっとってどんなふうに?』
『希ちゃんが川の様子を写しながら、台風が近づいてきたときの対応の仕方について話したいって言ってたの。そこだけだから、すぐ終わるから』
それはまずい。すぐ終わるからいいってもんじゃない。水無瀬を川に近づけさせるわけにはいかない。
来栖が言う通りなら、もし水無瀬が土のにおいをかぐとパニックを起こしてしまう。そうなればその時点で動画配信どころじゃなくなってしまう。せっかくいい流れでここまできたのに台無しにしたくない。
『台本の変更はなしだ。いますぐ水無瀬には配信を締めてもらう』
慌てて松本にメッセージを打ったのだが、
『そんなこと言っても、もう無理。だって……』
中途半端なところで途切れた返信を怪訝に思って松本を見やると川のほうを指さしていた。
水無瀬はすでに川べりの手すりに手をついて川の様子をうかがっていた。
手遅れだった……と思ったのだが、水無瀬に変わった様子はない。俺に向かって小さく手招きをしている。
水無瀬がパニックを起こすなんて来栖の考えすぎだったのかもしれない。
もしくは北のほうの雨が予想よりひどくないのかもしれない。
いまはどちらでもいい。とにかくこの動画配信を無事に終わらせることが先決だ。俺は水無瀬の近くへと歩み寄る。
「川が写るような角度でよろしく」
小声で告げる松本に従って画角を定めると、水無瀬が再び口を開く。
「梅雨は明けたけど鹿児島の防災シーズンはこれからが本番だよ。最後にその話をしちゃうね」
先ほどまでと変わらないテンションで明るい口調。興味を持ってもらえるようにしたいという水無瀬の気持ちが伝わってくる。続けて、「まずは甲突川を見てくれるかな?」と水無瀬は身体を川のほうに向ける。
「普段から川を見ておくのは大事なんだ。いつもと様子が……」
そこまで言って水無瀬は口をつぐんだ。
「様子が……」
繰り返して鼻をすんと動かした。
まずい、と直感的に思った。
「一真、まずいことになったぞ」
俺の背後で来栖が肩で息をしていた。さっきまで新田先生と話していた所から駆けてきたらしい。
「水無瀬のことだよな、わかってる」
「それもあるが、まずいのはそっちだけじゃない」
ちらと水無瀬に視線を送った来栖はすぐに俺に真剣なまなざしを向けてくる。
口を開きかけた来栖に無言でスマホを指さして動画配信中だということを伝えたのだが、来栖は気にせず言葉を続ける。
「モカちゃんの弟さんに聞いて大雨が降っている場所が特定できた――ちょうど北部青少年自然の家の辺りだ」
「名倉たちが勉強合宿をしてる所だよな?」
小声で訊ねる俺に来栖は重々しく頷いた。
「累積雨量と今後一時間の雨量を解析すると、あの辺りではいつ土砂災害が起こってもおかしくはない。すでに発生している可能性だってある」
「俺じゃなくて、水無瀬に伝えろよ。カメラの前に立っているのは水無瀬なんだし、名倉にはこの配信のことを伝えてるから見てるかもしれないだろ。もし見ててくれたら避難できるかもしれないし」
「……それは無理な相談だ。川を見てみろ」
来栖に促され、水無瀬の背後の川を見やるとすっかり濁っていた。動画配信前より水位も上がっているし、さっきは半透明だったら水には泥が混ざっているのが明らかだった。
「上流で崩れ始めた土が流れてきてる。こうなると……」
口をつぐんで視線を移す来栖につられて、視線を動かすとそこには水無瀬がいた。
「………………土の、におい……?」
水無瀬は呆けたように漏らすと、ふらふらと座り込んでしまった。
「いや、やめて、やめて、やめてっ! …………お願いだから……わたしたちから奪わないで」
『七・六豪雨』の記憶がフラッシュバックしたのか、頭を抱えて錯乱したようにわけのわからないことを叫んでいる。
見ていられないとばかりに来栖は首を振ると、水無瀬のほうへ踏み出す。
「一真、あとは任せるぞ。最大級の警戒を促せ。自分は希をなんとかしてくる」
「おいっ、そんなこと言われても俺にはなにもできないぞ」
「自然に勝つことはできなくても負けない戦いはできる。だからできないなりになんとかしろ」
なんとかしろと言われても困る。
しかしこのままじゃいけないのもわかっている。
私用のスマホでサイトの反応を見ると、『なに、どうしたんだ?』『いきなり演劇でも始まったの?』なんてコメントが並んでいる。『炎上で接続数を増やそうとでも思ってんじゃねえの』というコメントもあって、一万に届きそうだった視聴者数は目に見えて減ってきている。
「センパイ、アタシが撮影するから」
松本が手を差し伸べてきていた。
さっきまで持っていたはずのノートPCは近くの新田先生が手にしている。松本もことの成り行きを先生に聞いたんだろう。唇をきゅっと引き締めている。
「撮影は俺が続けるから、松本がカメラの前に立ってくれ」
「そんなの無理に決まってんじゃん。アタシは気象の勉強なんてなにもしてないんだから」
「それを言ったら動画配信なんて俺もほとんどしたことないんだぞ」
「そうだけど、でもどっちが大事なのかわかってるでしょ? いまは話すのがうまいとか画面映えするとかそんなのはどうでもいいの。雨、危ないんでしょ」
「それはそうだけど……」
「だったら悩んでる暇なんてないし」
松本は俺から強引に撮影用スマホを奪うと、俺の背中をどんと押した。




