第5章 馬の背と土のにおい(2)
『梅雨が明けたぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!』
俺がキボウ部のアカウントでつぶやいたツイートがバズったのは、屋外で動画撮影をすることを決めた翌日のことだった。二限目の休み時間に梅雨明けを知ってすぐに投稿したツイートのインプレッションは一〇万を超えていまも伸び続けている。
動画の再生数が増えるにつれて、ツイッターのフォロワーも増えていた。でもそれは水無瀬と松本の動画があってこそ。俺個人の力ではなにもできないと思っていたのだが、今回は違う。
機転を利かせてタイミングぴったりのツイートをしたことで、こうしてバズらせることができたんだと思うと、自然と笑みがこぼれる。
昼休みに中庭で自販機の隣にあるベンチに腰かけてスマホの画面を眺めていると、
「一真、キモいぞ」
自販機から紙パックの飲み物を取り出しながらそう言ったのは来栖だった。
「キモいってなんだよ?」
「そうだな、悪かった。言い直そう――一真の顔がキモい」
「なんのフォローにもなってないからな! むしろ悪くなってるからな!」
俺の抗議を笑顔で受け流して来栖はベンチの俺の隣に腰を下ろす。
「そんなにニヤニヤしてなにを見ていたんだ?」
「ツイートだよ。バズったんだよ、というか俺がバズらせた」
「ほう」と息をはきながら来栖は俺が掲げるスマホの画面を眺める。まじまじと見つめたあと、紙パックにストローを刺して抹茶ラテをちゅるり一口含む。
「少し早すぎる気もするんだがな」
「早いってなにが?」
「……梅雨明けのことだ」
額に手を当てて空を仰ぎ見る来栖。視線の先には青空が広がっている。雲がまったくないわけじゃないけど、梅雨明けと言われても全然違和感はないような空だ。
「わた雲がポツンと浮かんでいれば晴れが続く……だったよな」
「そうだ。雲が動いたり大きさを変えたりしていれば天気は崩れるが、いまみたく浮かんでいるだけなら天気は安定している。しかし一真も変わったな」
「俺が変わったってどこが?」
「空を見て天気の状態を推測できるようになったってことは勉強は続けているのだろう?」
「……そうだな」
この間受けた気象予報士試験で俺は学科一般に合格していた。水無瀬が実技試験まで合格したことを祝福するムードとそのあとの廃部宣言で、俺の結果のことはキボウ部の中で話題に上らなかった。
けれど実は――結構悔しかった。
水無瀬が七回受けてやっと合格したように一回で完全合格を果たすことが難しいというのは重々承知していた。一科目を重点的に勉強するというのは事前に来栖と決めた方針で、その目標は達成できた。でも、やっぱり悔しいものは悔しい。
だから合格発表の日からすぐに勉強を再開していた。
「どうしてなんだ? キボウ部に入ったのだって希に無理やり引っ張られてきたのがきっかけだったんだし、気象にも興味はなかったんだろう?」
来栖に見上げられて、俺は心のうちを悟られた気がして視線を逸らす。
「なんなんだろうな。一回始めたからには最後までやり通す……ってのは俺の性格じゃないんだよな」
「そうかもな。一真は根性がないからな」
「ぐっ……」
付き合いの浅い来栖にすら見透かされていたかと思うと、反論したくても言葉に詰まってしまう。ぐぬぬとうなることしかできない俺に来栖はいたずらっぽく笑って、「だったら」と続ける。
「やっぱり希のおかげだろうな」
「……水無瀬の?」
「希は昔からああなんだ。一度やると決めたらその目標に向かって突き進む。周りの人を巻き込むことだっていとわない」
「それは知ってる。だけどキボウ部に入るだけじゃなくて気象の勉強まで続けてしまうことになるなんてな……」
苦笑する俺に来栖は優しく微笑を返す。
「だからこそ廃部はなんとかして免れさせてやりたいんだが、こればっかりは自分がどうこうしても簡単に覆せるものじゃないからな」
「その気持ちはわかる。さっき言い当てられたみたく俺には根性がないからなにかをずっと続けるなんてことはしてこなかった。でもそうしようとしてる人の気持ちぐらいはわかるつもりだ。屋外で撮影をして、防災のことに結びつけて、それでなにか変わればいいんだけどな」
「今日はよく語るな?」
慎重に言葉を選びながら言うと、来栖が口元をにたりと歪ませていた。
「なっ、来栖のせいだろっ! 変な話を振ってきたから変な流れになったんだよ!」
慌てて顔を逸らした拍子に俺の視界は青空でいっぱいになった。さっき見たわた雲もそのまま。どこまでも穏やかな空だった。
「そういや、さっき梅雨明けが早すぎるんじゃないかって言ってたけどどういうことなんだ? こんなに晴れてれば全然おかしくないんじゃないのか?」
「今日の空はいいんだ。だがな、ちょっとこれを見てほしい」
おずおずと視線を戻すと、来栖は紙パックの抹茶ラテをちょこんと手の平にのせていた。
「うまいのか?」
「うまいぞ。でもそんなことを言いたくて見せたわけじゃない。せっかくさっき勉強を続けていることをほめてやったのに、所詮一真は一真だったな」
「察しが悪くて悪かったな。けど味のことを言ってるんじゃなければ、なんでそんなのを見せるんだよ?」
「紙パックの表面を見てみろ」
真意はまったくわからないけれど、そんなことを伝えるとまた無駄にディスられるだけなのは目に見えている。
とりあえず来栖の言葉に素直に従って爽やかな緑で彩られた表面をじっくりと見る……が、とくに変わった所は見当たらない。ラベルの文字までは読み取れないけど、ラベルを見るならパックごと手渡すんだろうから、そこは関係ないんだろう。
「どうだ、なにか気づいたか?」
来栖に急かされてもわからないものはわからない。
「表面に水滴がいっぱい付いてるな」
「ほう、そこに気づくとはさすがだな。自分が勉強を教えたかいがあったというものだ」
場をつなぐために適当に見た目を言っただけだったのだが、正解だったらしい。来栖は満足げな表情を浮かべると、淡々と言葉を紡ぐ。
「今日の気温はそんなに高くないだろう。それなのにこれほど結露が進むということは水蒸気が多いということだ。梅雨前線の北と南では水蒸気の量が全然違うと教えたよな?」
「それは覚えてる。でもだったら前線はいま、鹿児島の北にあるから水蒸気量が多いのは当たり前なんじゃないのか?」
「太平洋高気圧が強ければたしかにそうだが、今年は梅雨明けしたというのにまだ太平洋高気圧の張り出しが弱いんだ」
「つまり……?」
「梅雨が明けたといってもまだ油断はできない、ということだ」
来栖が眉をひそめたのと同時に昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
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