第4章 寝耳に水の初試験(6)
ビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリっ――
実技試験の開始と同時に試験会場に響き渡った音に俺は肝を冷やした。なにごとかと周りを見回すと、ほかの受験者たちが一斉に試験問題を破り始めていた。
なにをしてるんだ?
混乱しながらも、俺は試験問題の冊子を開く。
と、音の正体にすぐに行き当たった。冊子の冒頭数ページは天気図で、問題はそのあとから記載されている。どうやらほかの受験者たちは問題を解きやすくするために天気図の書かれたページを破っていたらしい。よく見たらミシン目も入ってるし。冊子にはトレーシングペーパーも挟まっていたから、切り離した天気図に前線を書き込んだりするために使うんだろう。
ようやく気付いた俺が冊子から天気図を切り離し始めたころには、ほかの受験者はもう問題を解き始めていた。気を遣ってもどうしてもビリと音が響いて、隣の席の受験者に睨まれてしまった。
知らなかったからしょうがないだろ。文句があるなら、事前に教えてくれなかった来栖と水無瀬に言ってくれ。心の中で言い訳しながら天気図を切り離して、俺は第一問目を読み始めた。
実技試験では二つのシチュエーションが問われた。
といってもどちらも台風接近時のもので、合宿のときにおっさんに悪態をつかれながらも教わった部分も問われて、それほど勉強しなかったわりには意外とできた気がする。
……これはもしかすると一発合格もあるんじゃないのか?
そんなことを考えながら、先に校舎の先に出てきて水無瀬を待っていると、
「おっ、一真は充実した表情をしてるね?」
「もし俺が水無瀬より先に合格したらごめんな。先に謝っとくよ」
「なははっ。笑わせてくれるね。でもそれはどうかな?」
「水無瀬も自信はあるのか?」
「今度こそは合格間違いないよ」
「なるほど、七回も試験を受けるやつの言葉には実感がこもってるな」
「あーっ、そのことは言わないでよっ!」
目を白黒させる水無瀬。やっぱり試験に落ち続けていることはだいぶ気にしているらしい。
だが――いつも俺のことをからかってばかりの水無瀬が慌てふためいているのを見て、俺の中で嗜虐心のスイッチが入った。
「さすがに八回目はないよな? でももし一緒に受けることになったらまた途中でメロンパン買おうな?」
「メロンパンは食べたいけど、八回目はないから」
「どうだかな。二度ある事は三度あるって言うぐらいだから七回が八回になっても全然おかしくないと思うぞ?」
「ないって言ってるでしょ……」
「安心しろって、俺もさっきはああは言ったけど、さすがに一回で合格するとは思ってないから。次も一緒だって」
「わたしは今度こそ合格するから……」
「試験が終わったあとは、毎回そう思ってたんだろ?」
いつもの仕返しとばかりにニタっと口の端を上げて言ってやった。
「…………」
攻守が逆転したことに面食らったのか水無瀬は唇をギュッと噛みしめて静かに俺のことを睨んでいる。
いまがチャンスだ。次はなんと言ってやろうと唇をなめていると、
「……ぐずっ」
水無瀬は顔を空に向けてすうはあと深呼吸を繰り返している。両手の拳はきつく握りしめられている。
「水無瀬……?」
俺の呼びかけに応じて、ゆっくりと下ろされた水無瀬の顔を見て俺ははっと息をのんだ。
まん丸い瞳には涙がいまにもあふれそうになっていて。潤んだ瞳の表面で、朱色の混じり始めた陽が鈍く反射した。
「その……ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」
「……だったらどうしてそんなひどいことを言うの?」
「それはいつも水無瀬にからかわれてるから仕返しを……やっぱり言い訳はしない。俺が無神経だった。ほんとにごめん」
できるだけ丁寧に腰を折って俺は心から謝る。
完全にしくった。軽く責めてやろうと思っていただけなのに、女の子を泣かせてしまうなんて最低だ。来栖や松本にバレたらなんて言われるか知れたもんじゃない。
いや、いまはそんなことを気にしている場合じゃない。
「俺が悪かった。水無瀬が一生懸命、気象の勉強をしているのは知ってたのに、試験になかなか通らないからってバカにするようなことを言ったのは間違いだった」
頭を下げ続けていると、周りを通りがかった人たちが「なにあれ?」「痴話げんかでもしてるんじゃないの?」とひそひそ話が聞こえてきた。
恥ずかしさがこみ上げてくるが、自分で招いたことだ。甘んじて受け入れるしかない。ひそひそ話の一方で、水無瀬の反応はなにも返ってこない。
涙を懸命にこらえているのだろうか。
なんでもいいから言葉を返してほしいと思いながら頭を下げたまま待っていると、
「ぷっ……ぷぷぷぷ……」
下げた頭の上から、押し殺した笑い声が聞こえてきた。
さっきの通行人だろうか。でもこんな間近に来て笑わなくてもいいのに。そもそもこれは俺と水無瀬の問題なんだから放っておいてほしい。
さすがに文句を言ってやろうと、おずおずと顔を上げると――
「ぷっ、あっははっははっはは!」
――水無瀬が腹を抱えていた。
「水無瀬……どうしたんだ?」
「だって……だって、一真があんまり真剣に謝ってくるからっ! ちょっとうそ泣きしただけなのに、すぐに一真は騙されちゃうんだね?」
「うそ泣き、だと……?」
「えっ、わたしがほんとに泣いてると思ったの?」
「いまにも涙がこぼれそうだったから」
「泣くわけなんてないよ。自分でもさすがに七回は受けすぎだなとは思うけど、事実だからしょうがないし。今度で合格できたかどうかも結果発表を待たないとわからないし」
「なんだよ、それ?」
騙されたことに怒るというよりも、俺はあっけに取られていた。こんなに簡単に騙されるなんて思ってなかった。デート商法とやらで壺を買わされる人がいるって聞いて、バカだと思ってたけど俺も気をつけよう。
「わたしはね」
悪徳商法への警戒を強めていると、水無瀬がさっきとは違った笑みを浮かべる。少し大人びた、どこか決意にあふれた顔をしている。
「あの日、わたしは決めたの――もう絶対に泣かないって。少なくともじいちゃんの前で胸を張れるようになるまで絶対に泣かないの」
水無瀬は島のじいさんのことを「おじいちゃん」と呼んでいた。
だからいま言った「じいちゃん」はきっと大隅半島に住んでいたという父方の祖父のこと。詳しくは聞いてないけど、島のじいさんの話からすると、その「じいちゃん」はきっと『七・六豪雨』で犠牲になったんだと思う。「じいちゃん」の墓の前で胸を張れるようになるってことは、たぶん気象予報で人の命を救えるようになることに違いない。
そのために水無瀬は七回も気象予報士試験を受けている。試験があるのは年二回だから足かけ四年になる。ほんとに大したもんだと思う。
水無瀬が勉強を続けていた間、俺がなにをしていたかなんて考えたくもない。というよりも言い訳ばかりしてなにもしていなかった。
「悪かったな」
「へ? だからあれはうそ泣きだって言ったでしょ?」
「それでも悪かった。軽い気持ちでからかっていいことじゃなかった」
「うーん、まっいっか。ところでお腹空いてる?」
「そこそこってところだな。どうした? メロンパンでもくれるのか?」
「まさか! メロンパンは一真に一個あげたでしょ?」
「そうだけど、いまの話の流れだと仲直りの証しにメロンパンをあげるって流れだったんじゃないのか?」
違うよ、と水無瀬はくししと笑って一歩踏み出す。身体の後ろで手を組んで、ちらとこちらに視線を送ってくる。
「帰り道の話だよ」
「帰りって、途中のサービスエリアのことか?」
「その通り! 今度は熊本のサービスエリアでエビ天丼を食べるからね。おっきなエビ天が三本ものってるんだよ」
ピースサインをつくるように三本指を立てる水無瀬。
「しっかりお腹空かしといてよ」
「それは……うまそうだな。しかし水無瀬はサービスエリアに詳しいんだな?」
「七回もこうして福岡まで試験を受けに来てるからね。そりゃ詳しくもなるよ」
笑えない冗談を言う水無瀬に俺はどう返せばいいのかわからず言葉に詰まる。
「ほら、早くしないと高速バスに乗り遅れちゃうよ。一本遅れると、晩御飯時になるからレストランが混んじゃうからね」
手招きしてくる水無瀬に俺は微苦笑を返すと並んで歩き出すのだった。
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