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第3章 海も山も全部ある(8)

 厳密に言えば、雨の音なんていうのはない。ぽたぽたとかばたばたとか音を立てるのは、雨が当たった地面だったり屋根だったりする。だからそれは雨の音ではなくて、雨がなにかを打ちつける音だ。

 来栖が言っていた通り、南の島の夕立は激しかった。

 ばたばたなんてもんじゃなかった。

 だだだだだっだだだだだだっだだだだだだっだだだだだだっだだだだだだ――

 がぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼっ――

 断続的に雨が屋根を打ちつけていたかと思えば、雨どいを大量の水が流れる音が響く。

 恐怖すら覚えるその雨は、けれど長くは続かなかった。夕立ってのは地表の熱によって空気が温められることで発達した積乱雲が一時的に降らせるものだと、部屋に俺のことを迎えに来た来栖に教えられた。

「お前らに五分やる。その間にこの天気図を解析してみろ」

 来栖につれられてきた民宿の食堂で、そう言うのはおっさん。食堂には水無瀬と松本も集められている。新田先生も端のテーブルに座ってにこにこしている。

 どうやら新田先生が気象のことを教えてやってほしいとおっさんに頼んでいたらしい。おっさんは姉には逆らえないと言っていたけど、ほんとに嫌そうな顔をしながら天気図の印刷されたプリントを配り始める。

「これは……」

 プリントを最初に受け取った来栖がにわかに顔をしかめた。

「どうかしたのか?」

「これはまずい」

 訊ねる俺の目の前で、来栖は天気図をたしかめて、さらに表情を険しくしている。

「まずいってなんのことだ? 俺が準備したのは典型的な線状降水帯が発生する条件の天気図だぞ。ガキでもわかりやすいようにって配慮してやったんだから、さっさと配ってくれよ」

「いや、これはダメだ」

 眉をひそめるおっさんに対して、来栖は首を横に振る。

「違うのにしてくれ」

「なんで?」

「これは六年前の天気図だな?」

「知ってんのか。さすがだな。来栖って言ったか、予報士の資格も持ってるっていうのはお前のことだな。でもほかの連中は天気図をぱっと見ただけじゃわからないだろう」

「そんなことはない。少なくとも希にはわかる」

「えっ、わたしの話?」

 水無瀬は少し離れた席で松本と香水がどうのこうのと話していたが、自分の名前が出たことに気づいたらしい。

「希は聞かなくていい。とにかくこの天気図はダメだ」

「なんだよ、それ?」

 頑として主張を譲らない来栖におっさんは不機嫌さを隠さない。来栖がなにを言っているのかわからない俺にも、おっさんの気持ちはわかる。世間は連休中だというのに遠く離れた島に派遣されて。しかもたまたま同宿した高校生に勉強を教えてやろうというのに、準備した教材が理由なく拒否されたら、腹立たしいだろう。

「たっくん、どうかしたのお?」

 不穏な気配に気づいた新田先生が来栖とおっさんの間に割って入ってきた。

「なんかわからないけど、俺が準備した天気図はダメだってこいつが言うんだよ」

「来栖さん、どうしたのかなあ?」

「えっと、だな」

 来栖はちらと水無瀬のほうに視線を送ってから、新田先生の耳元に手を当てる。

「うん、……うん、なるほどねえ。わかったよお」

 なにやらささやいた来栖が耳元から手を離すと、新田先生はおっさんのほうに向き直る。

「たっくん、これはダメだねえ」

「いや、だからなんでなんだよ? せめて理由だけでも教えてくれよ」

「女の子には秘密があるんだよお。ね?」

 来栖と目を合わせて頷く新田先生。おっさんは眉間に皺を寄せてその様子を眺めていたが、諦めたのか頭をがしがしかく。

「ったく、姉貴はもうちょっとなんとかしろよ」

「なんとかってなにを?」

「そのすぐに俺に甘える癖だよ。俺に頼ってばっかりじゃ、一生彼氏なんてできないぞ」

「そうかなあ?」

「そうに決まってるだろ。弟に頼りっきりの女なんてモテないから」

「そっかあ。でも私はたっくんさえいてくれたら、それでいいかなあ」

「俺がそれじゃ良くないんだよ……」

「そんなに照れなくていいんだよお?」

「照れてるわけじゃない」

 はあと大きくため息をつくおっさん。しょうがねえな、とつぶやくと、

「じゃあこっちでどうだ?」

 来栖からプリントを回収すると違う天気図が書かれた紙の束を手渡す。

「……三年前に九州北部で死者が出た台風か。これなら問題ない」

「どういう基準なんだよ、って訊いても答えないんだよな?」

「なんだっていいだろう。とにかくこれなら問題はない」

「だったらもうこれでいい。さっきも言ったように五分だぞ。気象予報の現場じゃ時間が大事なんだ。さっさと解析を始めろ」

 来栖は無言で頷くとプリントを俺と水無瀬、松本に配る。

「麻帆、なにを話してたの?」

「なんでもない。五分しかないそうだからさっさと始めるぞ」

 うんと首を縦に振った水無瀬はプリントを受け取る。

「これはなかなか解析しがいがありそうだね。一真は試験を受けるから当然として、琴音ちゃんもせっかくだからやってみてね」

「俺はほんとの基礎の部分しか習ってないから、いきなり天気図を解析しろと言われても困るんだけどな」

「アタシは気象予報を勉強するために入部したわけじゃないんだけど」

 文句を言いながら俺と松本もプリントに向き合う。合宿前の部活で簡単な天気図の解析の仕方は来栖から半ば強制的に教えられていた。が、当然のことながら天気図を見たってそれがなにを表しているのかなんてさっぱりだ。

「うなってばかりいないで手を動かせよ」

 渡されたままの天気図を睨んでいると、おっさんに頭を小突かれた。

「いってえな。天気図の見方なんてほとんど知らないからしょうがないだろ」

「台風がどれかぐらいはわかるだろ?」

「台風は日本の南にぐるぐる描かれている円だよな? で、九州北部には前線があるから、台風がまだ離れてても大雨を降らせるパターン……なんだろうなってのはなんとなくわかる」

「えっ……」

 付け焼刃もいいところの知識でおっさんに答えていると、松本が目を丸くしていた。

「なにを驚いてるんだよ?」

「だってセンパイの気象の知識ってアタシと同じぐらいだと思ってたのに。アタシには全っ然わからないのに。それなのにセンパイにわかるってのが軽くショックなんだけど?」

「うっせえな。センスが違うんだよ、センスが」

 口早に失礼なことをまくし立てる松本に反論していると、再びおっさんにパシッと頭をはたかれた。

「なにがセンスだ。お前にはまだ表面だけしか見えてないのに偉そうなことを言うな」

「わかってるよ。でも高層天気図の見方なんて習ってないんだよ」

「ほう、天気図が一種類だけじゃないことぐらいは知ってるみたいだな。気象ってのは立体的に考えることが大事なんだ。だからむしろ高層天気図のほうが重要だと覚えとけ」

「たっくん、先生みたいだねえ。私よりも向いてるんじゃないのかなあ?」

 茶々を入れる新田先生におっさんは心底嫌そうな顔を向ける。

「やめてくれ。俺はガキの相手をするのなんて嫌いなんだよ」

 苦々しく顔をゆがめるおっさんだったが、指導は次第に熱を帯びていった。

 来栖と水無瀬は二人で話し合いながら解析をしていたから、おっさんの指導は主に俺と松本に向かった。悪態をつかれたり、たまに頭をはたかれたりもしたが、説明はわかりやすくて気象を立体的に見るってことの意味が少しはわかった気がする。

 天気図の解析は五分って言われていたのに、あっという間に一時間以上が過ぎていて、窓から射す陽は濃いオレンジ色になっていた。


□  ■  □


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