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第3章 海も山も全部ある(5)

 甘かった。

 俺は完全に外海を甘く見ていた。

 船は右に左に、上に下に、とにかくいろんな方向に揺れに揺れた。俺の三半規管は完全にいかれてしまった。いつの間にやら太陽は上っていたけど、東から上ったのか西から上ったのかも定かではない。這いつくばりながらトイレと客室を何度も往復して、胃の中にはなにも入っていない。

「希ちゃん、センパイが死んでるんだけど」

 うっすらと目を開くと松本が俺のことを見下ろしていた。香水を着けたらしく甘い匂いが鼻に届く。普段ならたぶんいい匂いなんだろうけど、いまだけは嗅ぎたくない。

「一真、死んじゃダメだよ! 生きてればいつかきっといいことがあるから」

 松本と逆のほうから水無瀬も俺の顔を覗きこんでいる。こいつも香水を着けている。松本のとは違う柑橘系っぽい香りで少しだけマシだけど、やっぱりいまは離れていてほしい。

「しっかりして! もう諏訪之瀬島は見えてるから。生きてもう一度、大地を踏みしめようよ!」

 大声もやめてほしい。頭がガンガンする。

「……生きてるから。俺は死なないから。だからちょっとそっとしておいてくれ」

「ほんとに?」

「ほんとだ」

「約束してくれる?」

「神に誓ってもいい。俺は絶対に死なない」

 途切れ途切れに声を返すと、ぷぷっと吹き出す音が左右から聞こえた。

「聞いた、希ちゃん? 神に誓うんだって」

「聞いた聞いた。映画とかはではよく聞くセリフだけど、現実に言う人がいるなんて思わなかったよ」

 船酔いで苦しむ俺を二人してあざ笑っている。船から下りて船酔いが収まったら目にもの見せてやる。……仕返しが怖いからなにもしないけど。

 睨む気力もないまま水無瀬と松本を薄目越しに眺めていると、

 ボォォォォォーー

 腹に響く汽笛が鳴って、二人は窓際へと駆け寄る。陸に着いたのは俺も嬉しいけど、どたばたされるとまた気分が悪くなるからやめてほしい。

「あっ、着いたんじゃない?」

「だね。やっと合宿が始まるよ」

「センパイ、起きられる?」

「……たぶん」

 松本に返す俺の声は自分でもわかるほどかすれていて、松本は深く嘆息する。

「ダメっぽいけど、希ちゃん、どうする?」

「しょうがないな。ここは部長として一肌脱ぐしかなさそうだね。一真、ほら?」

 俺の足元までやってきた水無瀬がこちらに向かって両手を伸ばしていた。

 俺は伸ばされた手を素直に取って身体を起こす。普段ならきっと女の子の手を握るなんて恥ずかしくてできないけど、そんなことを言ってる場合じゃない。いまは一刻も早くこの船から下りて大地を踏みしめたい。

「……悪い」

「早く寝ないからこんなことになるんだよ。でも初めてだもんね。仕方ないよ。荷物は手分けして運ぶから先に下りてて」

 ちらと横目で見ると来栖と新田先生が俺の荷物をまとめてくれていた。俺は二人に軽く頭を下げると、壁に手をつきながら出口を目指す。船室を出ると南の島らしいまばゆい光が視界いっぱいに広がって、目を細めながらなんとかタラップを下った。

 フェリーが島に寄るのは週に二回だけらしい。食料を積んでいるのであろうコンテナを載せたフォークリフトや、家族の出迎えでにわかに人があふれる港の端のほうへと俺はのろのろ向かう。なんとかたどり着いた堤防に背中を付けるとようやく人心地ついた。

「もう絶対に船になんか乗らない」

「帰りはどうするんだよ?」

「へ?」

 呪詛のようなひとり言に声が返ってきて、まぬけ顔を向けた俺の先にいたのは気象台で俺たちを案内してくれたおっさんこと新田巧だった。

「おっさん、なにしてんだよ?」

「観測機器のメンテだよ。ったく、くそ上司め、ゴールデンウイークに仕事をさせんなってんだよ」

「大変なんだな」

「お前のほうこそひどい顔してんな。これでも飲んどけ」

 ほいとおっさんはペットボトルの水を差しだしてくる。

「ありがたいけど、いまはまだなにも口にしたくない」

「それでも飲め。船の中で全部吐き出したんだろ? このままだと脱水症状を起こすぞ」

「……わかった」

 しつこさに負けて俺はペットボトルを開けて水を流し込む。身体の奥がすっと冷たくなって、少しだけ気分がマシになった。

「観測機器のメンテって、アメダスってやつか?」

「ほう、少しは勉強したらしいな。たしかにメインはアメダスだ。けどこの島には火山があるからな地震計と傾斜計の点検もある」

 アメダスってのは気象の観測機器のことだと水無瀬から無理やり教えられていた。アメって付くけど雨量だけじゃなくて風速なんかも測るものらしい。地震計は文字通り地震を計測するんだろうけど、傾斜計は初耳だ。でもそれがなんなのかを訊ねる気力はまだない。

「たっくん、小野寺くんの面倒見ててくれたんだねえ」

「姉貴っ! たっくんって呼ぶなって言ってるだろ」

「でもたっくんはたっくんだからほかに呼びようがないんだよねえ」

 俺のバッグを手にした新田先生が小首を傾げていた。

「そのバッグはこのガキのだろ。持ってやるから貸せ」

 悪態をつきながらも新田先生から俺のバッグを受け取るおっさん。やっぱり口は悪いけど、悪い人じゃないらしい。

「やっぱりたっくんは優しいねえ」

「だからやめろって言ってんのに」

「まあまあそんなに照れないでよ」

「……ったく、さっさと行くぞ。迎えの車が着いたみたいだし」

 おっさんは肩を怒らせながら港の端に停まった白いワゴン車のほうへと向かう。

「迎えって?」

「たっくんも私たちと同じ民宿に泊まるんだって。それでね、この島にはタクシーどころかバスもないから民宿の人が迎えに来てくれてるみたいなの」

 両手を口元に当てておっさんのことを微笑ましく眺める新田先生。おっさんも苦労してそうだな。

「じゃあ私たちも行こうっか?」

 双子というけれど、弟と比べると明らかに若く見える新田先生。重ねてきた苦労の違いなのかもしれない。俺は微苦笑を返すと車のほうへと歩き始めた。


□  ■  □


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