第3章 海も山も全部ある(4)
海の上を走ってきた風は湿気をたっぷり含んで、磯の香りが鼻孔に広がる。気温はあまり高くないけれど、空気が肌にまとわりつく。
フェリーに乗り込んで、水無瀬たちは早々に眠りに就いた。わざわざ出発直前にコンビニに寄ってトランプを買うぐらいだから夜通し遊ぶつもりなんだろうと思っていたから、俺は拍子抜けしてしまった。眠ろうにも眠れずに、夜風にでもあたろうと甲板に出てきていた。
俺たちを乗せた船は薩摩半島と大隅半島の真ん中ぐらいをゆっくりと南へ進む。右手を見やると市街地の上空では、雲が明るく輝いている。
「予報通り明日の鹿児島市は雨になりそうだな」
「うおっ、いきなり現れるなよ。びっくりするだろ」
慌てて振り返ると来栖が夜風に白衣の裾をはためかせていた。
「なにしてんだよ?」
「一真を監視しておくように希に言われたからな」
「監視って……なんのだ?」
「自分たちの船室は男女同室で雑魚寝をする二等客室。となれば一真がなにをするかは自明の理だ」
「変なことなんてしないからな!」
「ほう、変なことをしかねないという自覚はあったのか」
「ぐっ……」
思いっきり墓穴を掘ってしまった。けど二等客室にいるのは俺たちだけじゃなくてほかの乗客もいるからなにもしようがないんだけど。っていうか、なにかするつもりなんてまったくないからな!
「なにを一人で赤くなっているんだ?」
「なんでもない。そういや、明日は雨になりそうだって言ってたけど、どういうことなんだ?」
話を逸らそうと無理やりかなと思いながら訊ねると、来栖は素直に話に乗ってくれた。
「雲が明るく見えるだろう。あれは雲が低いから街の明かりを反射させているんだ。高ければああは見えない」
「なるほど……?」
「雲が低いということは雨量としてはそれほどではないだろう。含んでいる水蒸気の量は大したことはないからな」
わかったようなわからないような話にあいまいに頷く俺に構わず来栖は続ける。
「しかし雨が降る以上、多少は覚悟が必要になるかもしれないな」
「覚悟って?」
「船酔いだ」
「船酔い? こんなに静かに進んでるのにか?」
出航して三〇分ほど、フェリーの揺れはほとんど感じない。一〇時間の船旅と聞いて身構えていたけど、これならなんの問題もない。
が、来栖はふるふると首を振る。
「揺れてないのは、ここがまだ錦江湾内だからだ。外海に出ると激しいぞ」
「そうなのか?」
「まだこの季節だからそれほどではないだろうが、前に希と一緒に冬に島へ行ったときは大変だった。自分は船酔いしないほうだから耐えられたが、希はずっと寝ていたぞ」
「じゃあ今日、水無瀬がさっさと寝たのも船酔い対策なのか?」
「そうだ。琴音もモカちゃんも乗り物酔いに弱いらしい。一真は平気なのか?」
「バスとか電車とかで酔ったことはないけど、こんなに長時間船に乗るのは初めてだからわからん」
「だったら無理はしないほうがいい。外海をなめると大変な目に遭うぞ」
「最初はそうかもしれないけど、すぐに慣れるんじゃないのか」
「一真がそう言うのなら止めはしないが、どうなっても知らんぞ」
ふふと口元で小さく笑む来栖。手で髪をそっと撫でつけて海のほうをじっと眺めている。夜の海はなにもかもをのみ込んでしまいそうなほど暗くて、黙っているのが怖くなる。
「来栖は合宿楽しみなのか?」
さあっと吹く海風の合間に訊ねると、来栖はこちらに顔を向けて目を瞬かせる。
「楽しみかどうか、か。……まあ楽しみだな」
「なにが楽しみなんだ?」
「島に行くのは二回目だからな。自分の知らないことを見たり聞いたりできるのは自分にとって幸せなことだ」
「来栖らしいな。けど水無瀬ももちろん楽しみなんだろうな。なんでもかんでも楽しいって言ってそうなやつだし」
俺が知っている水無瀬はどこまでも前向きだから自然とそんな言葉が出てきた。
けれど来栖はそんな俺に静かに首を振る。
「そうでもないぞ」
「へえ、水無瀬が楽しめないなんてことがあるのか」
「少なくとも気象予報は希にとって楽しいものではなかった。いや、もしかするといまも楽しんではいないかもしれない」
目を細める来栖に俺は混乱する。
「俺は水無瀬のことをそれほど知らないけど、さすがにそれはないだろ。部活だってつくるぐらいだし。部活がなくなったら困るって、俺や松本のことをむりやり入部させもしたんだぞ」
「楽しくはなくても必要だからすることはあるだろう」
「……学校のテスト勉強みたいなことか?」
「それは自分にとっては楽しいことだが、まあ普通の人にとっては楽しくないことだろうな」
淡々と言葉を紡ぐ来栖に俺の混乱は深まる。
「まあ、最近は希も楽しそうにしてるから安心しているんだがな」
「安心って……?」
「気にするな。そのうちわかるかもしれないし、わからないかもしれない」
「わかんねえよ」
「苗字っていうのはその土地に暮らす人たちの願いが込められているという説がある」
突拍子もない言葉に首を傾げる俺に構わず来栖は淡々と続ける。
「希の水無瀬という姓は大隅半島の片田舎のものらしい。急傾斜の山に囲まれた田んぼが広がる、そんな所だ」
「はあ?」
「水無瀬という字は水の無い瀬と書く。瀬とは水の流れている場所のことだ」
「つまりどういうことなんだ?」
「……そろそろ来るぞ」
真意を訊ねる俺から目を逸らし、来栖は船の進行方向をじっと見すえる。
「だからさっきからなんの話をしてるんだよ? さっぱり……」
質問を重ねようと口を開いたときだった。
「うおっ!」
船体が大きく傾いて俺は慌てて手近な柵を力いっぱい握った。
「外海に出たぞ。これからはずっとこんな調子だぞ」
来栖は器用に柵をつかんで船内へと戻っている。
「なにをしている? これ以上は甲板に出ていると危ないぞ」
「たしかに……。船酔いはしないと思うけど、投げ出されそうでちょっと怖いな」
「さっさと中に入るぞ」
海風に白衣をはためかせる来栖に続いて俺も船内へと戻っていった。
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