05 穏ヤカナ時カン
十分ほどの距離とはいえ、真夏の午後四時に出歩くのは、相当な暑さを我慢しなければならない。
その点、篠辺芳乃は抜かりなく、日傘を用意していた。
服装も、Tシャツにショートパンツ、その上にロング丈のブラウスを羽織り、キャップ、色が薄めのサングラスを装着し、真夏の暑さに対抗している。
事前に少し歩くと伝えてあったからか、ショートソックスとスニーカー、落ち着いた雰囲気のポシェットで、なかなか活動的な装いだ。
それに加え、メイクやネイルを施し、髪型も変えているので、あの学生と同一人物だとはとても思えない。ボーイッシュながら大人の雰囲気を醸し出し、見事に化けていた。
……いや、女性に化けたという言葉は、失礼だろう。ここは、見事に魅力を引き出していると言ったほうがいい。
季節柄、服装も似るのだろう。こちらもTシャツにハーフパンツ、その上に丈の短いシャツを羽織り、キャップを被ってボディバッグを装着している。
歩き回ることを前提にしているが、少しでも若く見えれば……という意識もあった。とはいえ、ファッションに無頓着なので、成功しているかどうかは、いまいち分からない。
健康維持のためハイキングに出かけるオジサン、なんて風に思われなければいいけど……と思っていたのだが、芳乃には好評だった。もちろん、お世辞じゃなければ……だが。
程よく風が通り抜け、道中は日陰を多かったので、目的地──カフェモルア新町本店に到着しても、少し汗ばむ程度で済んだ。
とはいえ、店内の乾いた涼しい空気は、格別に心地いい。
思った通り、学生の姿はなさそうだ。
周囲の視線が気になるが、それは僕にではなく芳乃さんに注がれたものだろう。なので、こちらに向けられる視線は、そのついでに相手の男もチェックしようって程度の、おこぼれだと思われる。
さすがに、自分が視線を集められるほど、容姿に恵まれているとは思っていない。
調べた通り、店の内装は、他の店舗と同じように、若者受けしそうな明るい雰囲気に変わっていた。だが客層が、中道店とは随分違う。
お客もそこそこ入っているようで、行列や待ち時間こそないものの、座席の八割ほどが埋まっていた。
案内された席に座り、メニューを広げる。
「教えて頂いた通り、落ち着いた雰囲気ですね。向こうとは大違いです」
「改装前は木造建築って感じで、照明も控えめな喫茶店だったから、もっと雰囲気があったんですよ」
「そうなんですか? それも素敵そうですね」
「向こうの壁に前の写真が飾ってあったから、後で見てみるといいですよ。……はい、メニューをどうぞ」
納涼スイーツフェアを目当てに来たのだから、そのメニューを中心に眺める。
単品の商品もあるが、目玉はひと口サイズのケーキ盛り合わせだろうか。
定番のチョコやクリーム、イチゴやミカンなどもあるが、青いゼリーのようなものや、トロピカルフルーツなどで、夏や清涼感を感じさせるものも多い。
全部で十六種あり、六個、八個、十二個、十六個の中から、数が選べるようになっている。
何が出てくるかは店員にお任せらしいが、全部を堪能したければ十六個を選べばいい……ということなのだろう。
折角だからと、十六個と六個の盛り合わせに、ドリンクバーを注文する。
もちろん、芳乃さんが好きなものを食べ、残ったものを頂くつもりだ。
「飲み物とってきますね。波竹さんは何がいいですか?」
「あっ、自分で行きますよ」
「いいえ、おごってもらうのですから、これぐらいさせてください」
そういえば、以前も同じようなやりとりをして、「こういう時は、ついでに小用を済ませたいって時もあるから、大人しく待ってなさい」と、ミヤに怒られたことを思い出す。
メイクを直したり、汗や臭いの対策をしたり……など、女性にはいろいろあるらしい。
「じゃあ、オレンジジュースを。なければ、メロンソーダかコーラでお願いします」
「はい。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
ポシェットを手に持ち、芳乃が席を立つ。
そういえば学生の頃、ミヤに「オレンジジュースかメロンソーダ」と注文したら、二つを混ぜて持ってきたことがあった。
どっちも飲みたいのかと思って……と言っていたが、飲んでいた僕の顔が余程奇妙だったのか、楽しそうに笑っていた。
それが切っ掛けだったのだろう、自作の混合飲料にハマり、僕の反応を楽しむようになったのは……
「参ったな……」
こんな時に、ミヤのことばかり思い出すのは失礼だと思い直し、改めて芳乃のことに思いを巡らせる。
彼女のことは、元上司が自慢していた以上のことは知らない。
その内容も、親バカ補正が多分に入っているだろうから、アテにはならない。
それらを排除して考えると、大人しくて聡明そうな雰囲気だが、意外にも行動的で思い切りのいいタイプのように思える。それに……
店員がケーキを運んできたので、思考を中断する。
それにしても見事なものだ。
四角にカットされたものや、丸いカップに入ったものなどが、チョコやナッツ、様々な果実などで装飾され、見た目にも華やかで、見ているだけで楽しくなる。
携帯電話を取り出して撮影し、当たり前のようにミヤに送る。よければ今度一緒に行こうという言葉を添えて。
「わぁ……すごいですね。かわいい。……あっ、お待たせしました。オレンジジュースです」
「ありがとう。ケーキの写真を撮るなら待ちますよ」
少し戸惑いながらも、彼女は手早く画像に収めて席に座る。
「気に入ったものを好きなだけ食べてください。他にも気になるものがあったら、追加してもらってもいいですよ」
「うれしいですけど、そんなに食べられないですよ」
少し表情が硬いように思え、少し気になっていたが、どうやら大丈夫そうだ。
彼女は、クスクスと笑うと、乳製品っぽいもので喉を潤す。
六個だけ乗った小さなお皿を引き寄せ、手始めにチョコケーキを口に放り込む。
見た目だけでなく、味にもこだわりがあるようで……
美味しいのはもちろんだが、中はスポンジケーキになっていて見た目ほど重くなく、これならいくらでも食べられそうだ。
紙っぽい不思議な素材のストローで、オレンジジュースを飲む。
「…………!?」
「波竹さん、どうかしましたか?」
なんだか、すごく心配されてしまった。
いや……、イタズラを仕掛けたものの、怒られないかと心配しているのだろうか……
「いや……、うん、すごく美味しいよ」
オレンジジュースにしては、やや色が濃い気がしていたが、思った通り、数種類の飲み物を混ぜた、オリジナルブレンドだった。
ベースは桃ジュースだろうか。そこにキャラメル系のものと乳製品。ほんの少し炭酸が入っているような気もする。
こういうイタズラは、ミヤもよくやっていたが、まさかこの芳乃さんが仕掛けてくるとは思わなかった。
「ちょっと不思議な味だけど、とてもいいと思うよ」
そう言って、もうひと口飲む。
それを聞き、芳乃さんは少しホッとした様子で、次のケーキを食べ始める。
カメラのシャッター音に気付き、視線を巡らせる。
といっても、携帯電話アプリの効果音だろう。
撮影している様子は見えなかったが、こんなケーキが出てくれば撮影したくなる気持ちも分かる。
すでに数多く、SNSとかで拡散されているに違いない。
二人の共通の話題と言えば、事故以外だと彼女の父親ぐらいしかない。
ある程度、世間話が終わると、彼女は会社での父の様子を聞いてきた。
とはいえ、まさか、あなたの父親は、会社では部下に責任を押し付けて怒鳴り散らす厄介者で、皆からの嫌われ者でした……なんて事は、口が裂けても言えない。
「そうですね……。僕は新米でしたので、それほど付き合いは長くないですが、指導に熱心で、部下に仕事を任せることができる上司……って感じでしたね」
多少、言葉の方向性を変えたが、嘘は言っていないはずだ。
「何より、あなたの事を溺愛されていて、自慢の可愛い娘だと常々おっしゃられてましたね。家庭では、素敵なお父さんなのかなって思ってましたよ」
やはりまだ、父の死が辛いのだろう。強く握った拳が震えているように見えた。
だが、気丈にも表情には出さず……
「ええ、私にとっては、かけがえのない素敵なお父さん……でした」
笑顔を浮かべてそう答えると、コップの中身を一気に飲み干した。
「あの……、おかわりを取ってきますけど、波竹さんは次、何にしますか?」
「あっ、じゃあ、コーラでお願いします」
「はい、分かりました」
ポシェットを肩に掛けて二つのコップを運ぶ芳乃さんの、後ろ姿を見送る。
彼女から振ってきた話題とはいえ、さすがにあの反応は見ているだけで辛い。
せめて、残りの時間は、楽しい記憶にしてあげたいと思いつつも、そんな話術が自分にあればいいのに……と嘆く。
彼女が用意してくれた飲み物は、確かに見た目はコーラっぽかった。
だが、口を付けようと顔を寄せたら、匂いですぐにわかった。
間違いない、これはコーヒーソーダだ。
ミヤの中では定番となっているイタズラで、コーヒーにガムシロップを入れ、透明のソーダで割っただけのシンプルなもの。
奇妙な味だが、慣れればそれほど悪くはない。もちろん、人を選ぶモノだとは思うが……
芳乃さんは、父親が僕のことを「将来有望な新人」と話していたことを教えてくれた。だが、何度思い返してもとてもそんな風には思えなかったので、他人と間違えている可能性が高いだろう。
それ以降は、できるだけ明るい話題に誘導していく。
その成果か、順調にケーキが減っていくが……、残り四つで手が止まった。
日が長いとはいえ、あまり帰りが遅くなると彼女の家族が心配するだろう。そう思い、残りを急いで平らげたのだが、たとえひと口サイズで美味とはいえ、貧乏生活に慣れた胃には負担が大きかったようだ。何だか少し胃が重い。
とはいえ、まだ寄りたい場所もあるし、早々に会計を済ませて店を出る。
「波竹さん、今日はごちそうさまでした」
「いえいえ、芳乃さん、今日は僕のワガママに付き合って下さって、ありがとうございます。これで少しでも恩返しになればいいんですけど……」
「助けたのは偶然ですし、これで十分ですよ。それより、体調のほうは大丈夫ですか?」
「え? ……別に、大丈夫ですよ」
苦しい様子は見せてなかったと思うが、食べ過ぎだと気付かれたのだろうか。
なんだか真剣な表情なのが気になるが、こんなものは少し歩けば解消される……と思う。
「その……美味しいからついつい食べ過ぎちゃいましたけど、波竹さんに、残ったのを全部食べてもらいましたから。私よりも、多かったでしょ?」
「あっ、それなら平気ですよ。あまり食べる機会がなかっただけで、元々ケーキは大好きですから」
「……そう、ですか。じゃあ、お腹も一杯になりましたし、ちょっとお散歩でもしましょうか」
「はい、いいですよ」
予想外の提案だったが……
帰り道をダラダラと歩くだけでは辛いだろうと思い、何か楽しそうなものを見つけなければと考えていたのだが、ここは彼女に任せることにする。
線路の北側には国道が並走しており、繁華街などでにぎわっているが、線路を越えた南側は、田畑が多くなり一気に寂しくなる。
とはいえ、駅に近付けばビルが増えるので、のどかな雰囲気が味わえるのは、ほんの少しの間だけだ。
「この先に静かな公園が……あったんですけど、なんだか今日は賑やかですね」
子供やその親なのだろう、軽く見て十人以上は居るようだ。
芳乃さんは困ったように、別の場所を目指した。
「そこの角を曲がったところに神社があって、なかなかいい雰囲気なんですよ」
角を曲がると、立ち並ぶノボリが見え、多くの話し声が聞こえてきた。
「風鈴祭りですか……。なかなか風流で、いいですね」
屋台は出ていないが、参拝客に少しでも涼を感じてもらうためだろう。神社の境内に大量の風鈴を飾られ、ミスト送風機が設置されていた。
小さな神社ながらも休憩所があり、かき氷や団子など、ちょっとした軽食が売られている。当然、別の窓口にはお札やお守りなどの定番アイテムもある。
景色もいいので、近隣住民の憩いの場になっているようだ。
「芳乃さん、少し立ち寄っていきましょうか」
「ちょっと面白そうですけど、今日はやめておきましょうか。腹ごなしの散歩なのに、食べたくなっちゃいますから」
「たしかに、そうですね」
苦笑しつつ神社を離れ、再び歩き出す。
こんなにまったりと時間を使うのは、いつぶりだろうか……と感慨に耽っていたのだが、芳乃さんの様子が気になる。
何だか視線をキョロキョロさせ、少し落ち着きがないようだ。
どうしたのかと不思議に思っているところに、ミヤからメッセージが送られてきた。
──トモ、今日はお疲れ様。
相手の人は喜んでくれたかな?
時間があったから、夕食のおかずを冷蔵庫に入れておいたよ。
食パンが無かったから、ご飯を多めに炊いたけど
やっぱり朝は、パンのほうがいいよね?
よかったら買ってくるから、その時は言ってね。
買い出しに行ったのに、食パンが切れていたことをすっかり忘れていた。
だけど、丁度よかった。どのみち、店には寄ろうと思っていたのだ。
お礼の言葉と共に、自分で買って帰ると返信する。
「芳乃さん、ちょっと、キュリエに寄っていきませんか?」
「……はい、いいですよ」
駅に近付くにつれて、ビルや集合住宅が増えていく。
六階建ての建物、キュリエヴァリスの姿はすでに見えており、運よく信号に引っ掛からず、一分足らずで涼しい建物内に入ることができた。
「少しお店を見て回りましょうか」
「はい」
「あー、でもその前に、ちょっと用事を済ませてきますね。このフロアーで先に見ててもらってもいいですか?」
「用事ですか? 一緒に行きますよ?」
「明日の朝食を買ってくるだけなので、すぐに戻ってきますよ」
「じゃあ、分かりました」
彼女に落ち着きがないのは、トイレを我慢しているからだと思ったのだが、これなら彼女も行きやすいだろう。
見当外れならそれでもいいが、何にせよ、ひと息つく時間も必要だ。
ついでに、他に買い忘れがないか、記憶を呼び起こしながら、食料品フロアーへと降りていく。
食パンのついでに特売品のイチゴジャムを買い、一階に戻る。
幸い、芳乃さんの姿はすぐに見つかった。
何かを真剣な表情で見つめていたので、驚かさないよう少し離れた場所から声を掛け、ゆっくりと近付く。
「お待たせしました。何か気に入ったものがありましたか?」
「あっ、その……、これです」
鍵付きの戸棚に飾られていたのは、果物ナイフだった。
かわいい動物シリーズと書かれており、サヤはもちろん、白い刀身にまで動物の姿や足跡などの意匠が施された、なんとも可愛いものだ。
そのネコ柄を見て、ミヤが好きそうだと思い、購入を決断する。
「よければプレゼントしますよ」
「そんな、悪いですよ」
「初めから何かプレゼントをするつもりだったんですけど、何を贈ればいいのか分からなくて困ってたんですよ。だから、何が欲しいのか言ってもらえると、すごく助かるんですけど」
なおも尻込みしていた彼女だが、最後は押し切られるようにウサギ柄を選んだ。
店員に話しかけて購入し、ネコ柄はソッとカバンに入れ、綺麗にラッピングされたウサギ柄の果物ナイフを芳乃さんに渡す。
「こんなにしてもらって、本当にいいんでしょうか……」
「そんなに高いものでもないし、僕の自己満足のためですから、どうか遠慮せず貰ってあげてください」
「じゃあ喜んで頂きますね。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
なんだかまた、シャッター音のようなものが聞こえた気がした。
散歩中にも何度か聞こえた気がするが、携帯電話で手軽に写真撮影ができる世の中になったせいで、シャッター音を聞く機会が増えただけなのだろう。
芳乃さんと一緒にいるのは、ちゃんとした理由があるのだから、たとえ写真に撮られたとしても堂々としていればいい……と、今さらながら思い直す。
「……? どうかしましたか?」
「いえ……、もうこんな時間ですね。……そろそろ帰りましょうか」
彼女が通う高校はこの近くだが、家は隣の駅だった。
まさか学校で着替えるわけもいかないだろうし、荷物は駅のロッカーにでも預けてあるのだろう。
彼女を駅まで送り届けると、寄り道せずに真っ直ぐ部屋へと戻った。
シャワーを浴び、夕食の準備を始める。
そういえば……と、ネコの果物ナイフを取り出し、ミヤへの感謝を綴ったメモと一緒に机の片隅に置いておく。
直接渡せば、すごく喜んでくれそうだけど、このほうが確実で早い。
「いただきます」
しっかりと手を合わせてから、食べ始め……
チラッと見えた、メタリックブルーの物体に気付いて愕然とする。
ここにきて、昨日のニュースのことを失念していたことに気付いたのだ……