01 祖母の遺品
すでに退勤の時間は過ぎていた。
いや、手続き上は退勤したことになっているのだが、タイムカードを押したのを見計らって雑用を言いつけるのが、ここの社員のやり口だった。
タブレットを手に、さして広くもない倉庫を、汗だくになりながら歩く。
三日前に数が合わず、それ以来、倉庫の監視を強化したと言っていたが、この店で一番怪しいのは、そう言っている店長本人なのだから、始末に負えない。
とはいえ、しがないアルバイトの身分では、とかやく口を挟めないし、挟んだ瞬間に首を切られるというオチまで見える。
「よう、タケ、チェックは済んだか?」
涼しい店内から、モデルでもやってそうな男が、ひょっこりと顔を覗かせる。
ここ『超幸まぁと』の希少な社員で、容姿と口先だけで採用されたような男なのだが、採用した店長の目論見通り、接客で売り上げに貢献しているらしい。
そして、この雑用を押し付けてきたのも、この男だった。
「在庫確認、終わりました。不明、欠損もありません」
「悪かったね。帰る準備をしてるところ、呼び止めてしまって。なんか最近、店長がやたらと口うるさくなってきたからね。こういう地道な事もちゃんとやって、ポイントを稼いでおかないとね」
そのポイントとやらは、実際に汗水垂らした僕ではなく、この男のものになるのだろう。
「タブレット、どうぞ」
「いや、ほんと助かったよ。……ああ、それと、前から言ってる通り、そんな堅苦しくしなくていいって。ボクのほうがひとつ年下なんだから」
前に、その言葉を鵜呑みにして接したら、取り巻きの女たちから「なれなれしい」だの「失礼」だの「バイトのクセに立場をわきまえろ」だのと、盛大に非難を浴びてしまった。
それ以来、この距離感を保っている。
「いえ、何事もケジメが必要ですから」
ちなみに、この蓮貝という男、下の名前を帝王と書いてキングと読むらしく、性格もなかなかに横暴だったりする。
一見すると人当たりが良さそうに思えるが、相手によって対応を変える裏表の激しい性格で、僕はどうやら召使ぐらいに思われているようだった。
それはさておき、これ以上この場に居たら、また余計な雑用を押し付けられかねないので、早々に退散しようと試みる。
「それではキング、お先に失礼します」
「ああ、お疲れ、また頼むよ」
張り付いた上辺だけの笑顔に見送られながら、僕……波竹智矢は、再び呼び止められることもなく、超幸まぁとの裏口から無事に脱出することができた。
雨の中、傘を差しながら急ぎ足で帰る。
ボロアパートの一階中央、一〇三という番号札が貼り付けられ、表札を含めて他には何の飾りもない殺風景な扉から中へと入る。
扉に鍵とチェーンをしっかりとかけ、雫が滴る傘の柄を靴箱に引っ掛ける。
郵便受けには、不用品買い取りのチラシが入っていたが、そのまま丸めてゴミ箱に放り込んだ。
新聞を取っておらず、テレビもない。
古いパソコンはあるが、ここ数日、電源も入れていない。
なので、情報を得る手段は小型携帯通信端末と化した携帯電話に頼りっきりになっている。
メールやメッセージを確認するが、昼に受け取った不採用通知以外に重要なものはない。
いつまでもフリーターってわけにもいかないので、再就職を目指しているのだが、なかなかに現実は厳しい。
部屋はジャングルのようだった。
もちろん見た目の話ではななく、高い室温と、異常に高い湿気の話だ。
雨で日差しが遮られていたようで、室温こそ三十五度には届いていないが、湿度が計測不能になっていた。そのせいか、不快感が半端ない。
急いでエアコンを稼働させ、着替えるついでにシャワーを浴びることにする。
ボロアパートだけあって、足音や話し声など、周囲の生活音がよく響く。
この激しめだがすぐに大人しくなる感じは、どこかでトイレを流した音だろう。
そんなことまで分かるので、ユニットバスで鼻歌なんてものを歌おうものなら、アパートの住人全員に聞かれることになる……と、冗談抜きで思っている。
なので、無言のまま身体や髪を洗い、温度調節の難しいシャワーを駆使して熱めの湯で汚れと汗を洗い流す。
「ふぅ~……」
部屋に戻り、ほんの少し冷えた空気を小さな扇風機で浴びながら、大きく息を吐く。
なんとか今日一日、乗り切った。
そう思いながら、まだ充電途中の携帯電話を手に取り、ニュースを確認する。
「……?」
シャワーを浴びている間に、メッセージが一件入っていた。
このタイミングだけに、相手はたいたい想像がつく。
ロックを解除して確認すると、やはり込根美夜からのものだった。
ミヤは、長い付き合いの恋人なのだが、ここ半月ほど姿を見ていない気がする。
高校時代から付き合い始めて、同じ大学を卒業したのだが、社会人となってからは、会う機会も減っていくばかりだ。
ましてやこっちは、会社が倒産してからはアルバイトで食いつないでいるような有様で、愛想を尽かされても仕方がないと思っている。
──トモ、お仕事お疲れ様。
今日は時間があったから、おかずを作って冷蔵庫に入れておいたよ。
よかったら、食べてね。
……なのに、こうして時々様子を見に来たり、世話を焼いてくれたりしている。
ミヤの真意を測りかねているところがあるが、正直なところ非常に助かっているし、ギリギリのところで心が折れずに踏ん張れているのも、彼女のおかげだと思っている。
それにしても、今日は妙に騒がしい気がする。
ここの住人は、互いに気を使って周りに遠慮をしながら生活をしている印象なのだが……どこかで、来客でもあったのだろうか。
程よく火照りが去ってきたこともあり、音の出所を調べることにする。
「押し入れのほうか……」
試しに、押し入れの横の壁に近付く。
……どうやら、違うようだ。だが、部屋の中央に戻ると、やはり押し入れのほうから聞こえているような気がする。
ならばと、押し入れを開けると、音がよく聞こえるようになった。
「まさか……、これか?」
もし、よく確かめもせず隣に怒鳴り込んでいたら、大変なことになるところだった。……まあ、そんなことは絶対にしないが。
押し入れの三割を占めているのは、先週、兄が車で実家から運んできた、僕の私物……と思われるものだった。
兄夫婦は両親と共に実家で暮らしているのだが、近々子供が生まれるらしく、滅多に帰らないのだから部屋を明け渡すよう、少し前から言っていた。
そう言われても、荷物の置き場に困るからと拒否していたのだが、とうとう実力行使されてしまった。
ヒドイ話だが、狭い場所を有効利用したい気持ちも分かるので、ある程度は仕方がないと理解している。
でもこれで、実家に戻っても安らげる場所がなくなってしまった。
ヒドイ話は、それだけではない。
ゲーム機や時計など、滅多に使わなくなったものの盗難が心配なものは、実家に預けてあったのだが、兄が運んできた荷物には、そういった金目の物は全く見当たらなかった。
その話題を振った時、なんだか様子が変だったので、なんとなく予感がして強く問い質してみたのだが……なんと、物品売買所でお金に変え、パチンコや酒代に使ったと白状したのだ。
呆れた話だが、まさか実の兄を相手に訴訟を起こすわけにもいかないので、分割払いで返金させる約束をして許すことにした。
そんなこともあり、運び込まれた荷物に全く興味が湧かず、整理する気も起きないまま放置していたのだが……
段ボールを引っ張り出し、ガムテープを破って開ける。
やはり、よく分からないガラクタばかりだった。
見覚えのあるものもチラホラあるが、明らかに他人の物も混ざってる。
ひらがなで兄の名前が書かれた物もあり、冗談抜きで邪魔な物をまとめて押し付けてきたって感じがする。
「ん? これか。こんな物、僕の部屋にあったかな……」
音を発していたのは、手のひらサイズの小型ラジオだった。
ボディーの色がメタリックブルーなので、なんとなく男性向けっぽいが……
スイッチを切ると音も止まった。
原因を突き止められたのは良かったが、考えるまでもなく変だ。
この部屋に運び込んだ時、何かの拍子でスイッチが入ったのだとしても、あれから十日近く経っている。
なのに、今まで気付けなかったのだとすればあまりにも間抜けだし、そんなに電池が持つとも思えない。
バイトに行っている間にスイッチが入ったのだとしたら、考えられるのはミヤぐらいだが、彼女ならば僕を困らせるようなことはしないはずだ。
ましてや、押し入れの荷物を漁ったりなど考えられないが、もし物色されていたとしても、別に構わないと思っている。
ミヤがやったのだとしたら、それ相応の理由があったのだろう。
そう思えるぐらい信頼していなければ、とても合鍵なんて渡せない。
それはさておき、スイッチの形状や硬さからして、多少箱を揺らした程度で偶然に入るようなものではなさそうだ。
とはいえ、一度箱を開封したのなら、綺麗にテープを張り直したとしても、見ればすぐに分かるはずだ。だが、そんな痕跡は残っていなかった。
あと、考えられるとしたら、スイッチを切り忘れたままになっていたが、電池の接触不良か何かで電源が入っていなかった……というパターンだろうか。
それが、何かの拍子で、今日になって電源が入ったとか……
こんな音が鳴っていたら、ミヤが気付かないはずがないので、彼女が部屋を出た後、僕が帰宅するまでの間に、何らかの奇跡が起こったのだろう。
何だか、この小さなラジオが、自身の存在をアピールしてきたようにも思えるが、これ以上考えても仕方が無いし、そもそも問題はそこではない。
実家から運ばれた荷物に紛れ込んでいたのだから、実家の誰かの私物だろうし、無くて困っていたら悪いので、電話で確認してみる。
…………。
結論から言えば、誰も困ってはいなかった。
どうやら、このラジオは、一昨年の十月に亡くなった、祖母の遺品らしい。
それにしては色に違和感があるのだが、それもそのはず。
元々は、父の弟……つまり、空也叔父さんのものだったらしく、それを祖母が大切に保管していたようだ。
それが、なぜか僕の部屋に紛れ込んでいた……ってことらしいが、恐らく取っておいた兄が、要らなくなって押し付けたのだろう。
でなければ、最近発売されたばかりの新しい電池なんてものが、中に入っているわけがない。
「まあ、いいか」
これも何かの運命だと思い、ありがたく使わせてもらう事にする。
ネックバンド型のイヤホンを手に取り、接続させようとするが……
「……やっぱりダメか。叔父さんが死んだのって十年以上も前だもんな」
見るからに安物だし、ワイヤレスに対応なんてしているはずがなかった。
探すまでもなく、この部屋に有線のイヤホンなんてものはないので、聞くにはスピーカーから音を垂れ流すしかない。
できるだけ音を絞って鳴らしつつ、ミヤが用意してくれたおかずを出して、遅めの夕食を頂くことにする。
ハワイアン……とでも言うのだろうか。なんとも陽気な曲が流れていたりするが、いつものように携帯電話でニュースをチェックしながら、きんぴらごぼうを、昨夜の残りご飯と一緒に頬張る。
ニュースは相変わらず不景気なものばかりだ。
事故だの値上げだの炎上だのと、ループしているかのように同じような記事が並んでいる。
ラジオのほうでも、ニュース番組が始まった。
何だか、やたらと明るい曲が流された後に、女性キャスターが世間話でもするかのように、イルカ出産のニュースを読み上げる。
暗いニュースが多い世の中だから、最初ぐらいは明るい話題から……という配慮なのだろうか。
続いては、山猿のボス、ついに交代か? ……なんてことを言っていたりする。
正直なところ全く興味はないが、こんなユルい感じの番組も悪くない。
──(ザザッ……)
付属のアンテナを立てなくてもクリアに聞こえていたのに、不意に雑音が混ざり始める。
そういえば、全く周波数合わせをしていなかった。
とはいえ、今まで大丈夫だったのに、なぜ急に……と思い、厚焼き玉子をひと切れ口に放り込んでから、ラジオに手を延ばす。
「ん?」
手を触れる前に雑音が晴れ、男性キャスターの声が流れ始める。
女性の時とは打って変わって、真面目な雰囲気が漂っている。
内容によって男女で読み分けをしているのだろうか……
──次のニュースです。
八月一日の朝六時五十五分ごろ、大幡市新町にある新町郵便局前の交差点で、走行中の乗用車が横転する事故がありました。
横転した乗用車はそのまま駐車場のフェンスをなぎ倒し、無人の車三台を巻き込んで停止。通勤・通学の時間帯ということもあり、複数の通行人が巻き込まれたという証言もありますが、まだ詳しい事は分かっていません。
スピードの出し過ぎで交差点を曲がり切れなかったものとみられ、巻き込まれた方の確認を含めて捜査が続けら…(ザザッ)……とです。
その場に(ザザッ)……高校に…(ザザッ)……、シノベヨシノさんが…(ザザッ)…………
雑音が激しくなり、内容が聞き取れなくなってしまった。
(シノベ……ヨシノ?)
心の中で、反すうする。
その名前には聞き覚えがあった。
大学卒業後に就職した会社で、上司だった人の娘が、芳乃という名前だった。苗字も篠辺で間違いない。
雑音でハッキリとは聞き取れなかったが、彼女は高校生だ。
篠辺という上司は、すぐに娘の自慢を始める困った人だったのだが、会社が倒産した後に交通事故で亡くなり、僕もその葬儀に出席した。
つい半年ほど前のことだ。
その娘さんも事故に巻き込まれたとなると、さすがに不憫だ。
……いや、まだそうと決まったわけではない。同じ名前の別人って可能性もあるし、あの言い方だと、たまたまあの場に居合わせたってだけかも知れない。
ともかく、詳細が気になるのだが……
すぐに雑音は収まったものの、聞こえてきたのは女性キャスターの声だった。話題も別のものに移ったようだ。
ならばと、再び携帯電話を手に取って、ニュースを調べ始める。
さっき見た時は、そんなニュース、なかったのだが……
日付が目に留まり、手を止める。
(あれ、日付……。さっき、八月一日って言ってたよな……)
表示されている今日の日付は、七月三十一日だった。
目を閉じ、心を落ち着かせて、もう一度記憶を呼び起こす。……が、やはり、何度思い返しても八月一日と言っていた。
ニュースなら、「本日」とか「昨日」とか言いそうなのに、やけにハッキリ日付を言っていたので、印象に残っていた。
日付だけではない。男性キャスターが話した内容は、なぜかはっきりと頭の中に残っている。なので、聞き間違いや記憶違いではないはずだ。
だとしたら……
(ニュースで日付を間違うって、致命的だよな……)
そう考えるのが自然だろう。
何となく違和感を感じつつも、そう自分を納得させ、過去のニュースを探していく。……だが、やはり、それらしいものはなかった。
情報が溢れすぎて、欲しい情報が見つからない……なんてことはよくあることだが、こうなると余計に気になって仕方がない。
だが、いつまでもこんな事に時間を使っていられないので、もやもやした気持ちを抱えたまま、僕は食器を片付け始めることにした。