85th BASE
七回裏、楽師館に一点をリードされた亀ヶ崎はツーアウトまで追い詰められた。しかしランナーを二人置き、代打のきさらを打席に送る。
初球、石川はストレートでインコースを抉る。きさらは腰を引いて見逃し、ボールとなった。
二球目はカーブ。ストライクからボールになるように変化し、果敢に打ちに出たきさらのスイングは空を切る。
「やべ……」
きさらは思わず舌を噛む。ボール球を空振りしてしまうと、打者としては焦りが生まれる。きさらも例に漏れず、彼女は両肩が縮こまるのを感じる。
「きさら、空振りオッケーだよ! その調子で打てると思った球はどんどんバットを振っていこう」
そんなきさらに、ネクストバッターズサークルから紗愛蘭が声を掛けた。追い詰められた状況でも普段通り優しく仲間を鼓舞する。
(……流石紗愛蘭さん。こんな場面でもめちゃくちゃ落ち着いてる。まるでお母さんみたいな安心感があるよ。何となくだけど、打てる気がしてきたぞ!)
紗愛蘭の微笑んだ顔を見て、きさらの心音は徐々に静まっていく。改めてバットを構えたきさらは、先ほどよりもマウンドの石川の表情がはっきりと見えるようになっていた。彼女が時折呼吸のリズムを乱しているのにも気が付く。
(ピッチャーも一杯一杯のところで投げてるんだ。私にもチャンスが来るはず)
三球目、アウトハイにストレートが外れる。手を出したくなるコースではあったが、きさらは冷静に高いと判断して見送った。これでツーボールワンストライク。カウントの上では僅かながらきさらが優位に立つ。
(この後は紗愛蘭さんだし、私で勝負を決めたいはず。だから次の球でストライクを取りにくるぞ。変化球で空振りになっても良いから、真っ直ぐ一本に絞るんだ)
きさらは肩と手首の力を抜く。できる限り柔らかにバットを持ち、速い球に振り送れないように備える。
石川がセットポジションに就き、投球モーションを起こす。二人のランナーが大きな二次リードを取る中、四球目が投じられる。
真ん中低め、やや内寄りにストレートが来る。きさらは前の一球で空振りした残像が頭に過ぎるも、それを振り払うようにフルスイングを繰り出す。
「ショート!」
バットの芯で弾き返した打球は、鋭いライナーとなってショートの定位置の上に飛ぶ。これを万里香がキャッチできれば楽師館の勝利。彼女はタイミングを合わせて跳び上がる。
「くっ……」
万里香のグラブはほんの数センチ届かない。彼女を越えて外野に弾んだ打球は、そのまま左中間を真っ二つに裂く。
「うおっー! ナイスバッティング!」
「走れ走れ! 真裕も還ってこい!」
起死回生の一打に亀ヶ崎ベンチはお祭り騒ぎとなる。まずは栄輝がホームに駆け込んで同点。続いて真裕も三塁を回る。
(真裕も突っ込んでくるのか。そう思ってたよ。絶対に行かせない!)
楽師館はあとアウト一つで勝利が一転、真裕の生還を許せば敗北となる。中継に入った万里香がセンターの東から返球を受け取り、流れるような動きで送球に移る。
「真裕、滑ろ!」
「真裕さん!」
本塁では紗愛蘭と栄輝が激しいジェスチャーで真裕を手招きする。真裕は加速した勢いに乗って滑り込み、右足をベースに向かって伸ばす。
一方、万里香の送球はワンバウンドで大下の胸の前に到達する。捕球した彼女は自分からタッチに行かず、ベースの角にミットを置く。するとちょうどそこに向かって真裕の爪先が突っ込んできた。
「アウト!」
接触の衝撃で大下のミットが後ずさるも、ボールは零れない。一気に逆転を狙った真裕だったが、楽師館の卒が無い守備に阻まれる。
それでも亀ヶ崎は土壇場で追い付いた。殊勲のタイムリーを放ったきさらは、両腕を掲げて喜びながらベンチに引き揚げていく。仲間たちは彼女を総出で迎え、頭を叩いたり抱き着いたりして手荒く祝福する。
「よくやった! 最高!」
「きさらなら打ってくれると信じてた!」
「ありがとうございます! えへへっ」
石川は真裕を追い込んだ時と同じコースに投げようとしていたが、その狙いよりも投球は真ん中付近に入ってしまった。失投と言えば失投である。ただここは生死を分ける場面で臆せずバットを振り、捉えてみせたきさらを称えるべきだろう。本当に素晴らしかった。
試合は延長戦に入る。亀ヶ崎は春歌に代打を出した関係で自ずと投手が交代するわけだが、誰が投げるのか。
「真裕、行けるか⁉」
監督の隆浯が選択したのは真裕だった。彼は真裕に状態を確認する。
「大丈夫です! 行けます!」
真裕は二つ返事で了承。一塁からホームまで長駆してきたばかりで若干息も切れているが、そんなことはお構い無し。せっかく巡ってきたリベンジのチャンスを、拒むはずがなかった。
《亀ヶ崎高校、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー、柳瀬さん》
場内アナウンスがエースの再登板を告げる。真裕は水分補給をして顔全体の汗を拭い、ベンチから飛び出していった。その姿を、隆浯は腕組みをして見つめる。
(正直、誰を行かせるかはギリギリまで迷った。だがこの痺れる展開、そして相手の打順が一番から始まることを考えれば、やっぱりエースが投げるべきなんだ。真裕自身もやり返したい思いがあるだろうし、必ず良いピッチングしてくれるはずだ)
隆浯は真裕の反骨心に賭けた。当然ながら真裕も捲土重来を期してマウンドに上がっている。
(きさらちゃんが凄いのはもちろんだけど、その前に春歌ちゃんのピッチングが流れを引き寄せたんだ。私だって負けてられないぞ)
真裕は心に宿る炎を再点火させるべく、普段よりも時間を掛けて投球練習を行う。レフトに回って間隔を空けたことで体のバランスが修正され、投げる球の質は降板直前よりも良くなっている。
《八回表、楽師館高校の攻撃は、一番ショート、円川さん》
打席に万里香が入り、八回表が始まる。真裕とは今日三度目の対戦だが、互いの持てる力を発揮しての勝負は初めてとなる。
(ようやく万里香ちゃんとちゃんとした勝負ができる。でも今は楽しもうとか悠長なことは言っていられない。チームのためにも私のためにも、何が何でも抑える)
一点が勝負を分ける展開で、ノーアウトから万里香が出塁することがどれほど大きな意味を持つことか。エースの誇りに懸け、必ず阻止しなければならない。
See you next base……




