68th BASE
コールド圏内の七点差で迎えた五回表。和久学園は先頭の近宮が初球を打ってキャッチャーフライに倒れる。
「くっ……」
近宮は走り出すことができず、打席内で呆然と自分がアウトになるのを見届けた。肩を落として引き揚げる彼女と入れ替わり、七番の小熊が打席に向かう。
《七番ピッチャー、小熊さん》
和久学園が負けていることは誰のせいでもないが、小熊が投げている間に七点を取られたのは紛れもない事実である。彼女はその責任を感じつつ、何とかバットで取り返そうと気合を入れる。
「さあ来い!」
一球目、真裕は外角のカーブを投じる。ボールゾーンへと逃げていく軌道だったものの、小熊は打ちたい気持ちを我慢できず空振りしてしまう。
(初球からカーブかよ。こっちの考えを見透かして投げてきてるのかな……。だとしても私たちは退いたら負けだ。打てると思った球はどんどん振っていくしかないぞ)
二球目は一転してインコースのストレート。これにも小熊は手を出すが、振り遅れてバットに当てられない。
(五イニング目に入ってるのに球威もコントロールも全然衰えてない。私とは大違いだ。けどまだワンストライク分のチャンスが残ってる。可能性がある限り希望を捨てない。そうやって戦う先輩たちに憧れてるんだろ)
小熊が和久学園に入った時点で、部員は現三年生の三人しかいなかった。そのため公式戦には出場できないかもしれないと覚悟して入部した彼女だったが、先の見えない苦しい状況下でも常に明るくプレーする先輩たちに段々と惹かれていった。一年越しに辿り着いた夏大の舞台で、彼らに少しでも恩返しがしたい。
他の下級生にも同じことが言える。だからこそさっきの円陣で、立上の言葉が出たのだろう。
(次は何が来るかなんて、私に考えられる余裕は無い。ストライクと思う球はとにかく食らい付くんだ)
小熊はバットを一握り余す。三球目、彼女はアウトコースへのストレートに差し込まれながらも、何とかファールにして逃れる。
(よし。まずは一球凌げた。次はもう少し甘く入ってこい!)
ここまでは小熊の打てる球が来ていないが、球数を増やせればそれだけ勝機は見えてくるはずだ。真裕にも失投が無いわけではない。
四球目、外角のストレートが続く。小熊はスイングしかけたものの、前の球より遠かったためバットを止めた。最後は前のめりになりながら見送る。
「ボール」
「ふう……」
小熊は頬を膨らませて一息吐く。一球毎に激しい緊張感が襲ってくるが、それに呑み込まれることなく集中力は保ったまま。アンダーシャツも着替えたため、先ほどまで感じていた不快感は幾分か和らいでいる。
マウンドの真裕がグラブを上げて振りかぶる。小熊は左頬を伝う汗を肩で拭い、バットを構え直す。
五球目。真裕の投球は真ん中やや外寄りを直進する。小熊にチャンスが来た。彼女はセンター返しを意識し、力強くバットを振る。
しかしグラウンドに響いたのは、菜々花のキャッチャーミットを鳴らす乾いた音だった。小熊のバットは空を切ったのである。
「……あ、あれ? どうして?」
何が起こった理解できなかった小熊は、反射的に背後を振り返る。確認してみると菜々花のミットの位置は外角低めのボールゾーンにあった。つまり真裕が投げたのはストレートではなかったのだ。
(私の手元に来るまでは確かに真ん中を通ってた。そこからあそこまで曲がったんだ。ということは……)
はっとしたように小熊は瞼を上げ、真裕に目をやる。彼女に背を向けていた真裕は涼しい顔で「ツーアウト」と叫んでいた。まるで三振を取ったことが当たり前だと言わんばかりに。
(……今のが、柳瀬さんのスライダー。変化したことさえ分からないくらい凄い切れ味だった。けど私なんかに投げてくるなんて思わなかった)
小熊は無念さの中に仄かな嬉しさを噛み締める。真裕のスライダーを打席で体感できたことが光栄に思えた。
真裕はどんな相手だろうと手を抜かない。必要な場面となれば誰にでもスライダーを使う。そこには相手選手への敬意も込められており、今の一球も小熊の粘りを認め、確実に彼女を打ち取るために投げたのだ。
《八番キャッチャー、瀬川さん》
打席には右打者の瀬川が入る。その初球、真裕はアウトローにカーブを投じる。ストレートに張っていた瀬川の裏を掻き、ストライクを取る。
「瀬川、ストライクはどんどん打っていこう! 振らないと始まらないよ!」
「バッティング練習と同じ感覚で打てば飛んでくぞ!」
追い詰められている和久学園だが、声を萎ませる者は誰一人いない。もちろん那奈佳も前を向き続けている。
(まだだ……。ランナーが一人でも出れば流れは変わる。そしてもう一人出れば上位に回る。そこまで行けば何とかなる)
二球目もカーブ。瀬川は内角に曲がってきたところを打っていった。だが打球は三塁側のファールゾーンを転がり、忽ちツーストライクとなる。
「まだ終わってないよ! 諦めるな!」
「次ストレート来るから、それを打て!」
愛里たちも応援を止めない。和久学園ベンチもスタンドも、外気温の何倍にも熱気は高まっている。
三球目、真裕は外角のストレートで一気に勝負を決めにいく。瀬川は緩急に惑わされながらも何度かステップしてタイミングを合わせ、反対方向へと打ち返す。
「おお!」
一二塁間に鋭いゴロが飛ぶ。和久学園ベンチ、更にはスタンドからヒットを期待する歓声が湧く。
「セカン!」
「オーライ」
ところがセカンドの昴は予め右寄りに守っていた。彼女は定位置の大きく後ろに回り込んで打球に追い付く。
「せっちゃん走れ! セーフになるよ!」
那奈佳がこれまでになく声を張り上げる。瀬川はそれに応えるため、全力疾走で一塁を目指す。
捕球した昴が素早くボールを右手に持ち替え、一塁に投じる。瀬川はヘッドスライディングでセーフになろうとする。
「……アウト!」
一瞬の静寂の後に、一塁塁審のコールが轟く。瀬川の手は惜しくも届かず。和久学園の夏が、終わった。
See you next base……




