43rd BASE
今日も普段通り部活を終え、私は家へと帰ってくる。「ただいま」と言っても声が返ってこず、どの部屋も暗闇に包まれている。
誰もいないのかとリビングを確認すると、Tシャツ姿のお兄ちゃんがダイニングテーブルで座ったまま寝ていた。足元にはスーツのズボンが無造作に放置されているので、就職活動に行っていたのだろう。
私はお兄ちゃんを起こさないよう静かに電気を点け、鞄を床に置く。それから洗面所に入って湯沸かし器を作動させた。早く汗の付いた制服を脱いでしまいたかったが、そうすると風呂が沸くまでの間は下着姿で過ごすことになる。私としては構わないものの、もしもお兄ちゃんたちに見られるとまたとやかく言われそうなので我慢しよう。
十分ほどで風呂は沸き、湯沸かし器から馴染みのメロディが流れる。それでもお兄ちゃんは目を覚まさなかったので、私が先に入浴する。
「はあ……」
熱々の湯が全身に染み、疲れた身体は瞬く間に癒されていく。夏場はシャワーで済ます人も少なくないが、私としては暑いからこそ湯船に浸かりたい派だ。
風呂から上がった私は半袖のパジャマに着替え、リビングへと戻る。お兄ちゃんはようやく目を覚ましており、夕方のニュースと睨めっこしていた。左手でテレビのリモコンを大事そうに握り締めているが、特に意味は無いのだろう。
「お兄ちゃんおはよー」
私は朝の挨拶をして茶化す。お兄ちゃんは少し気怠いそうに顔を顰めながらも、挨拶を返してくれた。
「おはよう。帰ってきてたのは真裕だったのか。母さんは?」
「分かんない。まだ仕事から帰ってきてないんだと思う」
「そうだろうな。なら俺も風呂入ってこよ」
ゆっくりとお兄ちゃんは腰を上げ、洗面所に向かおうとする。しかしそれを私が引き留める。
「お兄ちゃん、今日も就活だったの?」
「ああ、そうだけど」
「大変だね。順調?」
「どうだろうな。俺自身もよく分からん。とりあえず今の時点でいくつか内定貰ってるし、ニートになることはないかな」
お兄ちゃんは首を傾げながらも、それなりの満足感があるような様子だった。試しに内定の出た企業を聞いてみると、私でも知っている有名所の名前が挙がる。去年の夏から準備を始めて精力的に活動している姿を見てきたので、努力が実ったことはおめでたいと思う。その反面、私にはどうしても聞いておきたい疑問が生じる。
「内定を貰ったってことは、来年の春からは働くんだよね。社会人になったら野球はどうするの?」
「うーん……。どうするかはまだ決めてないな。一応野球部のある会社もあるし、そこに行くことになったら入部するだろうな。それ以外だとちょっと分からん」
悩まし気に眉を顰めるお兄ちゃん。ただその顔付きとは裏腹に、どこか気の抜けた物言いをする。お兄ちゃんにとって野球を続けるか否かはさほど重要でないように感じられ、私は胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感を覚える。
「前も聞いたかもだけど、もうプロを目指す気は無いの?」
「プロね。気があるかどうかと言われたら、正直無いな。社会人チームに入ったとしても、それは野球を楽しむためだろうし」
お兄ちゃんは哀も楽もどちらも含んだような表情をする。何となく答えは分かっていたものの、はっきり言葉にされると堪えるものがある。お兄ちゃんにはプロになってほしいとずっと思っていたので、正直ショックが大きい。こんな気持ちになるなら聞かなければ良かったかもしれない。
「……そっか。お兄ちゃんなら絶対プロになれると思ってたんだけどね……」
「それは昔の話だよ。俺だってプロを目指せるなら目指したいけど、もうその資格が無いからな」
資格が無い。その表現が正しいかは分からないが、お兄ちゃんがそう言ってしまうことに納得はできる。高校時代に県内屈指の有望投手だったお兄ちゃんには、三年生時に数球団から調査書が届いていたそうだ。ドラフト指名もほぼ確約されていたものの、お兄ちゃんはプロ志望届を提出せず、あまつさえ野球の強豪でもない地元の大学に進学。当時は私も周囲もその選択を理解できなかった。
だがお兄ちゃんの肩は度重なる登板過多の影響で大きなダメージを負っており、案の定、大学入学直後に故障で投げられなくなってしまった。恐らくお兄ちゃんは、そうなることを予め悟っていたのだ。
長いブランクを経てお兄ちゃんは野球部に復帰することこそできたものの、壊れた肩が完治することはなく、高校時代のような投球は二度とできない。その状態でどうしたらプロを目指すと言えようか。
「真裕はどうするんだよ。お前こそプロを目指す気は無いのか?」
「私? 私にはそんな実力無いよ……」
「そんなことないだろ。お前なら十分に可能性はあると思うぞ。詳しくは分からないけど、高校生の中じゃトップクラスだろ」
お兄ちゃんは椎葉君と似たような反応を見せる。この二人から言われると、勘違いしてしまいそうで困る。
「いやいや、そうやって評価してもらえるのは嬉しいけど、プロになるのは大学で鍛え直してからでも良いかなって思う。……ほら、段階を踏むのって大切じゃん」
「一理あるな。それに野球だけが全てじゃない。いずれは自分で生計を立てていかなきゃならないし、それこそ結婚して家族が増えること考えたら、安定して稼げる道を選んだ方が良いかもしれない。野球選手は次の日の生活すら約束されないことだってあるしな」
「結婚……。お兄ちゃん、結婚する予定があるの?」
「例えの話だよ。将来的にはそうなるかもしれないだろ」
「あ、そういうことか。なるほど……」
ふと私は、自分の結婚について想像してみる。もし知り合いの中で結婚するなら誰だろうか。やっぱり椎葉君になるのか。そうしたら毎日野球の話をして、子どもにも野球をやらせることになりそうだ。
……待て待て。何故ここで椎葉君が出てくるのか。そもそも結婚したとしても何年も先の話。現時点で出会っている人が相手になるわけではない。私は横に首を振って考えるのを止める。
「どうしたんだ急に? 怖いぞ」
「あ、ごめんごめん。お兄ちゃんの話を聞いたら色んなことが頭に浮かんできて、パニックになっちゃった。あはは……」
「それは悪かったな。まあ真裕はまだそんなに難しく考える必要は無いさ。今は夢を叶えるために最善な進路を決めれば良い。世界一になりたいんだろ?」
「うん。それはずっと変わってないよ」
私には将来にも明確な目標がある。お兄ちゃんの言う通り、その目標を果たすことを第一に道を選ぶべきなのは間違いない。
「ありがとうお兄ちゃん。ちょっとすっきりしたかも。ひとまずは日本一になるために夏大を頑張るよ」
「そうだな。その中で見えてくる答えもあるはずだ」
お兄ちゃんは優しい眼差しを私に向ける。最後の夏大は、私の人生を大きく左右する大会となるかもしれない。
See you next base……




