36th BASE
互いに得点を奪えないまま迎えた六回表、楽師館は先頭打者に代打の林を送る。ツーボールから二つストライクを取った春歌は、五球目にインハイへのストレートを投じる。
「ふん!」
林は不意に鼻息が漏れるほどの強烈なスイングで応戦する。一見すると力と力のぶつかり合いだが、春歌にそのつもりは無かった。
「セカン」
高々と上がったフライがセカンド上空を舞う。オレスは数歩足を動かしただけで立ち止まり、落ちてきた打球を顔の横で掴む。
「アウト」
力自慢の林に外野まで飛ばさせず、春歌は内野フライに仕留めた。勝因は球威で押し込んだというより、彼女がボールゾーンに投げていたからだ。
どんな打者でも、一般的なスイングの軌道で高めのボール球を捉えることはほぼ無理に等しい。体と投球の間隔が狭まるインコースともなれば尚更である。どれだけ頑張って打とうとしてもバットの上面を擦ってしまい、人間離れした怪力の持ち主でもなければ精々浅い外野フライ止まりだろう。
仮に見逃されていればスリーボールとなり、春歌としては苦しくなる。だが打者の林も追い込まれている上、自身が長打を期待されて打席に送られたと分かっているので、長打にできると感じればつい手を出したくなるもの。バッテリーはそれを見越してこの配球を組み立てたのだ。
同じ内角攻めでも、過去の春歌が“剛”一辺倒なのに対し、今の投球は“柔”の心得が合わさっている。二つの要素を調和させ、彼女は力ではなく技で林を打ち取った。
《一番サード、西本さん》
楽師館打線は三巡目へ。先頭を切った春歌だが、一、二番のどちらかでも出せばランナーを置いて万里香を相手にすることとなる。如何に調子が良いと言っても、その状況は決して好ましくない。
春歌は初球からストレートでインコースを抉る。ボールにはなったものの、西本の腰を引かせた。こうすることで後の投球への踏み込みが甘くなり、外角をより遠くに感じさせられる。西本は前の打席でヒットを放っているため、気分良くバットを振らせたくはない。
二球目、アウトコースのストレートを西本が見送る。彼女はボールだと判断したが、球審はストライクとコールする。
「へ?」
西本は無意識に不服そうな様子を顔に出してしまう。先ほどの内角がしっかり効いているみたいだ。
三球目に春歌が投じたのは真ん中やや内寄りのチェンジアップ。甘いと思って打ちに出た西本のタイミングを狂わせ、空振りを奪う。
これでワンボールツーストライク。焦りは禁物だが、無意味にボール球を増やしてカウントを悪くするのは避けたい。サイン交換を終えた春歌は短い間隔で四球目を投げる。
ストレートがアウトローへ行く。西本はツーシームやカットボールなどの細かい変化球を疑ったが、ここでは小細工無し。投球は真っ直ぐホームベースを貫こうとする。
「キャッチ!」
西本は本塁後方にフライを打ち上げた。マスクを脱いだ菜々花は瞬時に打球の行方を捉え、落下地点に入って捕球する。
塁に出すと非常に厄介な西本だったが、春歌はキャッチャーフライに抑えた。ランナーを許さぬままツーアウトを取り、二番の中本を打席に迎える。
「ストライク」
一球目、春歌はインコースのストレートでストライクを先行させる。言うまでもないことだが、打者の身長が低くても彼女は全く意に介さない。
二球目は外角のボールゾーンから入ってくるカーブ。林に投じた時は上手くいかなかったが、今度はストライクとなる。春歌は中本にバットを振らせることなく追い込む。
ただ中本としても何とか万里香に繋ぎたい気持ちが強い。三球目、低めに沈むチェンジアップをきっちり見極めた。
「ボール」
バッテリーは三球それぞれで異なる球種を使っている。終盤に来て競っている戦況では、一人のランナーが命取りになる。出し惜しみはできない。
四球目、春歌は初球と同様のコースにカットボールを投じる。中本はスイングを始めてから自らの体に向かって曲がる変化に気付き、慌ててバットを止めた。球審はボールの判定を下す。
「振ったでしょ!」
「ノースイング」
菜々花のアピールは実らず、三塁塁審が両手を横に広げる。中本は助かったと言わんばかりに大きく息を吐き出した。
春歌があっさりとツーストライクを取りながら、中本も食い下がって並行カウントにまで持ってきた。林の時とは正反対の流れとなっている。
(打者のタイプが違うわけだし、林みたいにはボールを振ってくれないか。そもそも追い込まれた時点でフォアボールを狙って、前に飛ばそうとしてないのかもしれない。だとしたらストライクゾーンで勝負し切らないと)
五球目の投球へ向かう前に、春歌はロジンバックを触る。このように打者との対戦の途中で間を開けることは今日一度も無かった。それだけ快調にピッチングを進めてきたわけだが、裏を返せばここでは少し嫌な予感がしているということになる。
改めてプレートを踏んだ春歌が投球動作を起こす。外角のツーシームで引っ掛けさせようとしたが、そうはなるものかと中本はファールで逃れる。
(ほんとに前に飛ばす気無いんじゃないの? そういう面倒なことしなくて良いから。けど根比べをするつもりなら、負けるわけにはいかない)
春歌は顔色一つ変えずに投球を続ける。六球目、彼女は中本の膝元へとストレートを投げ込んだ。
「ファール」
中本は窮屈なスイングを強いられながらも、何とかバットに当てた。厳しい球もファールにし、中々アウトにならない。
七球目もファール。続く八球目、カーブがベースの奥でワンバウンドする。空振りを奪うには有効なコースだが、ここまで辛抱強く粘っている中本には通じない。春歌としてもゴロを打たせるつもりで投げていたため、コントロールミスと言える。
「ボールスリー」
長い勝負は遂にフルカウントにまで達する。ネクストバッターズサークルでは、それまでしゃがみ込んで待機していた万里香が腰を上げ、体を軽く動かし始めた。打順が回ってくることを想定して準備を整える。
「頑張れ春歌ちゃん! 負けるな! 打たせればバックが守ってくれるよ!」
亀ヶ崎ベントからは真裕の声援が飛び、それに続いて他の選手たちも春歌を鼓舞する。彼女の後ろを守る野手陣はいつ自分の元に打球が来ても大丈夫なよう、各々その場でジャンプしたり足踏みしたりしている。
チーム全員が春歌を助けたいと思っている。彼女はこの後押しを力に変え、中本を抑え切ることができるのか。
See you next base……




