141st BASE
真裕と京子が仲間の元に戻ろうとする。ところがその足を、一人の少女が呼び止める。
「おーい、真裕ちゃん!」
二人の向かい側から舞泉が歩いてきたのだ。彼女は真裕たちと最後に話がしたいと言って、一時的にチームを抜け出してきた。
「……あ、舞泉ちゃん」
舞泉の姿を見つけた真裕は複雑な表情を浮かべる。試合終了直後に涙を流していた彼女を見たばかりなので、どういう態度を取れば良いのかが分からない。
しかしその懸念は舞泉自身がすぐに振り払った。彼女は清々しい朗らかな口調で真裕に話し掛ける。
「ちょっと真裕ちゃん、辛気臭い顔しないでよ。私に勝ったんだから、笑って笑って」
「う、うん。分かった」
真裕は少しぎこちないながらも頬を緩める。負けた側が清々しく接してきたのだから、勝った側はそれに応えるべきだ。
「改めて決勝進出おめでとう。悔しいけど完敗だよ。今年は最後の最後まで投げ合えたし、本当に楽しかった。ありがとう」
「お礼を言うのはこっちの方だよ。舞泉ちゃんに勝ちたいと思って頑張ってきたから、私はここまで成長できたんだ。本当にありがとう。決勝も絶対に勝って、日本一になるね」
「当たり前じゃん。そうしてもらわないと困るよ。ふふっ」
真裕と舞泉は今一度固い握手を交わす。両者の手にできた無数の肉刺や傷が擦れ合い、それを通じて互いに互いのライバルが積み重ねてきた途方も無い努力の跡を感じ取る。二人がこの境地に辿り着けたのは、それぞれの頑張りがあってこそ。いずれが欠けても成し得なかっただろう。
「それに陽田ちゃんも、最後はしてやられたよ。結構良いボール投げたんだと思ったんだけどなあ……」
舞泉は京子にも手を差し出す。京子は少し戸惑いながら、その手を軽く握る。
「それはどうも。正直ウチも何で打てたのか分かんないよ。もう一回やれって言われてもできないと思う」
「えー、何それ。それじゃ私、まぐれで打たれたみたいじゃん」
「いやいや、みたいじゃなくて、本当にまぐれだよ」
京子がそう言って謙遜する。もしも十回同じ勝負を繰り返したら、残りの九回は打てなかっただろうと本気で思っていた。対する舞泉は苦々しく白い歯を零し、すぐに話を切り替える。
「……そういえば真裕ちゃん、試合後の挨拶で言った言葉、覚えてるよね?」
「……これで、終わりにしたくないって言ったやつ?」
「うん、そう」
舞泉の笑みが勇ましいものに変わる。続けて彼女は力強く言い放った。
「……私、プロに行くから」
場が一瞬凍てつく。舞泉はそれを即座に破って言葉を連ねていく。
「実はとあるプロの球団から、うちに来いって誘われててね。どこかはまだ具体的に名前を出せないんだけど。だからこれから何事も無ければ、そこに入団しようと思ってる」
何一つ特別なことなどないかのように、舞泉は平然と説明する。しかし本来、女子プロ野球チームに入るためには入団テストに合格しなければならない。その合格率はほんの数パーセントと言われている。舞泉はその厳しいテストを受けることなくプロ入りしようとしているのだ。
「……それって、スカウトってことだよね」
真裕は目を大きく見開いて驚き、京子と顔を見合わせる。舞泉の言っていることがどれほど凄いことかは、二人には容易に理解できた。何故なら彼女たちの二学年上に、かつて世代最高の逸材として謳われ、プロに進んだ糸地晴香という存在がいるからだ。その晴香でさえスカウトの話は無く、入団テストを経てプロ入りを果たした。つまり舞泉は晴香以上に高い評価を受けたということである。
「……凄いね。でも舞泉ちゃんなら不思議じゃないか」
「そう? まあそんなことはどうでも良いんだよ。大事なのは真裕ちゃんがどうするかだから、……ね」
舞泉に問われ、真裕は思わず顔を硬直させて息を飲む。暗に自分もプロに来いと言われているのだろう。そう彼女は解釈する。
「私は、……まだ何も決めてないよ」
「そうなの? てっきりプロに行くもんだと思ってたのに……」
口を尖らせる舞泉。予想に反して真裕から快い答えが聞けず、気抜けしてしまう。
「けどせっかく野球を続けるなら、プロでやらないと勿体無いよ! 私とも対戦できなくなるしね」
舞泉の声が熱を帯びる。何とか真裕を口説き落としたい気持ちの表れだろうか。
「それはそうだけど……。でもちゃんと考えてから答えを出すことにするよ」
真裕は舞泉の意見に流されてしまわぬよう、努めて冷静に答える。舞泉も無理強いは良くないと分かっているので、ここは一旦退くことにする。
「ひとまず分かったよ。じゃあどうするか決まったらまた教えて。……京子ちゃんもだからね!」
「ウチ⁉」
まさか話を振られると思っていなかった京子は、肩をびくつかせて反応する。舞泉としては彼女に打たれたまま終わるのは気が済まない。
「そりゃそうでしょ。勝ち逃げなんて許さないから。それに幼馴染同士でプロ野球選手なんて夢があるじゃん。じゃ、良い知らせ待ってるよ」
舞泉は笑顔で手を振りながら去っていく。彼女の姿を捉えられなくなったタイミングで、京子が小さく溜息を漏らす。
「はあ……、負けたはずなのに元気なこと。ていうか自分と一緒にプロに入れなんて、無茶苦茶なこと言うじゃない」
「ふふっ、まあ舞泉ちゃんらしいけどね」
穏やかな笑い声を上げ、真裕は微笑みの中に安堵感を滲ませる。一方の京子は、神妙な面持ちで彼女に問う。
「……で、どうするの? 真裕はプロに行くつもり?」
「ああ……。……正直、迷ってる。やっぱり舞泉ちゃんとはもっともっと対戦したいし。プロになれるのなら、なりたい……かも」
真裕が初めて、プロへの志を口にする。これまで誰かに聞かれても言及してこなかったが、今日の舞泉との対戦を通じて心が動いたのだ。それを聞いた京子はほんの僅かに眉を顰めた後、柔和に表情を崩す。
「そう。良いんじゃない。真裕がなりたいって言うなら、ウチは応援する」
「ありがとう。けどまだ決めたわけじゃないから。決勝戦だって残ってるし、そっちを優先しないとね。京子ちゃんこそどうなの?」
「馬鹿なこと言わないで。ウチがなれるわけないでしょ。それにもう苦しい思いはしたくないし」
京子は大袈裟に首を横に振る。反対に真裕は寂しそうに目を細めつつ、自らを納得させるように頷いた。
「さて、ウチらも戻りますか。そろそろ宿舎に帰る時間だろうし」
そう言って京子が歩を進める。ところが真裕は立ち止まったまま。二人の距離が数歩離れたところで、彼女は京子に一つ尋ねる。
「ねえ京子ちゃん! 進む道は違っても、私たちは繋がっていられるよね?」
幼馴染の唐突な問いかけに、京子はすぐに答えなかった。緩みそうな口元を咄嗟に引き締め、表情が崩れないよう整える。
「……そんなの、決まってるじゃん」
京子が真裕の方を振り返る。耳の下で結ばれた三つ編みが、踊るように肩で弾む。
「真裕次第でしょ!」
意地悪く笑う京子。その瞳は潤んでいたが、真裕は眼鏡が反射しているだけだと勘違いして気付かない。
二人の座っていた場所では、ホトトギスの花が誰にも見つからぬようひっそりと咲いている。しかし本当は見つけてほしいのか、時折その身を微かに揺らしていた。
See you next base……