139th BASE
同点の九回裏、ツーアウトランナー満塁、フルカウント。舞泉は打席の京子に対し、渾身の力を込めたストレートを投じる。
(この一球、打たれてなるものか!)
舞泉の魂が籠った白球は、轟々と唸りを上げて真ん中高めへと突き進む。四球も頭にあった京子だが、確信無く見送るわけにはいかない。彼女は持てる力の全てを出し切ったフルスイング、……ではなく、あくまでも沈着に、来た球に対してバットの芯を被せるようにしてスイングする。
グラウンドに少し長めの金属音が響き渡る。京子はこの瞬間だけ体に力を入れ、左手を押し出してバットを振り切った。
(……勝つのは、ウチらだ!)
打球は鮮やかなセンター返しとなった。咄嗟にグラブを出す舞泉の足元をしぶとく掻い潜り、後ろを転々とする。
「セカン捕れる!」
「抜けろ!」
振り返った舞泉、全力疾走で走り出した京子が同時に声を上げる。二人の、更にはこの試合に携わる全ての者の想いを乗せた白球は、二塁ベースを越えてセンターへと抜けようとする。
「させるか!」
しかしこれをセカンドの姫香が阻んだ。彼女はダイビングして打球に追い付く。
「折り姫、二塁間に合う!」
喉奥から血が吐き出てきそうなほどの舞泉の叫びが轟く。打球は姫香のグラブに収まってはおらず、彼女の目の前に転がった。ここから一塁に投げてもアウトにはできそうにない。姫香は腹這いになったままボールを拾うと、無我夢中で二塁にトスする。
ランナーの菜々花がスライディングで突っ込む傍ら、ショートの横川もベースを踏んで限界まで腕を伸ばし、一瞬でも早く姫香のトスを捕ろうとする。寸分の差が両チームの生死を分ける。その判定は……。
「セーフ、セーフ!」
二塁塁審が大きく、そして何度も両手を広げるジェスチャーを見せる。この間に三塁ランナーのゆりがホームを踏む。長い長い試合に、ようやくピリオドが打たれた。
「よっしゃあ!」
ホームインしたゆりは跳び上がって喜びつつ、一塁ベースを駆け抜けた京子を祝福しようと一目散に走っていく。だがそれよりも先にベンチを飛び出し、誰より早く京子の元へと向かう者がいた。そう、真裕である。
「京子ちゃん! やったあ! 勝った、勝ったよ!」
真裕は猛進しながら京子に抱き着いた。京子はその勢いを受け止め切れず、その場に押し倒される。加えてそこに他の仲間も雪崩れ込み、何が何だか分からないぐらい揉みくちゃになってしまう。
「ちょ、痛い痛い! ていうか真裕、あんたもう少し加減してよ!」
「あはは……、ごめんごめん」
呆れ半分で声を荒らげる京子に、真裕が苦笑いしながら謝る。やがて騒ぎが落ち着くと、二人は手を取り合って立ち上がり、整列に向かう。
一方、マウンド上では舞泉がゲームセットの瞬間に膝から崩れ落ち、今尚動けないでいる。一連のプレーの激しさに観客や選手たちのほとんどが気付いていないが、最後の一球は日本人最速を更新する一三〇キロを記録していた。そんな最高の一球を、京子に弾き返されたのだ。
(嘘だ……。……いや、嘘じゃない。私が……、私の真っ直ぐが打たれたんだ)
視界一面を覆う黒土が唐突に霞んでいく。鳴りを潜めていた疲労感が瞬く間に押し寄せ、立ち上がる気力を奪うだけならず、その場に倒れ込みそうなほどの気怠さを感じさせる。
「……舞泉! 大丈夫? 立てるかい?」
そこへファーストの坂壁がやってきて肩を貸した。彼女は歓喜に湧く亀ヶ崎ナインを目の前で見せ付けられながらも、奥州大付属の選手の中で最初に前を向いて舞泉を支えにきたのだ。
「……ごめん、ありがとう」
舞泉は力の抜けた声色で坂壁に詫び、彼女の肩に左腕を掛けて立ち上がる。対する坂壁も舞泉の好投に報いることができなかった不甲斐無さを謝罪する。
「謝るのは私たちだよ。舞泉はよく投げてくれたし、チームを引っ張ってくれた。三連覇できなくて、……柳瀬に勝たせてあげられなくてごめん」
坂壁の頬を涙が伝う。「そんなことない」と言い掛けた舞泉だったが、無念さが色濃く滲む坂壁の表情を見て言葉に詰まってしまった。そして無意識の内に、彼女の瞳からも大粒の雫が溢れ出す。
(ああ……。私、負けちゃったんだ)
舞泉は帽子を深く被って外から自分の顔が見られないようにする。それから本塁に整列した彼女だが、偶然にも真裕の真正面に並ぶ。
「舞泉ちゃん……」
真裕ははっきりと舞泉の表情を捉えたわけではないものの、彼女が泣いていることは簡単に分かった。その姿はまさに、過去二年の自分そのもの。勝利の爽快感は一瞬にして消え、途端に背筋が凍る。
(舞泉ちゃんでもこんなに悔しがるんだ……。……本当に、勝てて良かった)
球審がゲームセットを告げる。選手たちが帽子を取って挨拶すると、スタンドからは今日一番の拍手が起こった。その後両ナイン、中でも真裕と舞泉が握手を交わした際にはその拍手は一層大きくなる。
「……真裕ちゃん。おめでとう」
「ありがとう。……でも私一人の力じゃ舞泉ちゃんには勝てなかった。京子ちゃんや皆のおかげだよ」
真裕の言葉に、舞泉ははっとした顔をする。彼女はどこか腑に落ちたように目を細め、真裕に優しく笑いかける。
「……そっか。私たちを倒したんだから、決勝も絶対に勝ってね。日本一になってよ」
「もちろんだよ。必ず勝ってくる」
そう言って真裕は微笑み、握った手を離そうとする。ところが舞泉はそれを一旦引き留め、仄かに目元を引き締めて最後に一つ言い残す。
「……これで終わりにしたくないから」
この言葉の意味が汲み取れないほど真裕も野暮ではない。彼女ははっきりと肯定しなかったものの、軽く頷いて共感の意を示し、改めて舞泉の手を固く握り直した。舞泉は一度顔を伏せて満足気に口角を持ち上げると、今度は彼女の方から手を離してベンチへと引き揚げる。
それから亀ヶ崎ナインはセンター方向に正対して横一列に並び直し、勝利チームとして校歌を斉唱する。彼らが麗らかながらも力強い声で歌い出す中、本来その姿をベンチ前で整列して見届けるべき奥州大付属ナインの多くは、悔しさを堪え切れず蹲ってしまった。四番を務めた姫香もその内の一人で、彼女は亀ヶ崎の選手たちに目もくれず、舞泉の隣で地面に膝を付いて泣きじゃくっている。
(私がチャンスで打てていれば……、最後の打球をキャッチできていれば……。くそっ、くそっ!)
しかし舞泉は姫香の振舞を許さなかった。彼女の左腕を持ち上げて強引に立たせ、亀ヶ崎ナインの姿を直視させる。
「……折り姫! ここで泣いてちゃ駄目だよ。この光景を目に焼き付けておくんだ。来年同じ思いをしないよう、これからチームを引っ張っていってね」
「舞泉さん……。……はい、分かりました」
姫香は咽びながらも返事をすると、真っ赤に腫れて皺くちゃになった目を無理やり見開く。そうして舞泉に言われた通り、目の前の光景を自らの頭に、胸に刻み付ける。もう舞泉はこの舞台には立てない。今日の屈辱は晴らすのは彼女しかいないのだ。
延長九回まで縺れた死闘は、一対〇という形で亀ヶ崎が制した。最後は幼馴染の絆で因縁のライバルを打ち倒し、真裕たちは甲子園球場で行われる決勝戦へと駒を進める。
See you next base……