111th BASE
六回表、オレスのホームランで逆転に成功した亀ヶ崎は、その後も更なる猛攻を仕掛ける。雪野と代わった豊本を攻め、鯖江戸のエラーも絡んで合計七点を奪った。攻守交替となり、いの一番にゆりがベンチから飛び出す。
「さあ、ここからしっかりと守るよ!」
「おー!」
ゆりの後を追うように、他の選手も颯爽と守備位置へと駆ける。溜まりに溜まった鬱憤を晴らしたことで、皆が活気に溢れる。
その裏で、鯖江戸ナインたちが精気を失ったかのようにどんよりと自軍ベンチへと引き揚げてきた。攻撃前の円陣こそ組んでみたものの、主将の有村は何を言って良いのか分からない。他の選手たちも口を閉ざし、誰もが黙り込んでしまう。
鯖江戸は快進撃でこの準々決勝まで進んできた。もちろんフロックではない。勝ち続けられる実力は持っている。だがオレスのホームランで逆転を許した後の彼女たちは、それが嘘であるかのような拙いプレーが目立った。
こうなってしまった要因の一つは経験の無さだろう。鯖江戸の準々決勝進出はチームとして初。それでも強豪の亀ヶ崎を相手に六回まで堂々たる戦いぶりでリードを奪っていた。しかし勝利が目の前まで迫っていたところで、一振りで劣勢に立たされてしまった。このとてつもないという言葉ですら表現し切れないであろう大きなショックから立ち直れる術を知っているほど、彼女たちは場数を踏んでいなかったのである。
《亀ヶ崎高校、選手の交代をお知らせいたします。代打いたしました弦月さんに代わりまして、ピッチャー、春木さん》
鯖江戸ナインの沈黙を破るように場内アナウンスが木霊する。この回からマウンドに上がるのが一年生の結だと分かり、誰かが嘲笑気味に呟く。
「春木って一年生だよね? 点差も開いたし、亀ヶ崎は一年生を試す余裕も出てきちゃったのか……」
ここで一年生を登板させるなど、亀ヶ崎は完全に勝った気でいる。鯖江戸ナインからすればそう思えてしまう。本来ならそれに奮起したいところだが、今の重たいムードがその反骨心をも吸い取っていく。
ところが一人、その空気を変えようとする者がいた。
「……本当に、そう思うかい?」
そう言って円陣に割って入ってきたのは、鯖江戸の監督を務める榊だった。少し冴えない顔立ちに黒縁の眼鏡を掛けており、その風貌はとある国民的アニメに出てくるような男性教師を彷彿とさせる。何十年か前の高校時代は野球部に所属していた彼は、昨年から女子野球部の顧問に就任。選手には常に穏やかに語り掛け、練習や試合時にも何かを強制するような言い方はまずしない。
「……どういうことですか?」
有村が尋ねる。榊は選手全員に目配せしつつ、彼女たちを諭すように言い聞かせる。
「皆も分かっている通り、亀ヶ崎にはまだ二人の上級生ピッチャーが控えてる。けどその二人に関しては、僕らは徹底的に調べ上げて、しっかりと対策も立てられている。だから亀ヶ崎はそれが怖いんじゃないかな? 今となってはリードされちゃってるけど、こっちはついさっきまで相手の先発を苦しめて、四番バッターを抑え込んでいた。それを見ているはずの亀ヶ崎が、ここにきて油断するとは思えない。残っているピッチャーの中で春木さんが一番データを取られていないと感じたから、彼女をマウンドに上げる選択をしたんじゃないかな」
「……本当に、そうでしょうか?」
選手全員、榊の言うことは俄に信じられない。有村でさえも思わず疑念を抱く。榊は口調を変えず、仄かな微笑みを浮かべて答える。
「少なくとも僕はそう思うよ。僕らが亀ヶ崎を追い詰めていたのは事実なんだから。それでも相手がこっちを侮って一年生を投げさせていると考えているのは、僕らは僕らがやってきたことを自分たちで否定することになるんじゃないかい。自分たちは大したことない、五回まで亀ヶ崎に勝っていたのは偶々でしかないってね」
「それは……」
有村が口を噤む。ここまでの自分たちの戦いぶりを思い返して、亀ヶ崎が手を抜くことがあるだろうか。改めて考えてみると、到底そうは思えない。榊が更に続ける。
「きっと亀ヶ崎は全力で勝ちにきてる。その結果登板させたのが一年生だっただけで、春木さんはこの場面で投げられる力を持ったピッチャーだってことなんだ。それなのに僕らが勝手な解釈をして試合を諦めてしまうのは、相手に失礼なんじゃないかな。スコアを見たら簡単にひっくり返せる点差ではないし、逆転することは難しいかもしれない。けど僕らも最後まで全身全霊を傾けて戦い抜くことが礼儀だよ。これまで努力を積み重ねてきた、自分自身のためにもね」
勝負事である以上、どうしても選手たちは勝ち負けに意識が行ってしまいがちになる。しかしそれだけが高校野球の全てではない。一人の人間として、野球を通してどう成長できるか。その大切さを説くのも、教育者である榊の務めである。
《六回裏、鯖江戸高校の攻撃は、一番サード、参藤さん》
結の投球練習が終わり、六回裏が始まる。榊は打席に立つ参藤に視線を送りながら、他の選手たちを激励する。
「さあ、攻撃が始まるよ。皆で声を出して、参藤に力を与えよう!」
「榊先生……。分かりました」
榊の訓示を受け、有村が戦意を取り戻す。彼女は再び円陣の中心に立つと、これまで通り仲間たちに道を示した。
「こっちの持ってる春木のデータは多くはない。けどある程度の特徴なら掴めてる。それを土台にして、一人一人が攻略法を考えて打席に臨もう。彼女を打ち崩せれば、次に出てくるピッチャーのデータは揃ってる。そしたらまた私たちのペースに引き込める。五点だって六点だって取れるはずだ」
「有村の言う通りだ。私たちならできる。もう一回、皆で勝負しよう! そして亀ヶ崎に勝とう!」
「おー!」
チームメイトも有村に感化され、各々に先ほどまでとはまた違った闘志が沸き立つ。データの少ない結をどれだけ攻め立てられるか。鯖江戸が更なる高みに昇るための試練に挑む。
See you next base……