107th BASE
六回表、早々にツーアウトを取られた亀ヶ崎だったが、嵐の二塁打で同点のチャンスが訪れる。迎えた打者は三番の紗愛蘭だ。
《三番ライト、踽々莉さん》
鯖江戸の外野手たちがバックホームに備えて僅かに前へと出てくる。嵐は足の速いランナーではないが、ベースランニングは非常に巧みである。前進守備を敷かれたとしても、野手の正面に打球が行かなければ単打でもホームインを狙える。
紗愛蘭との勝負を迷っていた有村だったが、ひとまずは座ってミットを構えた。初球は外角低めのボールになるスライダーで空振りを誘うも、紗愛蘭は反応しない。
(負けているわけだし、踽々莉自身にも自分でランナーを還したい気持ちがあるはず。そうなれば少々強引に打ちにくるかと思ったけど、そんなに簡単にボール球には手を出してくれないか。歩かせたら逆転のランナーになるし、初めから勝負を避ける選択はしたくない。腹を括ってこっちから攻めていくぞ)
二球目、有村は自分に活を入れる意味も込めて、インコースのストレートのサインを出す。ここで使っておかなければ、もうこの対戦では使う勇気が出ないのではないかと感じていた。
雪野は怯んだ様子を一切見せずに承諾。セットポジションに入った彼女は頬を膨らませて息を吐き出し、心身を奮い立たせて投球動作を起こす。その左腕から放たれたストレートは、要求通り内角へと行く。
紗愛蘭は一旦打ちに出ようとしたものの、思った以上に自分の体に近いコースに来ていたため咄嗟にバットを止めた。すると投球が彼女の前を通る瞬間、何かに擦ったような音がする。
「タイム。ヒットバイピッチ」
「へ? ああ……」
投球が紗愛蘭のユニフォームを掠めたのだ。紗愛蘭本人に当たった感覚は無く、判定を聞いた彼女は困惑しながら自らの腹を摩る。
予期せぬ死球で紗愛蘭が出塁し、ツーアウトランナー一、二塁と局面は変わる。ここで鯖江戸は守備のタイムを取った。内野陣と共に、有村が再びマウンドへと向かう。
「雪野、このデッドボールは何も気にしなくて良い。寧ろよくインコースに投げ切ったよ。ランナーは溜まったけど、今日のネイマートルは抑えてる。恐れることはない」
有村は締まった顔付きをしながらも、その口調は穏やかだ。紗愛蘭への死球は喜べるものではないが、それによってオレスとの勝負一択となり、踏ん切りは付いた。加えて彼らからすればオレスの方が与しやすいため、前向きに捉えられる。
「ネイマートルに関してはシフトも上手く嵌ってるし、向こうもどうしたら良いか分からなくなっていると思う。だから皆で油断せず、自信を持って守ろう。ここを切り抜ければきっと勝てるよ!」
「おー!」
最後の一言に有村が力を込め、他の選手はそれに乗せられて声を上げる。鯖江戸ナインの意気が揚がる一方、ネクストバッターズサークル付近には、鬼気迫る表情で黙々と素振りを繰り返すオレスの姿があった。
(鯖江戸はまた同じシフトを敷いてくる。でも私には突破する方法は思いついていない。どうする……?)
持ち前の技は封じられている。力で対抗するにも分が悪い。オレスは八方塞がりの状況で打席に臨まざるを得ない。
「ちゃんオレ、ちょっとちょっと。……ちょっとってば!」
そこへ次の打者としてベンチ前で待機していたゆりが、囁くような声色でオレスを呼ぶ。オレスは最初こそ気付かない振りをしたものの、ゆりの執拗な呼び掛けに痺れを切らす。
「何よ、気が散るわね。こっちは集中したいんだけど」
「だってさ、ちゃんオレ全然怖い顔が直らないんだもん。ずっと追い込まれてる感じ。チャンスなんだからさ、もっともっとワクワクしないと」
ゆりは肩を揺らして愉快気な雰囲気を表現する。しかしオレスの視線は冷ややかだ。
「ふざけたこと言わないで。チームの勝敗が掛かってるのよ。貴方みたいにヘラヘラして打席に立てるわけないでしょ」
「別にヘラヘラなんてしてないよお。変な力が入らないように適度に緩めてるだけ。ちゃんオレもある程度リラックスしてないと、飛ぶ打球も飛ばなくなっちゃうよ。せっかくレフトが前に出てきてるんだから、それを越える打球を打っちゃえ!」
左拳を握り締めてはにかむゆり。ただオレスは彼女のエールを素直に受け取れず、突っ返そうとする。
「それができたら苦労しないわよ。人の気も知らないで……」
「いやいや、ちゃんオレならできると思ってるからそう言ってるんだよ」
ゆりがオレスの言葉を遮る。ひょうきん者の笑みは一瞬にして消え、どっしりと据えた目をオレスに向けていた。初めて見せるような表情を前に、オレスの瞳孔が開く。
「それはあんたが勝手に思ってるだけじゃない。私はそういうタイプの選手じゃないのよ。そもそも長打が打てないから、今の技術を磨いたの」
オレスは咄嗟に反論する。いつも強気な彼女からこのような発言が出てしまうのは、相当追い詰められている証拠だ。
けれどもゆりは引き下がらない。自分たちの四番が弱気になっているのに、引き下がるわけにはいかない。
「でもそれは昔の話じゃん。今だったらどうなるか分かんないでしょ」
普段から押しの強いゆりではあるが、今は陽気さが抜け、口調には切迫感がある。そのまま彼女は更に言葉を連ねる。
「ちゃんオレにどんな過去があったかは私には分からない。辛い思いしてきたってというのをちょっと聞いたことがあるだけ。だからそれに関して何か言えるわけじゃない。……でもね、一つだけ断言できることがあるよ。私たちと初めて会った時のちゃんオレと、今のちゃんオレは違うって。今の方がずっと活き活きして野球をやってる」
ゆりは真剣な顔付きを崩し、今度は柔和に微笑む。これもあまり見たことのない表情だ。
「だからこれまでできなかったことでも、今だったらできることがあると思うんだ。ちゃんオレに自分で限界を決めてほしくない。だって私、ちゃんオレに限界なんて無いと思ってるもん!」
そう言い終えたゆりは、最後に思い切り白い歯を見せる。彼女の檄はオレスの胸に刺さったのか。唖然とした様子で話を聞いていたオレスは、徐に口を開いてゆりに何かを言おうとする。しかし唐突に響いたアナウンスがそれを遮った。
《バッターは、四番サード、ネイマートルさん》
鯖江戸のタイムが解け、試合が再開。オレスは結局何も言うことなくゆりに背を向け、考え事をしているかのようにゆったりと打席へ歩いていく。対するゆりは彼女に聞こえない声で小さく呟く。
「……頼んだよ。オレス・ネイマートル」
二塁ランナーが還れば同点、一塁ランナーが還れば逆転の場面で迎えるオレスの第三打席。鯖江戸は例の如く彼女専用のシフトを敷いている。これをオレスが破るか、それとも三度阻まれるのか。
See you next base……