前日
童話喫茶――もとい不思議の国のアリス喫茶は、雨天だと厳しい。天気予報を見る度に晴れることを祈っていたけれど、天津ヶ丘高校の文化祭前日、明日の降水確率は0%、そして今日も見事な晴天に恵まれた。
「机と椅子はこの図の通り設置して! あ、あとカウンターの設置は――!」
私は中庭で、指示表を手に中庭の中央を指差した。文化祭前日である今日は、授業は無く、一時間目から六時間目まで、ホームルーム扱い。文化祭の準備に充てられている。
だいちゃん先生も大工仕事を手伝ってくれて、中庭から見える校舎や校庭では、ダンボールやペンキ、看板や金槌などを持った生徒が慌ただしく駆けていた。外にはいくつもテントが設置されているし、壁には部活動や同好会のポスター、ほかには隣のクラスがやる劇の宣伝ポスターが貼られていて、いつも通っている学校のはずなのに、なんだかいつもとは違う場所に来た気持ちになる。
けれど、文化祭が始まるなぁなんて呑気に思うことは出来ない。椅子や机の設置が終わったら飾り付けだし、ドリンクの在庫を確認もあるし、やることは尽きない。
「園村さん、次何やればいい?」
「演劇部から届いた衣装の確認してもらっても良い?」
金槌を持って腕まくりをした和田さんと吉沢さんに尋ねられ、私は机に置いていたダンボールを指した。一昨日、演劇部の人たちに縫ってもらった衣装が無事届いた。一応さっと確認したら、まるでお店とか、本物の舞台で役者さんが着るような衣装が出来上がっていて、その時周りにいたクラスメイト達も感動していた。文化祭が終わったら改めてお礼を言わなきゃ……と思っている間にも、沖田くんが「園村ー!」と、声を上げた。
「なにー?」
「カウンターの机って5つだっけ?」
「6つだよ、あ、私取りに行くから、指示お願いしていい? 私ちょっと校舎で確認しなきゃいけないことがあるから!」
「ありがと、悪い!」
指示表を受け取った沖田くんは、「行くぞー!」と男子を引き連れながら駆けていき、私は逆走するみたいに校舎へ向かった。調理の最終確認をする為エプロン姿だったり、演劇の衣装を着ているらしい生徒とすれ違いながら廊下を抜けて辿り着いたのは、図書室だ。
図書室の机と椅子は、自由に借りられることになっている。でも、他のクラスが粗方借りてしまっていて、まるで空洞みたいになっていた。本棚だけが無造作に並んでいる書庫をいくつも通り過ぎて、私は卒業生のアルバムが並ぶ本棚の前に立つ。視線の隅に映るカーテンは、太陽光から本を守りながら、風を受けて靡いていた。
「えっと……私たちの代が63期だから……」
私は目的の卒業アルバムを探して、引き抜いた。大判サイズのそれを手にとった瞬間、ぶわりと埃が舞う。少し咳き込んで顔を上げると、引き抜いた本の隙間、棚の向こうに真木くんの姿があった。
「真木くん?」
「うあ……おさぼりばれちゃった……」
真木くんは目を丸くして、目に見えて「しまった!」という顔をした。アルバムを片手に彼の元へ向かえば、彼は「怒らないで……」と上目使いで見てくる。
「いつからここにいたの? 文化祭準備さぼっちゃ駄目だよ、それに真木くんこの間もふらふらしてロッカー閉じ込められちゃったりしてたんだから、休憩はいいけどちゃんと人の目につく場所にいて?」
「はあい……でも、めーちゃんはなんで図書室にきたの? それ、アルバムだよねぇ? めーちゃんもおさぼり?」
「おさぼりじゃないよ」
ただ……文化祭に関係は無いけど……。真木くんは首を傾げながら、私からアルバムを取った。「昔のだぁ……」と机に乗せて、ぺらぺらめくっている。
「めーちゃんさぁ……」
「うん?」
「文化祭、たのしみ?」
「うん。楽しみだよ。ほっとしたってのが大きいかもしれないけど……色々予算とか、あわあわすることも多かったし」
「ふぅん」
彼は唇を尖らせ、気怠そうにアルバムを眺めている。ぷくっと膨らんだ頬をつつくと、「破裂しちゃう」と物騒なツッコミが返ってきた。
「破裂しちゃうの?」
「うん。俺のめーちゃん大好きって気持ちも、そのうち破裂しちゃうから……受け止めてほしい……」
「私も真木くんのこと好きだよ」
「そーいうんじゃないのにぃ……」
非難混じりの声に、私は曖昧に笑って誤魔化す。私は、きちんと真木くんを守りたい。彼が自立するまで、昔のトラウマが癒えるまで。もう二度と危険な目に遭わせたくない。だから、確かめなくちゃいけない。
私はふわふわの猫っ毛がはねる頭を撫でながら、開かれたアルバムのあるページを見つめていた。
◇◇◇
文化祭の内装の準備は、最終下校時刻の一時間前――六時丁度に終わった。とはいえ、校舎にはまだまだ大勢の生徒がいて、下校時刻のタイムリミットに焦りながらも作業を進めている。もう外はだいぶ暗いけれど、廊下の照明は煌々としていて、壁もカラフルに装飾されているから、夜という感じがしない。動き回って汗をかいているからか、窓から吹き抜ける冷風が涼しくて心地いいくらいだ。
「えっと、当日の動きも大丈夫だし……当番は……」
机も椅子も無くなって、がらんどうになった教室のなかで、私はトイレに向かった真木くんを待っていた。ついでに明日の確認をしつつ、教室の戸締まりをしようとすると、カタン、と扉に何かがぶつかった音がした。振り返れば沖田くんがいて、「おう」と気不味そうに会釈をされた。
「電気ついてたから、誰かいるかと思ってたんだけど……園村がいたんだな」
「うん。真木くんがお手洗いに行きたいって言ってたから、待ってて……」
「そっか」
沖田くんは、暗い顔をしながら教室の真ん中まで歩いてきた。どこか表情も固いし、雰囲気もいつもと異なって見える。トラブルでもあったのか問いかけようとする前に、彼は口を開いた。
「園村は……文化祭委員、やりたくなかったかもしんないけど……俺、園村と文化祭委員やれて良かった。楽しかった」
「あ……えっと、こちらこそ……私も、文化祭委員、やれてよかったよ。和田さんとか、吉沢さんとか話したことない人とも、話できたし……」
なんとなく、気不味い。私は真木くんのリュックをとって、教室を後にしようと、一歩踏み出す。「さよなら」と扉に手をかけた――その時だった。
「俺、園村が好きだ」
聞こえてきた言葉が信じられなくて、振り返る。予想よりずっと近くに沖田くんがいて、心臓の動きがぎゅっと激しくなり、急速に体温が下がった。身体から温度という温度がすべて抜け落ちて、足先から冷えていく。
「……え?」
「園村は、真木しか見えてないことは分かってる。でも、俺、園村の優しいところとか、頑張り屋なところとか――すごいいいなって思ってて……俺のこと、見てほしい」
一歩、一歩と踏みしめるように、沖田くんが近づいてくる。彼は、クラスメイトだ。怖い人じゃない。それなのに、今この瞬間は別人の……怪物のように見えた。上履きが床を擦る音も、低い声も、引き締まった腕も、何もかもが怖い。
でも、彼は沖田くんだ。怖い人じゃない。ちゃんと返事をしなきゃ。逃げたら、駄目だ。
「ご、ごめん……わ、私は、だ、誰かと付き合うとか、考えてないから」
震える声を振り絞ると、沖田くんは泣きそうに顔を歪めた。彼は何も悪いことなんてしていないはずなのに、「悪い」と謝る。
「えっと、けじめつけたかったって言うか……困らせるつもりじゃなかったんだ。好きだって伝えなきゃ、後悔するかなって……こんなの、言い訳か」
「こちらこそ……本当に……ごめん」
「いや……」
沖田くんは、そのまま黙ってしまった。このまま沖田くんを教室に置き去りにしてしまっていいのだろうか。でも、私は沖田くんの気持ちに応えることはできない。
そして今、気持ちを受け取らないと伝えた側だ。かける言葉がない。その場から動くことも出来ず、手をかけた扉からも手を離せないでいると、彼は「真木のこと」と、重々しく口を開いた。
「好き……なんだよな。園村は」
「……」
「諦めたいから、教えてほしい。好きだよな、園村……真木のこと」
「好きだよ」
私は、真木くんのことが好きだ。でも、私は彼と釣り合わない。今の彼は生きることに不器用すぎて、奇跡的に彼と釣り合うべき女の子が、彼の周りにいないだけだ。そして、このまま彼が不器用なままであれば、ずっと一緒にいられるんじゃないかと思う瞬間が確かにある。
「告白しねえの? 真木、絶対オッケーするだろ」
「私が真木くんと付き合うのは、心の隙に付け入るようなものなんだよ。それに、私、汚いから」
汚い人間で、それを真木くんに知られたくない。付き合ったら最後、私はもしかしたら彼が不器用なままであることを望んで、そうするように仕向けてしまうかもしれない。
真木くんが誘拐されたのは、私があの日、彼を置き去りにして帰ってしまったからなのに。
「真木くんね、本当はハキハキ喋れるし、頭もすごくいいんだよ。でも、私が彼に酷いことして、真木くんは、今みたいに、失敗したり、すぐ寝るようになったんだ。だから、真木くんと付き合うのは、絶対私以外じゃないと」
「それって、おかしくね?」
沖田くんが、躊躇いがちに首を傾げた。「なんで?」と即座に問いかけると、「だって、選ぶのは真木じゃん」と、すぐに言葉を返された。
「お前らの昔のこと、俺よく分かんないけどさ、園村に酷いことされて、それでも一緒にいるって決めてるの真木だろ?」
「でも、それは真木くんのお世話をするのは、私しかいないから……」
「そうか? でも文化祭で、植木鉢貸してくれたりとか、衣装縫ってくれたりとか、結構面倒見いいやつ多くねえ? 俺もそうだし……和田とか吉沢とか、他の奴等も真木困ってたら全然手伝うし、でも真木って園村のとこ行くじゃん。真木は、自分で選んで園村のとこ行ってるんじゃねえの?」
「でも、それは……ずっと小さい頃から一緒だったから……」
「いくら小さい頃から一緒でも、嫌な奴とは一緒にいれないだろ。俺も小中とか一緒で、一切話さない奴とか普通にいるし」
沖田くんは、「だから」と、あやすみたいな声色で目を合わせてきた。
「園村が、なんか告白しづらいの、勇気でないとか、そういうのならいいんだけどさ、自分のこと汚いとか思ってるんだったら、告白していいと思う。つうか、自分が誰といて幸せか選ぶの真木だし、園村が勝手に真木の幸せ決めつけるのは良くないんじゃね」
「私が、真木くんの幸せを決めつける……?」
「おー。だってさ、園村と一緒にいて幸せかって決めるのは、真木なわけだろ? 真木は園村の所有物でも、園村自身でもないわけじゃん」
私が、真木くんの幸せを決めつけていたのだろうか。だって、今告白したら、私は真木くんをまるで洗脳しているみたいで――でも、そうだ。私はいつから、真木くんに告白したら絶対受け入れてもらえると思っていたのだろう。真木くんに好きだと言われてから? いや、その前にだって、私は真木くんと一緒にいられないと思っていた。
真木くんの気持ちを、勝手に決めつけていた。
「つうか、吉沢とか真木に突っ込んでたしな、夏前」
吉沢さんが、夏前に真木くんに? 私は思わず「いつ?」と聞き返した。
「園村がトイレ行ってる時。園村、すげえ真木の世話すんじゃん。で、吉沢が真木に言ったんだよ。赤ちゃんじゃないんだから自分の世話は自分でしろって、園村が可哀想だからって。そうしたら――」
「そうしたら?」
「めーちゃん……トイレ、終わったよ……」
真木くんが、手についた水滴をぶんぶん振り払いながらやってきた。私は慌ててハンカチを取り出して、彼の手を拭く。「廊下水浸しになっちゃうよ!」と怒れば、彼は「ごめんなさい……」としょんぼりした。
「ってことだから、園村が良ければ、ちゃんと気持ち伝えて欲しい。絶対、ハッピーエンドだと思うから。勿体ないし――俺も、吹っ切れるから、助かる」
そうして沖田くんは、「じゃあな!」と、風のように教室を出て、駆けていった。遠くの方で沖田くんを呼ぶ声と、彼の笑い声が聞こえてくる。反響するその音が遠ざかっていくのを見届けてから、私は真木くんに向き直った。