帰らぬ兄
「君の名前は?」
「興大……」
「興大くんか、お兄ちゃんお出かけしてる間、よく頑張ったね」
今日来て良かったか。炊飯器はすごい熱を持っていたし、二人は怪我をするところだった。人の家に、勝手に上がり込んでしまった形だけど……。流しに目を向けると、ご飯はまっ黒焦げになっていて、食べられそうもない。
真木くんとここで待ってもらって、コンビニで食べ物を買ってこようかと思うものの、ここに来るまでの間に見つけたお店は、駅に併設されている売店だけだった。
「お腹すいた……」
人のおうちで勝手に料理するのも良くないけれど、ののかちゃんも興大くんも明らかにお腹をすかせ、お腹をさすっていたり、視線がぎこちない。「何を作ろうとしてたの?」と問いかけると「カレー」と短く答えた。
「そのカレーさ、お姉ちゃん手伝っちゃ駄目かな?」
「え……? い、いいの?」
「もちろんだよ。一緒につくろう! すぐ出来るからね!」
安心してもらえるように言うと、彼らはやったあ! と顔を綻ばせた。
「真木くん、お願いがあるんだけど、ののかちゃんのこと見ててもらっていい?」
「いいよ……」
真木くんは、のんびりした様子でののかちゃんの前にしゃがんだ。「よろしく……」とぼんやりした様子で声をかけている。ひとまず、ご飯はもうだめだから、二人分のカレーリゾットを作ろう。バイトをして学校に来ていないみたいだから、今日沖田くんに会えなかったらそれを報告しよう。
私は腕まくりをしながら、興大くんと一緒に台所へ向かったのだった。
◆◆◆
「ののかちゃん。出来たよ……え?」
電子レンジで玉ねぎや人参、じゃがいもを加熱して、大慌てで作ったカレーリゾットを盛り付け振り返ると、視界に入ったのはうつ伏せになって呻く真木くんと、「えいえい!」と楽しそうに彼に乗るののかちゃんの姿があった。
バイクごっこをしているみたいだけど、年齢差があるはずなのに真木くんがいじめられているように見えてしまう。
「わーい! カレーだ! カレー!」
ののかちゃんはカレーを見た瞬間嬉しそうに真木くんから飛び降りた。「ぐえ」とカエルが潰れたみたな声で真木くんが呻く。
「真木くん、大丈夫……?」
「いじめられた……子供怖い……」
「えぇ……」
とりあえず、部屋の真ん中にあるテーブルに、ののかちゃんと興大くん、二人の為に作ったカレーリゾットを並べた。「どうぞ」と促すと、二人は「いただきます!」と声を揃えて食べ始める。
入ったときは、白い煙に包まれてよく分からなかったけど、部屋は二部屋、幼稚園の制服や作業着、そして沖田くんのものらしい制服がかかっているけれど、大人の服は全く見られない。壁には小さい子が描いた絵が飾られているけれど、そこに描かれているのは四人だけだ。多分、兄弟たちを描いているのだろう。
親御さんは、亡くなっている? でも、仏壇もそれらしい写真もない。どことなく目の前の家族に違和感を抱いていると、部屋の鍵が開く音がした。すぐにどたどたとけたたましい足音が近づいてくる。
「わりい、残業入っちゃって、ごめんな! 今夕食作るから――って、園村? 真木? 何でここに……」
「だいちゃん先生にお願いされて……、それで、その、炊飯器が黒焦げになってお腹すいたってののかちゃんが泣いてて、夕ご飯……勝手に作っちゃったんだ。ごめん……」
沖田くんはちらりと台所をのぞいて、いまだ洗っても焦げの取れない釜を見る。すると興大くんが「ごめんなさい。ご飯、焦げちゃって……」と俯いた。
「兄ちゃんこそごめんな。帰るの遅くなって……幼稚園午前で終わって、昼もパンだけだったもんな。園村も真木もありがとう」
「ううん。元気そうで良かった」
沖田くんは荷物を下ろし、洗濯かごに制服を入れ、さらに溜まっているらしい洗濯物も洗濯機に入れ始めた。冷蔵庫には手提げバッグを作る締切みたいなものも書かれていて、彼の生活が切羽詰まったものであることが分かる。
沖田くんが、私のお母さんが警察関係者で、沖田くんのお兄さんを捕まえた側の人ではあるし、彼にとっては敵かも知れないけど、この部屋を見ているとあまりに大変そうで、私は彼のお兄さんについて切り出した。
「沖田くん、絶対今、大丈夫な状態じゃないよね……? お兄さ……」
「その話するなら、ベランダでいい? 弟たちには、まだ話ししてないんだ。仕事で忙しくなって、泊まりって言ってるから……」
苦々しい声で制止され、私は慌てて口を噤んだ。私は真木くんに二人を見てもらうようお願いして、沖田くんとベランダに出た。
◇◇◇
「実はさ、俺らの両親もうずっと前に死んでるんだよね」
ベランダに出て、沖田くんは外側から窓を閉めた。完全に日が暮れて冷えた寒空に喉が詰まる。震える手を隠しながら、私は彼に顔を向けた。
「え……じゃあ、もうずっとここでお兄さんとかと暮らしてたの……?」
「うん。親戚とかさ、じいちゃんばあちゃんとかも、頼れる感じじゃなくて」
頼れる感じじゃない。それは、もしかして虐待とか、そういうのでは……。不安げな顔をした私を見て、なにを考えたのか分かったらしい沖田くんは、「あっちは俺らのこと、育てる気まんまんだよ」と、首を横に振った。
「ただ、なんつうか……、俺らはあっちで生活するの、きついんだ。園村……刑事さんたちと親しかったよな? だからもう知ってるんだろうけど、宗教で、うち」
お母さんから、そんな話は聞いてない。それにお母さんが知っていても、絶対に言わないだろう。でも、きっと話し辛かったことだろうと、私は彼の言葉を否定できなかった。彼はそのまま、相槌を必要とせず話を続ける。
「あっちは、家は兄貴に継がせたい感じだった。でもあいつ、高校卒業したら姿眩まして……そのまま二年くらいいなくて。去年突然戻ってきたんだ。それで、家に何言ったか分かんないけど、勝手に俺らを引っ越しさせて……」
「それは、沖田くんたちを守るために?」
「分かんねえ。あいつ、何も言わない。全然家にいないし、金だけ渡してきて、かと思えばまた家出てってしてて……前と全然目つき違うし……」
沖田くんを取り巻く環境は、およそ一人で受け止めるべき状況ではない。絶対に、大人が必要だ。でも、彼に一番近い大人は今、逮捕されている。そして他に頼れそうな大人の選択肢が彼にはない。
過酷すぎる状況に、私は何も言えなくなった。彼を大変だと思う。でも、その痛みを代わってあげることは出来ないし、ヒーローみたいに劇的に助けられるわけでもないのに、安易な言葉を紡ぐのは無責任だ。ただ自分が心配したという証拠が欲しいだけな気がして、何も言えない。