今からあなたはただの女子生徒A
私、佐瀬巴は、息を切らしながら教室に駆け込んだ。
授業に遅刻しそうだから、とかではない。
ただあの光景から、逃げ出したかったからだ。
あの光景というのは、雪乃が紫藤先生に告白されていたところ。
静かに立ち去ろうとしたけれど、鈍臭い私は物音を立ててしまった。
それで、二人に気づかれてしまい、私はその場を飛び出すしかなかったのだった。
それで、足が動くままにやって来たのが、自分の教室だったのである。
私は引き戸を閉めて、肩で息をしながらその場にへたりこんだ。
何やってるんだろう、私。
紫藤先生が、雪乃のことを好きだったなんて、知らなかった。
どちらかと言えば愛想の悪い態度を取っていたし、挨拶も向こうからされたらする、くらいの雪乃が。どうして。
私はカバンからメイクポーチを取り出した。
コンパクトミラーを見ると、メイクがぼろぼろになっている。
マスカラは溢れ落ちて頬に付き、アイラインは滲み、チークもぼやけていた。
「なっさけない…」
私はミラーを閉じて、ぼそりと呟いた。
どうやってこれから雪乃と接していけばよいのだろう。
雪乃とはずっと仲が良くて、楽しいときもつらいときも、いつも私のそばにいてくれた。
そんな雪乃に、あたったりすることなんかしたくない。
けれど、今までどおり接することもできそうにない。
私は頭を抱えた。
「あーもー…」
しかも、私の勘のとおり、雪乃は私のことが好きだった。
自分のことを好きではない人に、これまでどおり友達として接せられるのも、雪乃にとっては苦痛だろう。
紫藤先生の顔も、もう見たくない。
雪乃の顔も、見たくない。
もう、消えてしまいたい。
「なんで、なんで雪乃は私を…」
ぽつりと呟いたときだった。
扉越しに、誰かが走ってくる気配を感じ取る。
そして、その気配は、この教室の引き戸の前で止まった。
「…巴?」
若干息を切らしながら発せられたその声は、紛れもなく雪乃の声だった。
私は何と返せばよいかわからず、見えるはずもないのに頷いた。
すると、雪乃は扉によりかかってきた。
「ねえ巴、さっきは、そのー…」
「もういいの。…雪乃のこと、好きだったんだね、紫藤先生」
私の口から、乾いた笑いが漏れる。
元気そうなふりをしたけれど、情けないくらいだめだめだった。
「ねえ、どうして雪乃なのかな。私、こんなに紫藤先生のこと想ってるのに。なんで、なんで…なんで雪乃なの…?」
「っ、巴…それは…」
「ごめん。こんなこと言っても、しかたないよね。だって紫藤先生は雪乃が好きなんだからさ…はは、あほくさ…ひとりで舞い上がってて、ばかみたい…」
言いながら、また涙が溢れてきた。
制服の裾で涙を拭い、私は泣きながら笑っている。
背後で雪乃が動揺する気配がした。
「そんな、巴はただ…紫藤、先生のこと…好きだったのが悪いわけじゃないよ…。巴は、普通の恋をしていた、それだけだよ」
「ーーー普通の、恋?」
「うん。男女の、普通の恋」
雪乃が、自嘲気味に鼻で笑ったのがわかった。
ああ、そうだ。雪乃は、私のことが好きなのだった。
同じ女子である、私のことをーーー。
私は、その場から立ち上がった。
私は取れかけたマスカラを取り除いてから、引き戸を開ける。
そこには、雪乃が立っていた。
まっすぐにこちらを見つめ、しっかりとした足取りで立っている。
肩を震わせる私とは、大違いだった。
その瞬間、私の瞳から涙が一筋、流れ落ちた。
「っ、雪乃!」
私は、雪乃の胸元に飛びついた。
その勢いで、雪乃はバランスを崩してもんどり打って倒れる。
それにも構わず、私は雪乃に泣きついていた。
「なんでだよお!なんで雪乃なんだよお!!なんで、なんで好きでもない雪乃なんだよお!!!」
私は、雪乃の首根っこを掴みながら叫んだ。
雪乃はただされるがままで、何もしようとはしてこなかった。
私が揺さぶるのを止めると、雪乃は私をそっと押しのけて、ゆっくり立ち上がった。
私が呆然としていると、雪乃は制服に付いた埃をはたきながら言う。
「そんなこと言われても、私は知らない」
「じゃあ、私を愛して…」
「友達としてしか思ってない私に愛されて、巴はそれで幸せなの?」
雪乃はよく通る声で言った。
私はあまりのことに、言葉を発することができないでいる。
さっきの紫藤先生に対する怒りよりも、相当重く暗い怒りだったからだ。
「だって、巴は紫藤が好きなんでしょ!?だったらそのままあいつを想い続けていればいい!私に愛される必要なんかない!私が巴を愛してやる義務もない!!」
「っ…だったら、だったら私はどうすればいいの!紫藤先生は雪乃のことが好き、雪乃は私が好き、でも愛してくれない!じゃあ私は、誰に愛してもらえるの!!!!」
「そんなの知らないよ!私は巴のこと、ずっとひとりの女の子として見てた…巴はそれに気づいてたのに、私の想いに応えてくれなかった!だから私が巴の想いに応える必要なんかない!!」
私たちは、額と額をこすりつけ合うかのような距離で言い争った。
確かに雪乃の言うとおり、私は彼女の想いにずっと気づかないふりをしていた。
この何年間も、ずっと。
だって、この尊い友情を、傷つけたり壊したりしたくなかったから。
けれどそれは、結果的に雪乃の心を深く傷つけていたのである。
私は雪乃のネクタイを引っ掴んで言った。
「もういい!私は雪乃が嫌い、大っ嫌い!!」
「私だって、あんたみたいな自分勝手な人間、好きにならなきゃよかった!」
私は雪乃のネクタイを離して、彼女を思いきり突き飛ばした。
雪乃はどたんと床に倒れ込み、私を鋭い瞳で見上げている。
さっき、紫藤先生を見ていたときと同じ瞳で。
雪乃が俯いて、はあ、とため息をつく。
髪の毛をかき上げてから、彼女はゆっくり立ち上がり、こう言った。
「じゃあ私たち、友達やめよう」
「友達どころか、もう関わらないでくれる」
「あ、そ。いいよ、じゃあそういうことだから」
そう言い残すと、雪乃は廊下の奥へと消えていった。
私はその姿を、ぼんやりと見ているしかなかった。
追いかけることもできた。けれど、それは何だか違う気がして、やめた。
神田雪乃、私の大切な親友だった人。
今からあなたは、ただの女子生徒A。
私はカバンを背負い直し、雪乃とは反対の方向へ歩いていった。