ふたり、夢いくつ
十年前の屋上で「チャットモンチーで一番シコれるのはベースの子だ」と熱弁したら、「キモいんだよ、死ね」とコーヒー牛乳を頭からぶちまけてくれた悠里が先日死んだ。
悠里が住んでいたのは広島だったから、死に際にもお通夜にも行けなかったし、なんなら死んだという事実を知ったのは今更のことだった。
彼女のFacebookには遺族を名乗る人物からの投稿があり、闘病を続けていたがその甲斐虚しくといった内容の文が並べられていた。
「おい、コーヒー牛乳美味しいか? 普通はな、チャットモンチーはボーカルでシコるんだよ。変態さんめ」
太陽に当てられて余計に髪が金色に透き通る悠里は、ポケットティッシュを無造作に俺の顔に投げつけて、ひとり屋上を後にした。
一枚ずつなんて悠長なことは言ってられなかったので、ばさばさとティッシュを出して水気のある場所に押し付ける。
しかし染み込ませても染み込ませても、髪と顔から粘りと匂いがとれないと気づいたころには、午後の授業のチャイムが鳴っていた。
「はい、ゲームオーバー」
全てのやる気を失って大の字になる。
このまま、夕方までここにいればいい。そう思った矢先に、排気ガスたっぷりの風といちごシロップみたいな香水が鼻を撫ぜた。
「ゲームを勝手に終わらせるな」
またあの金髪が視界を覆っている。
「授業サボってんじゃねーよ」
「サボらせるような状況にしたのはそっちだ」
言って視線を逸らすと、お腹に温かい感触と重量感が襲ってきた。悠里は華奢だが、さすがに帰宅部には堪える重さだ。
「今日も授業サボってんじゃねぇって言ってんの、お前に夢はないのかよ」
スカートの間から見てはいけないものが見えそうな気がして、そのときの悠里の表情は窺い知ることができなかった。
「ねぇよ、んなもん」
すこし突き飛ばすような言い方になってしまったかもしれない。
悠里はそれから黙りこくって、
「じゃあさ、学校の先生になってよ」
そう答えた。
「なんでだよ」
彼女の真意を知ろうとして、身体を起き上がらせる。きゃっと甲高い声が響いて、たちまち悠里は尻もちをつく。
悠里のそれは水色をしていて、かなりエロいと思いはしたが、
「死ね、変態」
俺の視界は間髪入れずにブラックアウトした。
あの、鷹岡先生で、合ってますか?
「ん、あぁ、合ってる合ってる。今何時?」
夕方の、4時半ですけど。
「起こしてくれて、ありがとね」
背中についた汚れをパタパタ落としながら、彼女を見やる。
飾り気のない化粧に、前の学校そのままのスカートは膝まで長い。
「美里ちゃんは、なんでここに転入しようと思ったの」
「知ってるんですか、私のこと」
「あいつほど妹思いの姉はいないから」
けれど切れ長の目はそっくりだし、いつかの写真よりもずいぶん大人っぽくなっていた。
筒抜けだったんですね、と一息ついてから、
「お姉ちゃんが、言ってました。数学の教え方が上手いって。バカの私にもわかりやく教えてくれたって」
「それだけで東京にきたの?」
「お姉ちゃんと一緒に暮らしてたんで、身寄りがこっちにしかなくなっちゃって」
「悪いことを訊いたね」
「いえ、気にしないでください。それよりも授業受けるのが楽しみなんです」
「勉強はすきなの?」
「きらいですけど」
「あはは、だろうね」
「でも、お姉ちゃんが『やっとあいつが先生になった』って喜んでたから」
「この前電話したときはそうでもなかったけどな」
「ただの照れ隠しです。それは先生が一番わかっているんじゃないですか?」
すると、彼女はポケットから一切れのメモをこちらに手渡してきた。
「これは?」
「お姉ちゃんからのメッセージです。亡くなる前日に『渡してほしい』って」
大きく息を吸った。
あのときと同じ、排気ガス混じりの風がふと鼻先をかすめていく。
定期券サイズのメモをゆっくり開く。
よれよれで波打った文字が目に入った。
「ずっと、ずっと待ちわびてた。
私の夢を叶えてくれて、ありがとう」。
そこにないはずの甘ったるい、いちごシロップのような香水がつんと香った。