テレビに話しかける
副題 『 おばあちゃんと私と時々ゴリラとセバスチャン 』
あまりに淋しかったからか、『おばあちゃん』はテレビに話しかけるようになっていた。
朝の今、家には三喜と専業主婦の母親がいた。先に父親は会社へ仕事に行き夜遅くまで帰っては来ないらしい。祖父は去年に亡くなったばかりだった。
閑散とした振興住宅地の一角に住んでいた。三喜は中学生だけれど成績も生活態度にも問題はなく。父親の仕事は順調、母親も今度お隣のおばちゃんとロイヤルな喫茶店にでもお茶に行きましょうよオホホホホと電話口で騒いでいたほど元気で平和だった。
「行ってきまーす」
三喜が玄関から鞄を持って飛び出すと、庭先から居間が覗き見えた。
おばあちゃんがテレビを観ている。畳の上、座布団の上にチョコンと正座して。
家のなかでは一番古いテレビだった……いや、もうかなりの年数が経っている。地上アナログテレビジョン放送が停波される前に爆発して壊れてしまうかもしれない。
それよりも気になるのは。
「そげんか事を言いなさるなよぉ」
と、明らかにテレビに向かって話しかけている事だった。
テレビの中では陽気な若手のリポーターが何処かの町か村へ。朝ご飯でも頂きに巡っているのだろうかと見えた。
三喜はそんなおばあちゃんを尻目に門口から出る。さあこれから学校だ、と。
気にしてないようでも、気にしていた。
三喜は、登校する前に常に思う。いつも見かけるたびにテレビを相手に一方的に話しかけているおばあちゃんの事を。どうして、話しかけるのかを。何故かは知らない。
(そういえば……)
横断歩道の信号待ちで。三喜はトントン、と片足で地面を蹴りリズムをとりながら、道ゆく人の行き交いや車の往来を眺めて物思いにふけっていた。あまり周囲に建物がない中途半端な田舎は、道路工事も目立って見える。
何処からかパンを焦がしたようなにおいがした。
(ずっと前、動物園の飼育員の人が……檻の中で淋しがっているゴリラのためにテレビ置いてあげたって話があったなぁ……)
テレビ繋がりで、三喜の頭の中に。過去記憶格納庫からゴリラが引っ張り出されてきた。三喜は今ゴリラに支配されている。ひとりぼっちのゴリラ、品格はわからない。
そしてゴリラは段々とおばあちゃんに。意外と似ていた。
三喜は思う。
私もたまにお相手をするけど、おばあちゃんはテレビの方が面白いのかな。私は外へ遊びに行ったり買い物したり。友達としゃべっていた方が面白いんだけどなあ……と。
途中、三喜が描くイメージの中のゴリラは。やっぱりおばあちゃんになってしまっていた。
三喜が本日も無事に学校で授業を終え家に帰ってくると。
やはり居間でおばあちゃんは朝と同じく、テレビに向かっていた。畳の上の座布団の位置といい、正座しているおばあちゃんといい、そばの湯のみといい。朝と何ら変わりがなかった。
ひょっとして時間が止まっていたのかもしれない。まさかここだけが閉ざされた宇宙なのかもしれない……三喜は、朝の光景と思い出し比べて間違い探しでもしてみようかという衝動に一瞬駆られた。一瞬だけだ。
三喜が台所に行ってジュースでも飲もうと場を離れようとした、その時。
「三喜……」
と、ゴリ……ではない、おばあちゃんが三喜を呼んだ。
「え? 何、おばあちゃん」
三喜を呼んだはずだが、振り返ってはいない。向こう、即ちテレビの方に向いたままだった。
「おばあちゃん……?」
背中から声を発したのだろうかと三喜は疑った。お・ばあちゃん、こっち向いてと懐かしい谷の妖精の歌が想像で聞こえてくる。さておき。
「おばあちゃんってば!」
人と話をする時は、ちゃんと相手の方を見なさいという勢いで。三喜はテレビに近づいた。
テレビは言った。
『今から出すクイズを解いて、ハガキかインターネットでご応募下さい! 正解者の中から抽選で3名の方に。おばあちゃんの 魂が入った袋 をプレゼント!』
三喜はおばあちゃんの肩を揺すった。反応がない。
問題が出された。
『“単連結な3次元閑多様体は、3次元球面Sの3乗に同相である”事を証明せよ!』
問題を解く前に。問題の意味すらわからなかった三喜。それよりもだ。
「おばあちゃあん!」
揺すっても揺すっても、何の返答もなかった。テレビを一点、見つめるだけ。
おばあちゃんは固まってしまって動かない。完全に停止していた。
『奮ってご応募下さ〜い』
番組の終いに元気なコメンテーターが愛想を投げかけ手を振っていた。
「たたたた大変!」
おばあちゃんの魂が抜けてしまったらしい。
「ははあ。それは“ポアンカレ予想”ってやつだな」
と、お隣に住んでいる高校生、順は物理の本を読む手を止めて食卓で言った。順の両親は共働きなため、夕食はいつも一人で食べている。座椅子に身を預けながら、三喜が駆け込んで来た時には、テーブルの上の。母親が用意してくれていた煮転がしやハム肉を箸で摘んでいた。
「何なのそれ」
三喜のうろ覚えな単語からそう導き出された言葉。三喜は首を65度くらい傾けた。
「約100年間、数学史上誰も解けなかった超難問。例えばだなぁ……」
順は、器の中から里芋を箸で一つ摘み上げた。しょうゆと本みりん風味で刻んだ青ねぎが振りかけられていたそれは、丸く土のような色をしている。
「この丸い里芋が地球だとしよう」
突飛な事を言い出す順に「はぁ……地球」とため息をつく三喜だった。
「三喜は、この里芋地球が丸いって事がわかるよな? 外から見てんだからな。でもどうだろう。こいつからしたら自分が丸いのかドーナツみたいに穴でも開いてんのか。中からじゃわからんわけだ」
三喜のお腹が鳴る。夕飯はまだである。目の前の地球が美味しそうだった。
「もしこれに繋がった紐か輪ゴムでも括りつけておいて。一点で手繰りよせてみるんだ。もし絡まらずスムーズに全部回収できたなら、こいつは丸い形をしているだろう――これがポアンカレさんの予想。こんな風に外から見もせずに中から里芋地球、もしくは宇宙の形を知ろうってわけだな。三喜は宇宙がどんな形をしているか知りたくない? ああそう」
もはや眠そうな三喜の顔に返事を期待していなかった順は、さっさと話を進めた。
「2000年にアメリカで発表された、『ミレニアム問題』のうちの一つだ。解けたら懸賞金がもらえるぞ」
順はそこまで言って箸を進めた。三喜は『懸賞金』と聞き、ハッと覚醒した。
「じ、実は……」
ここでやっと、三喜はおばあちゃんの事を話す。
順は黙って聞いていたが、三喜が話し終えると「ううーん」と唸って難しい顔をしてしまった。何処からツッコんでいいのかがわかりかねる顔を。ゴリラなのか、カバなのか、三喜は天然ボケなのか。
仕方ないかといった風に頭を掻く。順は三喜に聞いた。
「とりあえず……おばあちゃんはどうした?」
「部屋で眠ってるの……安らかに」
「すぐに病院へ連れていけ」
おばあちゃんのピンチは続く。
三喜は順に言われた通りに救急車を呼んだ。病院へと運ばれて以来、ずっと原因不明で意識が昏睡の状態が続いている。もしこのまま目を覚まさなかったなら……それを思うと、三喜の表情は沈んでいった。
「……おばあちゃん」
三喜は、おばあちゃん子だった。昔からよくおもちゃやお菓子を買ってもらって母に嘆かれながらも はしゃいで喜んでいた。三喜の飛び跳ねる様子をとても優しい顔で見ていたのを覚えている。
だからだ。テレビに話しかけるおばあちゃんに敏感になったのは。三喜も、淋しかったのだ。
三喜自身はこの事に気がついてはいない。気がついては、いないけれども。
おばあちゃんの魂が奪われたと思い込んでいた三喜は、学校帰りに小遣いをはたいてハガキを100枚買ってきた。そう、抽選で3名様の枠を得るために。何としても。
そしてその足で順の家の部屋へとまたまた駆け込んだ。
「ポアンなカレー……どれだー」
と、ズラリと並ぶ科学関係の本の背を指で追う。応募するにはまず問題を解かなければならなかった。三喜は後ろで椅子に反対を向いて座っている順の視線も気にせず、一心に本棚を物色していた。何冊かを手にとってウンウンと唸っている。
「あのさぁ、三喜」
退屈な顔をしながら、背もたれに体をもたれかけて話かける順。
「なあに? 順兄」
漏らした声は冷ややかなものだった。
「言ったろう。懸賞金がかけられてるって。かけられてしまうほどの超難問なんだっての。学者や一般人でも解くのは無理だし、お前の頭じゃ無理より無謀だ」
ああ尤もな意見だった。障壁は幾つでも三喜に襲いかかってくる。
三喜は棚に飾ってあった野球ボールを豪速にとって順に投げつけた。三喜の小さな反撃だった。許してあげてほしい。
――それじゃ、どうすればいいのよ!?
居間のテーブルの上で。100枚にも積まれていたハガキの山を前に項垂れた。
絶望するにはまだ早かった。イチかバチか。
三喜は、まるで人が変わったかのように。科学の本を読みあさる。
もう時間がない。応募の締め切りは、刻一刻と迫っている。おばあちゃんは全く目を覚ます気配はないし、三喜は不安を払拭するためにもペンをとる。
何とかハガキに答えをつづる。
当てずっぽうでもいいから答えを書く。
宇宙が丸でも四角でもセバスチャンでもよかった。里芋でも別に構わない。愉快だ、それも。そう思え。
おばあちゃんが助かるのなら……三喜の願いだった。
……
数日が平坦に過ぎた。
家から一番近くにあるポストの前。三喜は、ハガキの最後の一枚を投函した。
ポストに入れてしばらく感慨無量に陥っていた後、天を仰ぐ。「……」
後は神頼みだと、三喜は祈るしかなかった。
果たして。三喜の祈りは届き叶えられるのか。期待よりも恐怖に近い心地をしている三喜。
いよいよ、当選発表の時間である。
三喜と順は、三喜の家の居間に集まってテレビに釘付けになっていた。
テレビの中でクイズ番組の司会者は独特の声色で張り切っている。
『前回のクイズ当選者3名は、こちらで〜す!』
ダダダダダダ……
打楽器の効果音が演出に走る。勿体ぶってないで早く言えと三喜および順は司会者をせっついていた。それではと、当選者は一人ずつ名前を読みあげられる。
まずは一人。違った。
次の一人。違う、三喜ではない。
ついでに言うと日本人でもないセバスチャンだったのだが。最後の一人は――
(お願い!)
固く目を瞑り身を縮こませて。三喜は奇跡にかけた。
だが無茶は無茶だったのだ。所詮、今まで科学など関心のかの字もなかった三喜の付け焼刃的な知識から得た解答など、通るはずもない。じっくりと年月をかけて結果を得てきた学者達の努力にはとても、超えられるわけはないのだ。
三喜ではない、別の名前が呼ばれた……。
「そんな……」
三喜は絶望する。もう終わりだとさえ思った。
おばあちゃんは目を覚まさない。きっと……永遠に。三喜の目から涙が出そうになる。
しかし。
「あ、当たった」
明るく平和な声が三喜の隣から聞こえた。順である。
「ええ?」
当然、聞き返す。テレビ画面下のテロップを確認する。
確かに。順のフルネームが書かれているではないか。
三喜は歓喜か驚愕か。すっ飛んだ大声をあげている。「きえええええ!」
当てた当の本人は頭をポリポリと掻きながら照れている。
「まさか当たるとは。インターネットで応募しといたんだけど」
……
ポアンカレ予想とは、1904年にフランスの学者によって予想された問題。そして。約100年間に渡り誰も解けずに数学史上7つの難問のうちの一つに数えられていた。
しかし2003年。ある天才数学者によって問題は華麗で優雅に解決される。
そしてそれを理解できるかどうかもまた難問。だがしかし問題は解決された。
インターネット上で解答は掲載されていたらしい。
なので。
順はそれを見つけてコピーアンドペーストをして応募しただけだった。僅か数分の努力。
嫌な感じである。
かくして数日経ったある日に。『おばあちゃんの魂が入った袋』が送られてきた。順は予め、三喜の家の住所を応募の際に記載しておいた。『おばあちゃんの……』別名、『おばあちゃんの知恵袋』の中には、たくさんの里芋が詰まっていた。
冊子が付属されていた。トゲが深く刺さった時は里芋のすりおろしたものや梅肉などをあてがっておくと翌朝にはトゲの頭が押し出されてくるんだとか、里芋湿布が打ち身や毒の吸出しに効くかもと。
里芋のアレコレが一緒になってやってきた。
おばあちゃんは意識を回復したと知らせが届く。大喜びな三喜の所へと退院して帰ってきたのだった。
そして、今日もテレビをつける。話をする。会話ではない。
――ねえ、おばあちゃん。テレビってそんなに面白い? おばあちゃん、こっちを向いて話をしないかな。だって。
テレビは返事をしてくれないよ? ――
「行ってきまーす!」
と、三喜は鞄を持っていつもの通りに家を出る。庭から居間とおばあちゃんを垣間見つつ。
玄関から小さい一歩を踏み出した時だった。
「行ってらっしゃい……」
窓を一枚隔てた向こうの居間から。
おばあちゃんの声がした。
《END》
ご読了ありがとうございました。