52、リハビリテーション
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「今日は理恵ちゃんは?」
「友達と出掛けた」
「道理で、すんなり誘いに乗ったわけだわ」
行きつけだと言う店でうな重に箸を付けながら、真津子さんは呆れた風に言った。
「俺がデートしても良いと思うのは理恵以外なら真津子さんだけだぜ?」
「おべんちゃら言って」
「良かった」
「え?」
「いつもこんな良いもん食べてるんなら長生きするね」
山椒の香りを纏ったうなぎはふっくらと焼き上げられ、いかにも美味そうだ。大きく掬って口に放り込む。
「うま……」
「いつもじゃありませんよ。気持ちが塞ぐ時とか、自分にご褒美を上げたい時とか、これからひと頑張りしたい時なんかにね……時々よ」
今朝、真津子さんから急に呼び出しの電話が入った。金曜日の夜からまた理恵の家に泊まっていた俺は『せいぜい祖母ちゃん孝行してきなさい』と理恵に追い出された。彼女は俺の職場の先輩でもある添田天音さんと観劇に出掛けると言う。
「ところで、何か用?」
「あら、用がなくちゃ孫を呼び出しちゃいけないの?」
つんとした顔でそう言う。
「……祖父ちゃんも大変だったな」
「え?」
「いや、別に」
素直じゃない女性に惚れてしまったご同類として、会う事が叶わなかった神崎の祖父を思う。甘え上手な女性ならただ一言『会いたかったから』と言うんだろう。
「大蔵祖父ちゃんてどんな人だった?」
「……何?」
「いや、会ったことないから。聞きたいなと思って」
「……強引で、自分勝手で……ま、優しくもあったけど……」
何だよ。モジモジし出して。
「私はこんな性格でしょ? お姑さんと上手く行かないこともあったけど、どんな時も常に私の味方をしてくれたわ。大輔と気まずくなった時も、あの子の側に立つことも出来たのに、そうはしなかった」
「泣くなよ」
「泣いてません! まったくもう……大輔はあの人とは正反対の真面目な性格だけど、大吾は性格もあの人に似てるわね」
嫌味の様に眉間に皺を寄せてそう言うが、それって嫌味になってない。
「ごめん。悪いけど、真津子さんとは結婚できない」
「そんなこと言ってません!」
泡食ってる。面白い。可愛いくて、きっと祖父ちゃんもこんな風にからかったりしたんだろう。
「何笑ってるのよ。そ、そんなことより、大吾は……大丈夫だったの?」
「は?」
「……父親が居なくて……辛い思いはしなかった?」
「……」
「聡美さんたちの前ではそんなこと言えないでしょ? 理恵ちゃんにもそんな弱音は吐けないだろうし……。でも私にはね、正直なところを聞かせて欲しいの」
祖母の真剣な眼差しは、自分を未だ責めている証拠だろう。
「……まあ、父親がいない事とか、母親が未婚の母だとか……とやかく言う人は居たには居たけど……」
そう言うと真津子さんは、小さく頷きながら傷ついたように唇をかみしめる。
「悔しいと思ったことは確かにあった。でも、寂しい思いはしてこなかったし、感謝してる」
「感謝?」
「頑張って働いてくれた母さんや、俺らを支えてくれた大江の祖父ちゃんに祖母ちゃん、それ以外にも沢山世話になった人たちがいる。父さんは居なかったけど、だからこそ出会えた人たちがいる」
理恵に出会えなかったとしたら、それは俺の人生にとって大損失だ。
「母さんも言ってたけど、俺たちはラッキーだった」
「……そう」
「困った思い込みで姿を消した母さんを、飽きもせずに探してくれていた父さんにも感謝してる。そんな父さんを産んで、育ててくれた真津子さんにも」
「……やめなさいよ。年寄を泣かせようとそういうこと言うのは……」
「ほら、肝吸いが冷めちゃうよ」
お椀の蓋は外されないままだ。
「嫌いなの。苦いから」
「そんな子供みたいなこと言って。おつゆだけでも飲めば?」
「見た目も嫌いなのよ……」
言いながらも素直に蓋を外して、けれども嫌そうに口をつける。
「大吾は嫌いなものはあるの?」
「……トマト」
「子供ね」
どっちが。
「でも理恵がトマト好きだから、克服する予定」
理恵にはもう克服したと嘘をついている。
「今度美味しいトマトジュースを送ったげるわ」
嬉しそうに……こういうとこ、理恵に似てる。
「大江のお父様はお元気?」
「まあ、ある意味元気かな」
毎週ご機嫌伺いにやってくる神崎のおじさ……父さんを、相変わらず怒鳴りつけているらしい。
「今日も来るとか言ってたな」
「言ってたわ。毎週土曜日に通ってるって」
生真面目だな。嫌味を言われに通うなんて。
「聡美さんは仕事なんでしょ?」
「うん。母さんが行ける時間に行けば良いのに、それだとどうしても母さんがかばっちゃうから……」
「から?」
「祖父ちゃんの気持ちを吐き出してもらう為かな? 自分一人で行きたいんだって」
「そう……」
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「実家を出て云々かんぬんと昔にハガキを寄越したクセに、今はちゃっかりと親の会社の社長に納まってるんだってな?」
「はあ……若輩者が申し訳ありません」
大江のお義父さんの前に小さくなって正座し、今日もご高説をありがたく拝聴している。
「……」
「なんだ京子その眼は、言いたいことがあるなら言え」
「いえ別に。そろそろ突っ込みどころが無くなってきたのか内容が言いがかりじみてきたなと……」
「なんだと?」
「お茶飲まないんですか? 冷めますよ。神崎さんもどうぞ」
「はあ……」
「こんな奴にお茶出すことなんかないんだ!」
「ついでですよ。二つ淹れるも三つ淹れるも同じじゃないですか。それよりもっと言う事あるんでしょ? アイツには言いたいことが山ほどあるって言ってたじゃないですか。私の事は気にしないで存分にどうぞ」
「も、勿論だ!」
相変わらず風当たりは強いが、最初に比べれば随分態度は軟化している。
殴られて以降、暫くは家にも上げてもらえなかった。
家の前でじっと待つ俺に、京子さんがこっそり教えてくれた。
『最近お父さん、夜中に聡美の名前を寝言で叫ぶの』
『え?』
『神崎さんが訪ねてくることで、聡美が居なくなった頃の夢を見るみたい……』
『……』
『昨日も夜中に飛び起きて……』
『暫く顔を見せない方が良いでしょうか?』
『う~ん……』
聡美が居なくなった頃のあの辛さを再度味合わせているなんて、思い至りもしなかった。俺が顔を出すことで聡美のご両親を不安にさせているなら、こんなに申し訳ない事はないと思った。
『あのね、神崎さん』
『はい』
『あなたも辛いとは思うんだけど、やっぱり諦めないで来て欲しいの』
申し訳ないが諦めるつもりは毛頭ない。
『人間生きていれば、誰しも辛い事はあるでしょ? だから誰だって、リハビリ中なのよ。聡美はもう居なくなったりしないんだって、神崎さんが来て、お父さんに納得させて欲しいの』
お義母さんの言葉に目頭が熱くなった。
実は自分自身も、未だに不安な夢を見る。どこを探しても聡美は居なくて、息も出来ずに街をさ迷い歩く夢。
『ホントはお父さんだって分かってるのよ。最後は許さない訳には行かないってこと。だから、大吾も私も、何も言わないの。「許してやって」とも「この頑固ジジイ」とも』
それは分かっていた。皆が俺の味方をしたら、お義父さんはいよいよ立場が無い。だから『お母さんや大吾に説得してもらおうか?』と言う聡美を止めたのだ。
「俺はそりゃ、不甲斐ない親父だったさ、でもな、聡美は学こそないかも知れないが上等な人間だ」
「はい」
「親バカだと笑うかもしれんが」
「いえ、その通りだと思います」
「優しくて思いやりがあって、ちょっと強情なところはあるが……俺にはもったいない娘だ」
「は……いえ。さすがお義父さんの娘さんです」
ヤバい、同意しちゃいけないところで同意しそうになった。
「京子だってな、聡美が居なくなって体重が10キロも減って……」
「そんなに減ってませんよ」
「強がるな。あの頃のお前、見てられなかったぞ」
「はい、見るたびやつれて行くお義母さんを見て、私も心配でなりませんでした」
「嘘つけ、心配してたなら、来るなと言われても来るだろ? なのにお前は姿を見せなくなって……」
俺が行くことで余計な心痛を与えていると思っての事だったが、逆だったか……。
京子さんが呆れたようにため息をついた。
『もう来ないでくれ』と言ったのは他でもないお義父さんだと言う事をちゃんと覚えているのだろう。
「来るなと言われてからも、この辺りには良く足を運んでいました」
「は、何とでも言えらあ」
「玄関の前に立って、聡美さんの明るい笑い声が聞こえてこないかと、迷惑ながら……亡霊の様に……」
働くようになってからも、営業の途中でしばしばこの辺りに寄り道した。近くの公園のベンチで、味気ないパンを齧りながら、彼女が通りかかる偶然を夢見た。
「何泣いてやがんだ! 男のクセにみっともない!」
「すみませ……」
慌ててハンカチで涙を拭った。いかん。あの頃を思い出すとすぐこの始末だ。
「ごめん下さいませ」
玄関の開く音と共に声がした。
「あれ、どなたかしら」
待てよ、あの声はまさか……。
京子さんが腰を浮かしかけたトコロに、大吾が姿を現した。
「ただいま」
「あら、大吾」
「ちょっとお客さん連れてきた」
「え?」
大吾の後ろから現れた人物は……
「お父様、お母様、神崎大輔の母・真津子でございます。ご無礼を承知でお邪魔致します」
突然の母の来訪に、お義父さんばかりか俺も一瞬のけぞった。
俺の隣に坐したかと思うと、任侠物の登場人物の様にキッと顔をお義父さんに向ける。
「この度は未練がましい愚息がご迷惑をおかけして申し訳ありません。只今、首根っこをひっ掴んで叩き出しますので、お待ちください」
「え……」
「母さん?」
叩き出す? 俺を?
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