49、おとといきやがれ
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「とっとと帰れ、誰が聡美をお前なんかにやるか!」
腹に堪える重低音で、聡美の父寛治はちゃぶ台をひっくり返した。
いや、実際にはサトちゃんとその母親の京子さんに両端を抑えられていたので、ひっくり返すことは叶わなかったが。
バツの悪さも手伝ってか、義理の父となる筈のヒトの機嫌は悪くなる一方だった。
「この親思いの娘が、一時は親を捨て、何年も行方知らずだったんだぞ! それがどんなに辛い日々だったかお前に分かるか!」
分かる。聡美がいなくなって暫くはここに通い詰めたのだ。その焦燥、その狼狽を誰よりも見ていた。しかし、分かると軽々しく言ってはいけない。
「お父さんてば、昨日説明したでしょ? 彼は何にも知らなかったんだってば」
「バカヤロウ! こんな男にかかずらあったばっかりにお前は決まっていた就職先を蹴って一人身を隠すなんて羽目になったんだぞ!」
「でもそれは、彼のせいじゃ……」
「そもそも婚約者がいたくせに十代の娘に手を出しやがって! 淫行罪で引っ立ててやる!」
胸ぐらをつかまれて一発殴られ、外に放り出された。
「大輔くん!」
「神崎さん、申し訳ないんだけど今日の所は……」
京子さんに拝まれて一時撤退を余儀なくされた。
母の予想通り、俺に対する聡美の父の心象は最悪だった。
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聡美が出奔したのは忘れもしない23年前の春だった。高校の卒業式を終え、その夜はささやかながら就職祝いも兼ねて寿司でも取る予定だった。なのに仕事から帰ってみると、聡美は青白い顔で布団に臥していた。京子が言うには、昼頃帰宅して、昼食も取らずに横になってしまったらしい。
『寝てれば治ると思うから』
少し疲れただけだろうと高を括っていた。
小さな頃はお転婆で、ケガの絶えない娘だったが、大きな病気をすることもなく、すくすくと育ってくれた。親の代から営んでいた小さな印刷工場の経営が立ち行かなくなり。泣く泣く事業を閉鎖した。借金を抱えた生活の中で、聡美の成長だけが小さな光だった。
不甲斐ない親に文句も愚痴も言わず、アルバイトで稼いだ金を当然の様に家に入れてくれた。他所の子供はどこも遊興費に充てていると聞くのに。強くて優しい、自慢の娘だった。
卒業式の次の日の朝、京子が不安げな声で俺を揺り起こした。
『お父さん……聡美がいない』
寝ぼけているのかと思った。昨日体調が悪そうに横になっていたのだ。まだ6時、出かけるにしても早すぎる。
だが聡美が寝ていたはずの布団は綺麗に畳まれて仕舞われていた。タンスの引き出しからは娘の洋服が半分消えていた。玄関にあった履きなれたスニーカーも。傘も。
慌てて玄関を開けると土砂降りの雨だった。
こんな雨の中を青白い顔でどこに行ったのか。
狼狽して振り向くと、妻が紙切れを差しだした。
急でごめんね。訳あって、地方で就職することにしました。また落ち着いたら連絡するから、心配しないでね。 聡美
短いその手紙を、穴が開くほど見詰めた。
卒業したばかりの高校やその友人たちに片っ端から電話をかけたが、その行方は杳として知れななかった。
混乱している俺たちの元にその男はやって来た。
『聡美さんが居なくなったと言うのは本当ですか?』
神崎大輔と名乗った男は聡美と交際していると言う。俺にとっては寝耳に水だったが、京子は聡美から聞いて知っていたらしい。
『体調が悪くて寝ていると、昨夜お電話した時にはお母さん、おっしゃってましたよね?』
『ええ。それが朝になってみると蛻の殻で……』
それから毎日の様にやってきて、連絡はないか、行き先に覚えは無いかと同じことを何度も聞いてくる。
『こっちが聞きたいぐらいだ。あんた、本当に聡美と付き合ってたって言うんなら、何か聞いてたんじゃないのか? 就職先に確認したら本人が電話して辞退してきたって言うし、置手紙があるから警察も取り合っちゃくれない。あんな手紙一つで、親を置いてくような娘じゃないんだ! 親思いの、優しい……娘なんだ……』
毎日が一週間に一度になり、一月に一度になった頃『もう来ないでくれ』と伝えた。
『連絡があったら、お願いですからご一報下さい』
『わかった』
彼氏だかなんだか知らないが、自分たちの状況だけで手一杯だった。それにどこかで、娘が居なくなった原因がこの男にあるのではないかと疑ってもいた。
落ち着いたら連絡する。と書いてあった娘の言葉を信じて待つ他無かったが、事件や事故に巻き込まれたのではないかと、常に不安だった。
数カ月がたったある日、仕事から帰ると京子が『聡美から電話があった』と興奮した面持ちで言った。
『本当か?』
『うん。地方の旅館に就職して、頑張って働いてるって』
『……どこだ。どこの旅館だ』
『それが……それはまだ言えないって……。でも元気だから、心配しないでって』
思わず玄関の三和土に膝をついた。
『お父さん?』
『本当に聡美か? 本人の声だったか?』
『ええ……』
それから時折聡美から電話が入るようだったが、どれも俺のいない時間ばかりだった。次第にそれは妻の一人芝居、あるいは妄想ではないかと思うようになった。娘のいない寂しさに耐えきれず、作り上げたまことしやかな嘘。
『たまには俺のいる時に掛けるように言ってくれ』
『……お仕事が忙しいみたいよ。今度電話があったら伝えてみるけど……』
残念ながら聡美と話すことは叶わなかった。けれど、その虚構を壊してしまったら、妻自体が壊れてしまう気がして、それ以上は何も言えなかった。
そして聡美が居なくなって4年が経つ頃、心労がたたったのか、京子は寝込むことが多くなった。検査をしても原因は良く分からなかったが、頻繁に襲う眩暈に、パートの仕事も休まざるをえなかった。一人で通院させるには危なっかしく、仕事を中抜けさせてもらい、病院に付き添った。このまま京子が床についてしまったら、俺自身仕事を続けるのも難しくなるかも知れない。先の見えない不安で、暗澹たる毎日を送っていたある日、玄関の開く音と共に、小さな子供の声が聞こえた。
『ただいま』
空耳かと玄関を覗くと、幼い男の子を連れた聡美が立っていた。
『お父さん……長い間家を空けてごめん。ただいま』
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今更なんだ。大吾の実の父は神崎の野郎だとか、奴の婚約者の発言を簡単に信じてしまった私が悪いとか、挙げ句の果ては結婚を考えてるだと? 正気の沙汰か?
「祖父ちゃん、大丈夫?」
「あ?」
振り向くと大吾が立っていた。
「神崎さん帰ったよ」
「……ああ」
俺がヤツに怒鳴り散らしている間、大吾はじっと俺の後ろで黙って座っていた。
自分の父親を殴り飛ばした俺をどう思っているのだろう? いや、そもそも実の父親のことをどう思っているのか。
玄関から戻って来た京子が無言で台所に立つ。聡美は帰ってこない。きっと奴を送って行ったのだろう。
いまいましい。
一言も交わさずに、3人でお茶をすすった。
ふと京子が思い出したようにちゃぶ台の横でひしゃげている菓子折りを開けだした。
「俺は……」
食わんぞと言う前に、独りむしゃむしゃとヤケのように食べだして、大吾と俺は呆気に取られた。
「どんな時でも美味しいわね。鑑真堂の茶饅頭」
そりゃあそうだろう。俺と大吾の好物だ。いまいましい。
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