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4、懐妊

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 儚げな彼女が涙ながらに懇願する姿に痛々しささえ覚えた。


 あれは高校の卒業式の日、校門を出ると思い詰めたような顔で芙沙子さんが立っていた。


 いぶかる学友たちと別れて芙沙子さんと共に入った喫茶店で、彼女はためらいがちに口を開いた。


『お腹に……彼の子が……』


 理解できずに呆然とする私の前で、そのままポロポロと涙をこぼした。


『ごめんなさい。本当にごめんなさい。一度だけとお願いして……抱いて貰ったの』


 ずくんと胸の奥が重くなった。


『勿論聡美さんにも誰にも言わない約束で。一生の思い出にするつもりで……。分かってる……。大輔さんは貴女を愛していると思うの……。それは分かってる。だから……好きだけど……諦めるつもりだった……。諦めるつもりで……一度だけと……』


 芙沙子さんには以前にも会ったことがある。


『私大輔さんの婚約者なの』優しげにそう言った。


『でも気にしないで。親同士の決めたことだから。大輔さんからは聡美さんのことは聞いてるわ。とてもステキな女性だって』


 純和風の楚々とした美人にそう言われると、大いに気後れした。でも、あれは強がりだったのだ。大輔さんが好きなのに、婚約者でありながら芙沙子さんは私のせいで我慢していたのだ。


 言葉を失っている私の前に、芙沙子さんは分厚い封筒を置いた。


『酷い女だと怒っているのでしょう? ムリもないわ……。こんな事……許してもらえるハズない……。でも……産みたいの……。我儘だと、自分勝手だと思うけど……でも……この子の事を考えると……』


 両手をそっとお腹に添えた彼女は、とても心細そうだった。


 封筒の中身は現金だった。見たこともない量の……。


『お金で解決できることじゃないのは分かってる。でも……でも……聡美さん……本当にゴメンさなさい……』

『これ……幾らあるんですか?』


 おののいて尋ねた。


『1000万あるわ』

『え……』


 お嬢さんとはいえ1000万円もの大金を用意するのは並大抵のことではなかっただろう。それもこれも、お腹の我が子の幸せを願ってのことだと考えると、もう道は一つしかないように思えた。


『家柄も容姿も、芙沙子さんの方がお似合いだと思ってたんです。ちゃんと別れますから、このお金は収めて下さい』


 現金の入った封筒を押し戻そうとすると、また芙沙子さんはさめざめと泣き出した。


『あなたがここに居る限り、私とこの子は捨てられるわ。無理なお願いだとは分かっているの……でもどうか、この子を父親のいない子にしないで欲しいの』

 

 このお金で取り敢えずできるだけ遠くに身を隠してくれと懇願された。


 彼の事は好きだったけれど、この関係に未来があると夢見られるほど子供でもなかった。彼は言わなかったけれど、ご両親に反対されているらしいことは雰囲気で分かっていたし、何よりまだ将来とか結婚とか、リアルに考えられない歳でもあった。私を好きだと言ってくれる彼を疑っていたわけではないけれど、その思いだけではどうにもならない事がこの世の中にあることぐらい分かっていた。だからこそ、初めて本気で好きになった人との思い出を、私は美しいまま封印してしまいたかったのかも知れない。


 内定していた就職先を辞退し、心配するであろう両親には『遠方に就職することにしました。落ち着いたら連絡するから心配しないで』と書き置きを残した。若かったなと思う。視野狭窄に陥って、他に方法が無いように思えた。


 そうして逃げる様に訪れた田舎の旅館で、住み込みの職を見つけ、そのままそこで働いた。


 蓄えができたら実家に送金しようと、そちらでの生活にもなれ始めた頃、数ヶ月生理が来ていない事に気付いた。はじめは生活の変化のせいと思い込もうとしたが、次第に匂いに敏感になり、空腹を覚えると吐き気をもよおした。職場の先輩にも怪しまれるようになり、仕方なく産婦人科を受診した。


『分かりますか? まだ2センチ程ですが、元気な心音が聞こえるでしょう?』


 モニターを凝視すると胎児らしき影がはっきりと見て取れる。心臓であろう部分が早い速度で脈動している。


『9週目に入ってますね』


 妊娠3ヶ月だった。


 そうかも知れないと思ってはいたが、現実を突きつけられると流石に動揺した。


 芙紗子さんに子供ができたと知って身を引いたのに、まさか自分にも命が宿っていようとは……。知らなかったとはいえ、この子から父親を取り上げることになってしまった。


 このまま黙っていては職場にも迷惑を掛ける。クビを覚悟で、帰って女将さんに事情を説明した。


『そう、何か訳ありだとは思ってたけど……』

『……』

『で? どうするの? 産むつもり?』

『……無茶でしょうか?』

『無茶ね』

『……』


 10代の女が、一人きりで子を産んで育てるなど、自分でも無茶だとは思った。けれど、宿った命を葬ることに、大きな抵抗があった。


『取り敢えず、お母様だけには連絡なさい。怒られるでしょうけど、私達だけでは支えられない部分もあるわ』

『え?』

『幸い、子育て経験者も多いし、何とかなるでしょ。子育ては一人でするもんじゃないのよ』

『女将さん……』


 頭を畳に擦りつけて『ありがとうございます』と言いながら泣いた。


『もう、顔を上げなさいよ。胎教に良くないわよ。ところで……父親には連絡しないで良いの?』

『……しません』

『そ、ま二股男に可愛い赤子を抱かしてやる義理もないか』


 そうか、私は二股を掛けられていたのか。今更ながらそんなことを考える自分が不思議だった。彼が芙沙子さんにお願いされて体の関係を持ったことを、未だ浮気と認識していなかった。裏切られていたと思いたくなかったのだと思う。


 それから身重の体で忙しく働いた。時折『無理は禁物』とたしなめられながら、女将さんや先輩達のアドバイスをとてもありがたく思った。


『あんたはお腹がすくと気分が悪くなるタイプだから、ビスケットでも飴でも常に持っておいて、それでやりすごしなさい』

『重いのを持つのは程々にね。でも下半身は鍛えておいた方がお産が楽よ』


 偽名で働いていたことを知っても、仕事で迷惑をかけることがあっても『お互い様だよ』と誰も咎めだてしなかった。私は本当に運が良いと、その出会いに感謝する日々だった。


 女将さんの言う通り、実家の母にも連絡を取った。


 何か事件に巻き込まれたのではないかと気を揉んだこと。彼が自宅を何度も訪れたこと。怒りながらも電話口で散々泣かれたが、結局父に内緒で、産前産後を支えてくれた。


『とにかく無事で良かった。親より先に死ぬことだけは許さないから』


 その時の母の言葉は、子供を持った今、より深く理解できる。


 

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