38、花言葉
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『あなたはご存じないでしょうが、市場の花屋の娘さんであるあなたの事は以前から知っていました。はす向かいにあった古書店に足しげく通っていましたから。勝手乍ら目の保養と称して一方的に眺めさせていただいていました……。僕はこんな冴えない男ですし、相手にされるわけもないでしょうし……。それが隣に……いつの間にかご結婚をされて、引っ越してこられた……』
安斎古書店の常連? 気付きもしなかった。
『元々そのつもりではありました』
『はい?』
『一生片思いだろう、と』
『はあ』
『ですが毎夜毎夜、すぐ隣の家であなたが他の男と褥を共にしているのかと思うと、中々に辛いものがありました』
褥って……。
『関西弁のやかましい品の無い男なんていなくなれば良いと……何度も思ったことがあります』
ゆっくりと噛み締める様に話す目の前の男は、うつむきがちになる顔を思いとどめる様に顎を上げた。
『だからご主人が亡くなったと聞いた時、自分が恐ろしくて仕方なかった。心の中で、死ねとまでは思っていなかったと言い訳する日々……。しかし本心は別にあって、気付かぬうちに僕は呪いをかけていたんじゃないかと怖くなって……』
ちょ……超能力者か何かですか?
『主人が亡くなったのは……飲酒運転の車に追突されたからで、貴方の呪いのせいではありません』
『……ええ……呪いにかかってしまったのは僕の方かも知れません。この気持ちをもうどうしたら良いか分からなくなってしまった。独りになったあなたを、これ幸いと口説く下卑た男に成り下がるのか、きっぱりと諦めて、親の進める見合い結婚でもするのか。……念のため言っておきますが、今、聞かれたから好きだと言ったわけではありません。今日は、覚悟を決めて来ました』
『……はあ』
『……最近、男性のお客さんが多いですよね……』
『は?』
『それもなんだか体躯のがっちりとした……仕立ての良い背広姿の男ばかり……。40代位の男と、30代位の男、それからもう一人はかなり年配の……』
神崎さんと、ええと……ああ、あの茶髪のお客さん。それから駒沢さん……、てかそんな事をいつチェックしてたの?
『それが何か?』
『……40代の男は聡美さん狙いだと分かっています。聡美さんと親し気に話したら、まるで獣の様に毛を逆立てて威嚇してきた』
それは神崎さんだな。
『あとの二人は何です?』
『お客様です』
『女性二人で店を営んでるんですから、気を付けないといけません』
は?
『もう一人くらい従業員を増やせませんか? 2週間に一度の割合で通ってくるなんて貴方に気があるに違いないんです。二人きりにならない様に、気を付けるべきです』
まさか、それで今? 私が他の男に口説かれるんじゃないかと心配で今?
『その30代のお客様は最近はそれ程通っておられません。年配のお客様は奥様にぞっこんのご様子ですので無駄な心配かと』
あきれ果ててつい口調がビジネスライクになってしまう。
『口説かれたことは無いんですね?』
『ありません』
その二人にはね。
そう応えると、じっと黙り込んでしまう。
何? どう収拾をつけるのこの事態。
何しろ隣家の書店の跡取りだ。その上、父親の木下さんは町会長をしている。ここで店をやっていく限り無関係ではいられない。
しかし、何だこの告白は。普通『好きです。付き合って下さい』の問いにこちらがYESかNOで答えるもんじゃないか? 話はそこからでしょうよ。
従業員を増やせとか、客に口説かれてるんじゃないかとか、私がOKした訳でもないのにアンタは私の彼氏か旦那気分か?
『話は終わりですか? じゃ、仕事がありますので』
ああ、このグラジオラス、もう売りものになんないや……。
『その鉢植え。買います』
『え?』
『ピンクのグラジオラスの花言葉、ご存知ですよね』
ええと……何だっけ? 花は好きだけどこういうの覚えんの苦手なんだよね実は。聡美は良く覚えてるんだけど……。
『ひたむきな愛』
へえ、そうなんだ。
『……良くご存じで』
『因みに……サイネリアの花言葉は?』
サイネリア? 知らねー。
『ごめんなさい。こういう仕事をしてる割に……あんまり知らなくて、まあ有名どころは抑えてるんですけど……。今度聡美に確認しときます』
『……あの……もしかして……』
『はい』
『僕が今まで買ってきた花の意味に……気付いて……ない?』
意味?
『まあ、態度とか……そんな部分でも伝わってると勝手に思っていた部分もありますが……【秘めた想い】【一途な恋】【愛しています】【私を見て】【愛の告白】【熱い思い】【あなたしか見えない】……どれも……伝わってませんでした?』
『……ですね』
それ、全部調べてわざわざ買いに来てたってこと?
確かに、男性のお客様は大抵お任せの注文が多いのに、彼はいつも自ら花を選んで買っていた。花束を買うほど気合は入ってないけど、少しでも店の売り上げに貢献しようとしてくれてるんだと思っていた。何しろ、同情されてると思っていたから。
『まさか、僕の気持ちに気付いていなかった?』
『ですね』
そう言うと大きなため息がこぼれた。
知るか! 花は色によって花言葉も違うし、一つの花にいくつもの花言葉があったりもするし、どんどん新しい品種は入ってくるしで覚えようとすると気が遠くなる。それに一々客が買って行った花に自分への思いを汲み取ってたら自意識がおかしくなりそうだ。
『わかりました。兎に角、竹下さんを千奈美と呼ぶことから始めようと思います』
『はい?』
『あなたの苗字が木下になる日も近いと信じて、千奈美と呼びます』
何を言い出した?
『……あのですね。本屋の息子と花屋の年増の噂なんてあっという間に広がりますよ。お互い商売をやっている手前、そう言うのはあまり……』
『火遊びのつもりはありません。だから数年前から腹を決めて準備して来たんです』
何の?
『好きな男はいますか? その……亡くなった旦那さんの他に……』
『……いません』
『では、夫婦の営みは千奈美が良いと言うまで我慢します。結婚しましょう』
何でそうなる! 好きな男がいると言ってやろうかと思ったが、それは誰だと質問攻めにあいそうでやめてしまった。では、の先に来る言葉もおかしいでしょうよ。好きな相手がいなければ結婚て何よ。
目の前のグラジオラスをひっつかんで、顔面めがけて投げてやろうかと思った。しかし花に罪はない。
『何で私が、好きでもないアンタと結婚しなきゃなんないのよ!』
『千歳さん……いやお義父さんに聞いたところによると、結婚した旦那さんの事も最初は嫌いだったとか』
『は?』
『どうしてもって言うから結婚してやるんだ、と千奈美は言っていたと……』
それは、結婚なんてしないと豪語してきた手前、冷やかしが止まらない父親に対して言ったことで……。まあ確かに旦那の事は全然タイプじゃなかったのは本当だが。
『どうしても、あなたと所帯を持ちたいです。あなたが覚えろと言うなら関西弁も覚えましょう。年上が良いなら年上に見える様に頑張って老け込みます』
真顔でそう言いきる男に、不覚ながらも笑ってしまった。この人に関西弁なんて似合わない。想像しただけで腹がよじれる。頑張って老け込むってどうやって? 頭を真っ白に染めるつもり?
『千奈美?』
何なのこの人、真面目な顔して。
涙を流して笑う私の顔を心配そうにのぞき込んでくる。
『は……お腹痛い……』
涙を拭いながら顔を上げると、いきなり唇を塞がれた。
ええええええええ!
『笑い話にして終わりにするのだけは勘弁してください。相当の覚悟でここに来たんです』
いや、今キスしたよね!?
顎をつかまれて至近距離でそう言われ眩暈がした。
『ちょ、放しなさいよ……本人に断りもなくそういうことして良いと思ってんの?』
『キスはするものではなく、奪うものだと……本に書いてありました』
『は?』
顎を手放したのでホッとしたのも束の間、するりとカウンターのこちら側に入ってくる。
『何?』
あっという間に追い詰められ、逃げ場を失う。
『わ、私が良いと言うまで何とかってさっき言ってたわよね?』
『夫婦の営みは、です』
『いやいやいや……客、お客様が来たら何事かと驚かれ……』
当然ながら店は開店営業中である。
『良かった』
『は?』
『心配事はそっちですね』
『何?』
『客が来たら、千奈美が助けを呼べるとホッとするんじゃなくて、キスをやめない僕たちを見たお客様が困る、と』
何? 何を嬉しそうにしているのかもう分からない。てか客が来てもやめないつもりか!?
強引に私を抱きしめると、耳元で熱いため息が漏れる。胸を押し戻そうと力を入れかけた時泣きそうな声が聞こえた。
『僕の呪いのせいで旦那さんが亡くなったと思うのはやめにしたんです。そうじゃなくて、あなたを独りにしないために僕はいるんだと思う事にしました』
何言ってるの? この男は。
問いかける為に上げた顔に優しい唇が降ってきて、何故か背中に甘いしびれが走った。
久しぶりだからっ! ほだされたんじゃなくって、久しぶりだからっ!
ごめんね、もっと乱暴なら突き飛ばしてやるんだけど、涙交じりの瞳が切なそうに縋ってくるものだから……と心の中で、亡き夫に詫びた。
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