37、木下書店の3代目
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金曜日の夜、閉店準備をしている最中『今日は晩御飯いらないから』と息子からメールが来た。
お、ついに勝負に出るのか?
「ん? 誰? 彼氏?」
「違う、大吾。今日は晩御飯要らないんだって」
「ああ、例の彼女と会うのかな?」
「どうかなあ……」
ちゃんと会ってもらえるのだろうか? もしかして本当に帰宅途中を捕縛とか? 焚きつけた本人が言うのもなんだが、下手な事をして警察沙汰なんてことにならなきゃいいが……。
「しかし、気難しい彼女だねえ」
「え?」
「姑的には良いの? 可愛い一人息子でしょ。もっと素直な嫁の方が良くない?」
「嫁って……」
そもそも振られているのだ。それをストーカー息子が諦めきれずに……。
「もう一度付き合ってもらえるかどうかも分からないのに、嫁も姑もないでしょ」
「付き合ってた彼氏が教え子だったって言っても今は成人してるんだしさ、頭硬すぎない?」
「最初からそれを知ってればそうかも知れないけど……正直に言わなかったことで信じられなくなってるのかも」
大吾は違うって言ってるけど、知らぬ間に長年ストーキングされてたと思われてるかも知れないし……。
「知り合った時が小学生ってのもね……」
「親子そろってややこしい人たちだこと」
「え?」
にやりと千奈美が笑った。
「何が?」
「何もかもよ。ま、面白いけどさ。聡美の方は上手く行って良かったね」
「千奈美こそ……上手く行って良かったじゃない」
「え?」
「達郎さんと」
「……」
「達郎さんて気が弱そうだから、一生片思いでいるつもりかと思ってたけど、案外男らしいとこあるんだね」
「……」
達郎さんの様子を見るにちゃんと付き合っている様子なのに、何故か千奈美は二人の事に関して口が重い。突っ込んで聞こうとすると『どうしてもって言うから付き合ってやってるだけ』とお茶を濁す。
実は千奈美は頼まれると嫌と言えない性格だ。出入りの業者やお得意先の好色なおじ様方に口説かれてもそつなくかわせるが、一途な青年が懸命に告白して来たとなると、冷たく突き放すことができなかった可能性もある。しかし、嫌いな相手と付き合うほど気弱な性格でもない。
ま、付き合い始めたばかりだし、ゆっくりと考えればいいかと思うのだが、達郎さんの方は着々と外堀を埋めている様子だ。
この間も文子さんにそれとなく聞かれた。
『ゆうがね、お話のおじちゃんの事お父さんて呼んで良いの? って聞いてきたのよ。千奈美に聞いても絵本のお話とごっちゃになってるんじゃない? とかごまかして……付き合ってるんでしょ? 達郎さんと』
『さあ……』
どうなるか分からないから親には内緒にしておいて欲しいと言われている手前、こちらもごまかすしかない。
『聡美ちゃんもどうせあの子に黙っていてくれって言われてるんでしょ。でも、最近私に挨拶する時、おかあさん、おはようございます、って言うのよ』
『え? 達郎さんがですか?』
『そ、前は文子さんだったのに』
あからさま……。
『あちらのご両親はご存じなのかしらねえ。十も年上なうえに子持ちなんて、怒られるんじゃないかしら……』
文子さんは反対する気はないと言う事か。
『もし、そうだとして……千歳さんは反対したりは……?』
ああいう気の弱そうな男の人は嫌いそうだ。
『将棋仲間だからねえ……』
『はい?』
『一年半くらい前からかしら、お父さんの通ってる将棋クラブに顔を出すようになったのは……』
ええ?
『最初は下心が透けて見えるって嫌ってたんだけど、初心者の割には筋が良いって、最近はお気に入りよ』
達郎さん? いつの間にそんなところにまで網を張り巡らして……。どちらかと言えば柔和な、気の弱そうな書生さんと言った感じの青年なのに。告白する度胸もなさそうだなぁ、と同情していたのだけど……。
「ゆうちゃんが小さいうちの方が良いんじゃない?」
「は? 何が?」
「再婚」
「何言ってんの? さ、さっさと片付けるわよ」
興味は無いと言わんばかりに、つんと顔をそむけてしまう。しかし、首が赤いですよ千奈美さん。
本当にそう思ってるなら、あの時どうして女の良い時期は『これからだ!』なんて言ったんですかね?
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市場が燃えていると母から電話が入ったのは、真夜中の事だった。深い眠りから引き戻された頭は、夢か現実かの判別がつかず、受話器の向こうの母の声に耳を傾けるまでに暫くかかった。
眠るゆうを抱きかかえ外に出ると、それなりの距離があるというのに風に乗って焦げ臭いにおいがした。駅向こうの方向に顔を上げると、月明かりの中、立ち上る黒煙が見えた。思わず震えが走った。
ゆうを連れて行くべきかどうか迷っていると、夜中まで起きていたのか木下書店の息子が飛び出してきた。
『消防車の音がひっきりなしに聞こえたので、近くかと……』
『駅向こうの市場です。申し訳ないんですが、この子を預かってもらえませんか? 私の両親の店が……市場の中にあって……』
『え? 市場が燃えてるんですか? わ、分かりました。お預かりします』
慣れない調子でゆうを抱きかかえた彼は『気を付けて!』と私の背中に叫んだ。
人混みの中に両親を見つけた時には、手が付けられない程の火の勢いで、何台も駆け付けた消防車はけれど狭い路地の中まで入ることが叶わず、消火は思うように進まなかった。
なすすべもなく、両親が先代から受け継ぎ長らく営んできた生花店は、一夜の火事で灰塵に帰してしまった。
『何で……』
早朝、未だ煙の上がる焼け跡を、どうしようもなく空しい気持ちで眺めた。
まだ、夫が亡くなってたった数週間後のことである。
『竹下さん……』
振り向くと木下書店の息子が、ハンカチを私に差し出していた。
『ゆうちゃんは、母たちが見てくれてます。良く眠っているので大丈夫ですよ』
『ありがとうございます。……私、どこか、汚れてますか?』
煤でも顔に付いているのだろうか? 不思議な気持ちで問いかける私の頬にそのハンカチは当てられた。
ああ、泣いていたのか。気付かなかった。
落胆する両親にばかり気が向いていて、自分の涙に気が付いていなかった。
夫が亡くなった悲しみを直視しない様に生花店の手伝いに没頭してきただけに、心の安定をどうやって保てば良いのかもう分からなくなっていた。
『大丈夫。大丈夫ですから』
涙の止まらない私を彼は抱き寄せたような気がするが、あまり覚えていない。
駆け付けた市場の店主や近隣の住民で、早朝とは思えない程辺りはごった返していた。
葬儀でも、これほど泣かなかったのに。タガが外れたように、混沌の中で嗚咽を抑えることができなかった。
だからきっと、時折感じる彼の視線は同情故と思っていた。
夫を失い、小さな頃から慣れ親しんできた生花店を失った子持ちの可哀そうな女。
木下書店の視線はつまりそういう事なのだと。まかり間違っても恋愛とは違うとずっと思っていた。
少し猫背のひょろ長い体。文学青年宜しく角ばった銀縁眼鏡。レンズの奥は何時も少し寂しそうに笑っている。
聡美と生花店を開店して以来、時折店にやってきては店に飾ると言って花を数輪買って行く。私が一人の時にやって来ることが多い気がするが、それはきっと気のせいだろう。何時も何かもの言いたげな気がするが、きっとそれも気のせいだろう。
それがつい魔がさして、先日うっかり尋ねてしまった。
『何か言いたいことでも?』
丁度聡美が神崎さんの会社の社長室に花を活けに行っている間の事である。
『……すでにお気づきの事とは思いますが』
好きです。
驚いて、剪定途中の植木の花をぶった切ってしまった。
『なんです?』
『好きです。今まで罪悪感で気持ちを伝えることができませんでしたが、もうこんな自分は捨てようと思います』
罪悪感? 何の話?
『この家に引っ越して来たあなたが、ご主人と一緒に挨拶に来られた日、今まで味わったことのない感情に僕が悶絶していたことなどあなたは知らないでしょう』
引っ越してきた日?
何年前の話?
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