35、一番いい時期
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その日、仕事を早々に片付けて夜にも会いに行こうと思っていたのに叶わなかった。
すっかり忘れていたが、役員と幹部の親睦会が入っていた。
それぞれの職場から上がって来た今年度の新入社員の報告会の後、毎年場所を移して行われている。
社長に就任して以来の定例懇親会だ。自身で提案してやり始めただけに、ちょっと野暮用で……とは流石に言えない。
さりとて、朝の早い彼女に遅くまで起きて待っていて欲しいとは言いづらい。泣く泣くメールを打った。
>夜も会いたかったけど、今夜は会えそうにありません。お願いだから俺の夢に出てきて下さい。
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>会いたい。
>君のいる家に帰りたい。
>火曜日は休みを取ろうかな?
毎日、彼から送られてくるメールを見て頭を悩ませている。何と返せば良いのだろう?
私も? ……いや恥ずかしい。
そうですね? ……冷たすぎる。
結果「お昼にお店に来てくれた時会ったでしょ」とか「ちゃんとご飯食べて下さいね」とか「お仕事頑張ってね」とか当たり障りのない内容を返している。
この温度差に彼が愛想をつかさないか心配になる。
何しろ私はずっと、彼を人の夫だと認識して暮らしてきたのだ。彼の子供の存在も嘘だったと理解しようと思うのに、習い性になった頭は、そうすんなりとは動いてくれず、彼とメールのやり取りをしていることに妙な罪悪感すら抱いてしまう。
>愛してる。
「ぎゃー!!」
「え? 何?」
「あ……いや、何でもない……」
つまり彼の甘い言葉の直球攻撃に、どうして良いか分からないのだ。
「メール?」
「え? いや……なんかニュースで……虫が大量発生したとか……」
許して大輔くん……。
携帯を見ていた私に、大吾が胡乱な視線を投げかける。
「虫?」
あれから一週間がたっても、彼女に無視され続けているらしい息子が不憫で、二人のことは言えずにいる。勿論実の父の事も……。
痩せたな。
私の用意した夕飯を無理にかきこんでいるが、時折こっそり吐いているのを知っている。恐らく夜も、あまり眠れていない。大吾がこんな風になるなんて意外過ぎて驚きだ。今までに付き合った彼女とはあんなにドライだったのに。余程好きなのだろう。
友田先生。彼女の真意は? 自分の正体を明かさなかった大吾に対してただ怒っているのか。教え子と付き合うとか倫理的に許せないのか。はたまた、大吾程には好きではなかったのか……。
いや、多分違う。社長室で、私に無理に言わされたあの『好きです』には複雑ながらも深い感情がこもっていたと思う。
10年前は彼女はまだ学生で、大吾は小学6年生。
『何でか分かんないけど、皆恐いって言うんだ。面白い先生なのに』
不甲斐ない親の影響か、子供の頃からやけに大人びていた大吾が嬉しそうにそう言ったのを覚えている。
私自身は保護者会で数回会っただけだが、目鼻立ちのはっきりとした美人で実年齢よりも大人びて見えた。
「ねえ。大吾って、小学生の頃から先生のこと好きだったの?」
「……」
あ、また不用意に息子の傷をつついてしまったろうか?
「女性として意識し始めたのは、先生がボランティアを辞めてから……」
「は? その後会ったの?」
「いや……中学一年の終わりごろに、就職のために辞めますって挨拶を聞いて……」
「聞いて?」
「……また時間を見つけて会いに来てくれるようなこと言ってたのに、勉強会に行っても会えなくて……ま……それで?」
なんだ、それでって。
「初恋だったんだなと……」
甘酸っぱい!
「そんで今まで消息も知らずにいたのに、神崎さんの会社で見かけたワケか……」
「うん。すれ違いざまに名札を見たら苗字が変わってなくて、運命だと思った」
ぶっきらぼうに視線を反らしながらそう言う息子に、吹き出しそうになったがこらえた。
「結婚しても名前が変わってないこともあるでしょうよ。婿養子取ってるとか、単に妻の方の苗字にしたとか、会社では旧姓のままとか」
「可能性の問題だろ。実際未婚だったわけだし……」
「で、素性を言わずに猛烈アタックか……」
「……彼女、去年見合いをしたらしいんだ」
「え?」
「会社の専務の勧めで、その専務の親戚の息子と」
「へえ……」
「いや、彼女は断ったんだけど、男の方は友達とか称して彼女の周りをうろついてるもんだから、焦って……、かつての教え子ですなんて告白してる場合じゃないと言うか……」
「成程」
女性に対して情が薄いと思っていたのは大きな間違いで、好きな相手に情が濃すぎてこの事態か。ずっと一緒に暮らしていたのに息子の新たな一面に驚くばかりだ。
今までに付き合った彼女たちは、友田先生を忘れる為か……だとしたらいい迷惑だが、好きでもない女性と適当に結婚してから再会なんてことにならなかっただけましか。
「母さんにできることない?」
「……ない」
「神崎社長に取り持ってもらうとか……」
「それは最低だろう」
そりゃそうか。パワハラだ。
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「じゃ、ゆうちゃんによろしく」
「ありがとうござます」
千奈美がにこやかに彼を見送る。
「サトちゃんもまた」
「はい、気を付けて」
意味深な視線を投げかける彼に、こちらは営業スマイルで返す。
「何か悪いなあ……こんなのもらっちゃって……」
「丁度ゆうちゃん、誕生日でしょ? いいじゃない。もらっとけば」
なんでも彼がクリスマスにゆうちゃんにプレゼントしたぬいぐるみが空前の大ヒットを記録したとかで、気を良くしたメーカーがぬいぐるみのアクセサリの販売を始めたそうだ。洋服や本気仕様の首輪、ショルダーバッグ(ぬいぐるみ用の)、それらをセットにして千奈美に預けに来たのだ。
「でも一応、お客様だしさ……」
「そうだけど、ゆうちゃんのこと親戚の子供みたいに思ってるんじゃない?」
「いや、彼女の同僚の子でしょ」
「かの……じょ?」
「そ、自分の彼女の」
千奈美がじっとりと見詰めてくる。
「はい?」
「つきあってんの?」
ガツン!!
「痛った……」
漫画のようにけつまずき、あやうく商品を落としそうになった。
「ちょっと気をつけてヨ。また、彼氏に抱っこされて病院に運ばれたいの?」
「……」
脛をしたたか打って悶絶していると、上から笑いを含んだ声が降ってくる。
商品を棚に置き、椅子に座って患部をさすった。
「聡美の彼氏、分かりやす過ぎなのよ。何よあの『好き好き大好きもう俺のもの』ってな目は」
「し……してないでしょ、そんな目……」
「帰ってく時ぺこって頭下げるけど、顔に書いてあるわよ『俺の聡美をヨロシク』って」
「書いてない!」
「どうなったのよ。押し倒された?」
「押し!?」
「神崎さんが現れてからコッチ、聡美の百面相には楽しませてもらったけど、正直イライラしてたのよね」
「は?」
「ただの知り合いを見る目じゃなかったよお互い」
そんな馬鹿な。そんなハズはない。
「くっついたんでしょ? 正直に言いなさいよ」
「……うん……ごめん。千奈美には落ち着いたらちゃんと言おうと思ってたんだけど……」
「何? 落ち着いたらって」
「ちょっと長くなるから仕事終わりにでも……」
「良いわよ。気になる。今言いなさいよ」
「配達……」
「朝ので終了。分かってるでしょ?」
作業をしつつ、途中来客で中断したりしながら、結局根ほり葉ほり尋問されることとなった。
「はー、やっぱ大吾くんの父親だったか」
あきれ顔でそう言うと千奈美はため息と共に腕を組んだ。
「しかし……失踪するかね? いくら優しい芙沙子さんのお願いとは言え……」
「……あんな大金搔き集めてくるなんて、よっぽど追い詰められてるんだなと思って……」
「いやいやいやいや……頭がおかしいでしょ?」
「そんな事ない。凄く綺麗で上品なお嬢さんで……」
「どこが上品よ。やってることが下品だよ。はあ……。ま、頭は良いのかもね」
「え?」
「あんたの事をある意味良く分かっていて。そこを突いてきた」
そうなのだろうか?
「一泡吹かせてやりたいわね」
「ち……千奈美?」
「って言っても本人がこれじゃあね」
「何?」
「女の一番いい時期棒に振らされたんだから、アンタ幸せになりなさいよ。それが一番の復讐だわ」
物騒なことを言い出した千奈美が矛を収めてくれてホッとする。
「一番いい時期ってやっぱ、もう終わってるよね……」
自嘲気味にそう言うと、千奈美がすっくと立ちあがった。
「いや、これからだ!」
「さっきと言ってることが違……」
「お互い頑張ろう!」
何やら空を睨んで頬を上気させている。
あれ?
「お互い……ってもしかして……達郎さんと進展あったの?」
「……何よ。気が付いてたの?」
隣の木下書店の息子さんだ。前々からどう考えても千奈美に気があると思っていたが、千奈美はそっけない態度しか取ってこなかった。十歳も年下だし、数年前にご主人を亡くした千奈美にとっては、恋愛はまだ早いかもと口を挟まずに来たのだが……。
「こないだね。聡美が配達に出てる時を見計らって木下書店がやってきてさ……」
千奈美は書店の店主を木下さん、息子の達郎さんの事を木下書店と呼ぶ。
「ま……そういう事になったっていうか……」
「何よ、そういう事って」
仕返しとばかりに千奈美に向き直り、事の次第を詳しく追及することにした。
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