33、俺のもの
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母さんの様子がおかしい。
会社に行く支度をしながら、寝室に目をやる。
細く開いたドアの向こう、ベッド中で身じろぎする小柄な膨らみ。
昨日会社に押し掛けて、雰囲気も読まずに余計な事をしてくれたことに、正直なところ腹を立てていた。
>別れよう。いや、そもそも無かった事にしよう。
>今後私的なことで連絡しないように。家に押し掛けるようなことがあったら会社を辞める。
彼女からメールで別れを告げられ、どん底気分でいる俺に、帰宅した母さんは『ごめんね』と言った。
てっきり嘘ついてたアンタが悪いと言われると思っていたので驚いた。
社長室では息子をストーカー呼ばわりし『振られるわね』と呆れたように言い放ったクセに。一体なんだ? 挙げ句に泣き出したりして。仕事で何か辛い事でもあったのだろうか? いや待てよ。
『神崎社長と、どうなった?』
『どうって……どうもなってないわよ』
『なんで泣いてるんだよ』
『花粉症』
『は?』
結局、神崎のおじさんを振ったと言う事だろうか? 言い寄って来る男をことごとく袖にして来た母さんだが、おじさんには心を許している様に見えた。あくまで友人としてだったのだろうか? 友人を失って落ち込んでる?
今日は店の定休日だ、朝食の準備にと起きてきた母さんを『自分でするから寝てろよ』と寝室に押し込んだ。酷い顔だった。泣きながら眠ったのがまる分かりの……。こんな母さんを見たのは初めてかも知れない。帰ったら話を聞いてやるか。しかし親子そろってブルーとか……なんて日だ。
ま、どちらにしろ『君の母さんに惚れてる』なんて面と向かって言った男は神崎のおじさんが初めてだ。簡単に諦めるとは思えない。
勿論、俺だって簡単に諦められない。諦めるつもりもない。昨日今日の思いじゃないんだ。甘く見てもらっちゃ困る。
「じゃ、行ってきます。ゆっくり休んで」
そう言うと、か細い声がなにやら言ったように思うが良く聞き取れなかった。
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ピンポーン。
玄関の呼び鈴の音? あれ? 今日は何日? あれ? 私仕事……
ピンポンピンポーン。
ヤバい、日が高い、寝過ごした!
がばとベッドから起き上がり、ふらふらと玄関に向かう。
何? 誰? 千奈美?
がちゃり。
玄関を開けると、そこに
彼が立っていた。
「……」
そのままふにゃふにゃと玄関に座り込んでしまう。
「サトちゃん!?」
「ごめん。私……仕事に行かなきゃ……寝過ごしちゃって……」
「……今日定休日だろ?」
「え?」
あ、そうか今日は火曜日。
「あれ? 大輔くん、仕事は?」
「昼休憩中。だからあまり時間が無い」
「そ……ぎゃー!」
「え?」
「や……あの……えと……ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってて!」
だらしない部屋着姿、ぐちゃぐちゃの髪、それに……むくんだ顔……
洗面所で取り敢えず顔を洗い、ガシガシと髪をといてその辺にあった大吾のパーカーを羽織る。
どうせ、もうみっともないトコロを見られたのに、バカみたい。
「ごめんね。お待たせ、どうぞ……」
「もしかして寝起きだった?」
「……はい」
「昨日眠れなかった?」
「まあ……うん。……朝、一旦起きたんだけど……大吾に朝食の準備はいいからって言われて、その後寝てしまったみたいで……」
いつもは仕事柄、一緒に朝食を摂ることはできない。定休日ぐらいは一緒にと思っているのに、失恋して辛いはずの息子に気を使わせてしまった。出勤する大吾に『応援するから!』と叫んだが聞こえただろうか?
「ごめんね。急に来たりして」
「いえ……」
忙しいだろうにどうしたんだろう? いや、どうしたんだろうと言う事は無いか。きっと彼は怒っている。昨夜もそうだった。一言言ってやらねば気が済まないだろう。
「何か飲む?」
「いや、良い」
「そか……時間ないんだったね。でも、お昼なんだったら何か……」
「良いから座って」
腕を引かれてリビングのソファに座る。
「……怒ってるよね」
「え?」
「大輔くんの言う通りです。大吾はあなたの息子です」
殴られても仕方ないと思い、歯を食いしばった。
「怒ってない」
「え? でも……」
「大江聡美さん」
「はい」
「怒ってる暇なんてないんです」
彼は真顔でそう言った。
「は?」
「もうこれ以上貴女との日々を無駄にしたくありません。俺の事を好きになってもらえるように努力しますから、これからの人生を一緒に歩いてくれませんか?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。何? 人生?
「あの……」
「君が好きだ。どうしても諦められない。俺じゃだめだと言うなら、性格も変えるし整形もする。名前だって変える。何だってする」
彼は何を言っているのだろう? そんなことをしたら、大輔くんじゃなくなってしまう。
「私……ごめんなさ……」
まだ、ちゃんと謝っていない。まずは……そう、謝らないと。
「え? それは……だめって……」
「……会ったら、謝らなくちゃと思って……昨日は驚いちゃって……何も言えなくて……」
一晩泣き明かした。泣いたって何の贖罪にもならないのに。申し訳なくて、どうすれば償えるのか見当もつかなくて。
私の罪は息子から父親を奪っただけではない。大輔くんから息子を奪った。
「大吾……小さい時可愛かった。活発で、ケガも良くしたけど……素直で、良く笑う……」
「……そうか、うん。そうか」
「ごめん。可愛い頃の大吾……見せてあげられなくて……」
「今だって十分可愛い。俺より大きくたって、十分可愛いよ」
「うう……うううー……」
そんなに優しくしないで、大輔くんが優しい人なのは知ってたけど、今はそうされる方が辛い。
「泣かないで、サトちゃん……」
子供の様に泣く私の背中を大輔くんはそっと擦ってくれる。
沢山あった。この瞬間を貴方と分け合えたらと思った事が。大吾が初めてハイハイをした日、初めて立った日、『かあ……あめ……』と空を見上げた日、『すきすき』と頬を摺り寄せキスをしてくれた日、『あったかいね』と小さな布団を分け合った日……
「一杯……見せてあげたかった……大輔くんに……」
あの、かけがえのない日々を……
「……写真、ある?」
「ある!」
慌てて立ち上がり、涙を拭いつつアルバムを取りに寝室に入った。
リビングに戻ると、柔らかく微笑む彼が手を差し伸べてくれる。
「これ、生まれたての大吾。病院で看護婦さんが撮ってくれた」
「3150グラム?」
「そう、私のキャッシュカードの暗証番号にしてる」
「はは、成程。こっちは?」
旅館の女将さんや仲間たちが撮ってくれた写真。おむつ替え、産湯、授乳中の私を背中から撮った写真。お宮参り。料理長が腕を振るってくれたお食い初めのお膳。小さなプールではしゃぐ大吾。旅館の皆と別れるのを寂しがり、泣きじゃくる大吾。七五三、祖父の膝で寝てしまった大吾。祖母の肩を叩きながら大きな口を開けて歌う大吾。
「愛されてたんだね。大吾は沢山の人に」
「うん。うん」
「もう、泣きすぎだろ」
彼の指が私の涙を拭う。
「大丈夫?」
「え?」
「こんなに可愛がって育てた息子を、彼女に持ってかれて」
「……私にそんな事言う権利無い」
「は?」
「あの子から父親を取り上げた私に……」
「こら、そういう事を言わない」
「しかも、考え無しの行動で、息子から彼女を奪いかけてるし……」
「……やっぱり、上手く行ってないの? 今朝見かけた時、すごく暗い顔してたけど……」
「メールで振られたみたい」
「メールで……」
それはむごい、と言わんばかりに顔をしかめる。
「あの……変えないで……」
「え? 何が?」
「大輔くんの……性格も、顔も、名前も……」
全部。
「……それは、俺を受け入れてくれるってこと?」
「というか……むしろ、大輔くんはこんな私を受け入れられるの?」
「こんな私って……俺のサトちゃんを悪く言うのはやめてくれる?」
ふざけたように、眉間に皺を寄せる彼の瞳が潤んでいる。
「ちゃんと聞いてた? 俺が君を好きだってこと。一生一緒に居たいってこと」
「でも……」
「もう返事は聞かない。俺のものになってもらう。今、この時から」
「……」
「良いね?」
頷く前にぎゅうっと抱きしめられて、また涙が溢れてきた。
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