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この世界のどこかに  作者: 碇 カマス


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32/56

32、眠れぬ夜

+-+-+-+-+


 彼女が逃げたならまた追いかければ良い。それで一生を棒に振ったって構わない。彼女が俺を選んでくれるまで、何だってしよう。


 これからの人生を好きな女と生きたいと思って何が悪い? 彼女が逃げることが怖くて思いをぶつけずにこのまま老いていくつもりだったのか?

 

 その夜、彼女が店仕舞いを終えて出てくるのを、向かいの喫茶店で待った。


 彼女が千奈美さんに手を振り、ガレージを降ろしたところを見計らって店を出た。


 駅に向かおうと向きを変えた彼女が俺に気付き凍り付く。


「話がしたい」

「私はしたくない」


 足早に俺の横をすり抜ける。


「どうして?」

「貴方がそんな人だとは思わなかった」

「そんな人?」


 どういうことだ?


 手を掴もうとすると振り払われた。


「不倫とか最低だと思う!」

「……は?」


 怒りに歪んだ顔が振り返って俺に詰め寄る。


「誠実な人だと思ってたのに」


 待て、俺は何か見落としていたのか? 彼女は、結婚しているのか?


「しかも、私の息子が見ている前で堂々とあんな事言うなんて恥ずかしくないの?」

「……つまり、別れたってのは別居してるって意味で、籍は抜いてないってこと?」

「は? 何の話?」

「誰かと結婚してるんだろ?」

「してるでしょ?」

「え?」

「自分の奥さんと子供さんの事、どう考えてるの?」

「……俺の?」


 混乱してきた。


「どう考えてる……って……」


 どういう意味だ?


「まさか芙沙子さんを捨てるつもり? それとも、私を愛人にでもするつもり?」

「芙沙……え?」

「とにかく頭を冷やして。もうお店に来ないで。二度と会いたくない」


 去ろうとする彼女の手を思わず痛いほどの力で掴んでしまった。


「放し」

「俺は結婚なんかしていない!」

「え?」

「ただの一度も」

「……」

「どういう事?」


 彼女の顔が泣きそうに歪む。


「じゃ……身重の芙沙子さんを……大輔くんは見捨てたってこと?」

「は? 身重? 芙沙子が? 誰の子?」

「大輔くんに決まってるじゃない!」


 盛大に固まってしまった。


「痛い。放して……」


 手を緩めると彼女は手首を擦りながら俺を睨みつけた。


「俺の子を芙沙子が……? どうやって?」

「そんなの自分の胸に聞きなさいよ!」

「サトちゃん、良く聞いて。そんな事実はないし、勿論そんなことになるような行為もしていない。あの女とは手を繋いだこともない」


 一方的に体を摺り寄せられたことはあるが。


「え?」

「あいつがそう言ったのか? 俺の子を身ごもっていると?」

「……違うの?」

「サトちゃんが居なくなった後、あいつは俺の所にやってきて、君に前から何度も金を無心されていたと言った。挙句、大金を工面してやると、男と逃げたと」

「それは……大輔くんに私を諦めさせるために仕方なく……」


 先ほどまでの勢いは影を潜め、サトちゃんの声に力は無かった。


「サトちゃん。アイツに何を言われたんだ? ちゃんと教えてくれ」

「ホントに……芙沙子さんのお腹に赤ちゃんはいなかったの?」


 そう言って喘ぐように俺を見上げた彼女の体が、ふらりと後方に傾いだ。


「嘘……嘘……」


 とっさに肩を掴み、無言のまま駐車場まで誘導した。


 ふらつく彼女を助手席に座らせ、自らも運転席について深呼吸をしてから再度語り掛ける。


「もう一度言う。俺は芙沙子と関係を持ったことはないし、結婚もしていない。勿論子供もいない。いや……いるよね? 大吾は俺の子だろ?」


 駐車場の乾いた照明に照らされて、青白い顔をした彼女がぎゅっと目をつむった。


 未だ信じられないと言うように小さく頭を振り、うつむいたまま口を開いた。


「卒業式の日……校門のところに芙沙子さんが立っていて……。話があるって……喫茶店に行って。大輔くんの子供がお腹にいるって……」

「俺が君と付き合いながら、他の女に手を出すと思ったの?」


 辛抱強く聞こうと思うのに怒りが湧いてくる。


「……私がいるから身を引こうと思ったけど……どうしてもって……一度だけとお願いして……抱いてもらったって……」


 当時の事を思い出しているのだろう。ゆっくりと開いた瞳はどこかうつろだった。


「……芙沙子さんはとても優しくて、親同士の決めた婚約者だから、気にしないでって……大輔さんは貴方の事が好きだから……自信持ってって……。強がりだったんだなって知って……。彼女、お腹の赤ちゃんを父親の無い子にしたくないって凄く泣いて……。私が大輔くんの近くに居る限りきっと捨てられるって……謝りながら、身を隠して欲しいって……」

「君のお腹の中にこそ赤ん坊がいたのに?」

「その時は、まだそうとは知らなかったから……」


 そう言われても怒りは増すばかりだった。


 分かっている。芙紗子を怖いと気付いたのは俺だけで、母も父さえも、優しくて気立ての良いおしとやかで穏やかなお嬢さんだと信じて疑わなかった。そもそも俺も、芙沙子が彼女にコンタクトを取っていたことさえ、気付きもしなかった。


「自分も妊娠してるって気付いてからも、俺に連絡しようとしなかったのはどうして?」

「……二度と姿を現さないって、約束したから」


 俺との約束は? いつか、指輪を受け取ってくれるはずの、あの約束は? 


「家まで送るよ」


 この二十数年間はなんだったのだろう? たった一人の女の妄言に振り回され、彼女は家を出た。そして俺も、芙沙子の正体に気付かない親に失望し、子供じみた態度で家を捨てた。


 確かに、信じるに足る男ではなかった。駆け落ちも辞さない、と生活力もないくせに粋がって、二人で居さえすれば、バラ色の人生が開けると信じ込んでいた。


 けれどもし、もし彼女が俺を信じてくれてさえいればと、考えずにはいられない。


 無言の二人を乗せて、振り切れない虚しさをいとう様に、車は夜道を突き進んだ。



+-+-+-+-+


「で、何でこんなとこに来てうらぶれてるんだ? 真実が分かって次にやる事は決まってるだろ? やっと目が覚めたんじゃなかったのか?」


 彼女を家まで送り届けた後、どう気持ちを収めて良いか分からず、弦三叔父さんの自宅に押し掛けた。


 事の成り行きを聞いてもらい、少しでも気持ちを整理できればと思った。


「二十数年ぶりに真実を知って彼女も途方に暮れてる。話をできる状態じゃなかったから、取り敢えず家まで送って来た」

「で? なんでそんなに元気がないんだ? 」

「俺が信じるに足る人間じゃなかったことは分かってるんだ。けど、あんな女の嘘で彼女が姿を消したことが……。俺に一言確認してくれてさえいれば……。今更言っても仕方ないし、彼女は悪くないと思うのに、責めてしまいそうで怖い」


 愕然とする彼女をいたわるどころではない。自分の気持ちをどうすれば良いのか激しく混乱していた。


「しかし、ある意味お前の想像していた通りじゃないか。その芙沙子とか言う女に吹き込まれた嘘で彼女は姿を消したわけだろ?」

「うん。分かってるんだ。分かってるんだけど、俺が浮気をしたとか、あの女と所帯を持ってるとか……ずっとそう思われてたのかと思うと……」


 果てしなく気分が沈む。


「大ちゃんを信じられなかったとか、そういう事なのかしら?」


 ゆるゆるとお茶を淹れながら、時子叔母さんは凛とした眼差しを俺に向けた。


「え?」

「はい、どうぞ。カフェインレスのお茶。今は便利な商品が沢山あるわね」

「ありがと……」


 じゃなくて、と言いかけるとふーっとお茶を冷ましながら叔母さんは口を開いた。


「その芙沙子とかいう女性のこと、とても優しい人だと聡美さんは思ってたんでしょ? 」

「……ああ、そうらしい……」

「そしてその女性が、お腹の子を父親の無い子にしたくないと泣いた」

「うん」

「聡美さんがその時一番に考えたのが、その赤ちゃんの事だったってだけの事じゃないの?」

「え?」

「普通の女性なら、浮気した男に食って掛かるわよ。私ならふざけんな、って張り手を喰らわしてるわ。身を引くにしても、一言言ってやらなきゃ気が済まない。でも聡美さんは……」


 聡美は?


「聡美さんは、貴方が裏切ったとはつゆほどにも思わなかった。哀れな芙沙子さんを、優しい貴方が同情で抱いたと信じて疑わなかった。そして、赤ん坊の為に、身を引いた」


 ただ、居もしない赤ん坊の為に?


 そうだ、彼女ならありる話だ。そんなところもひっくるめて、愛したのだから。


 時子叔母さんにそう言われて、自分の視野の狭さに眩暈がした。


「俺よりも、あんな女を信じて、と怒るのはお門違いよ。何しろ、大ちゃんに関わったばっかりに、聡美さんは人生を大きく狂わされたんだから」

「時子、その辺にしとけ。こいつ立ち直れなくなる」


 頭を鈍器で殴られた気分だった。いや、いっそ殴ってくれ。


「大輔、泣いてる場合か」

「泣いてません」

「しかもその後、自分の妊娠が分かって、慣れない土地でどれだけ心細かったことでしょう。良く産む決心をしたと思うわ。18だったんでしょう? 彼女」

「時子、だからもうその辺に……」

「まあでも、不幸中の幸いね」

「え?」

「もし、その時すでに聡美さんが自分の妊娠に気が付いていて、それを芙沙子とか言う女に一番に話していたらどうなってたと思う?」

「どうって……」

「親切ごかしに相談に乗るふりをして、彼女を中絶させてたかもよ」

「……まさか……」

「可能性の問題だけど、1000万持って人を失踪させようとする女よ? 」


 普通じゃないでしょ?


 時子叔母さんの眼は笑っていなかった。


 芙紗子の、一見はかなげな笑顔を思い出し背筋が寒くなった。



+-+-+-+-+


 

 消えてしまいたい。ずっと信じていたことが、全て嘘だったなんて。


 この二十数年間、事あるごとに芙沙子さんとその子供の幸せを祈った。それは大吾の成長とリンクしていて、検診や行事の度に、元気にやっているだろうかと懐かしく思い出した。女の子だろうか? 男の子だろうか? 寝返りは打ったろうか? 歯は生え始めただろうか? 最初に呼んだのは『ママ』だろうか『パパ』だろうか? 大輔くんなら、きっと子煩悩に違いない。もしかしたら、兄弟が生まれているかも知れない。

 大吾にも兄弟をと思わなくもなかったが、その為に誰かと結婚するのも違う気がして、女手一つでここまで来た。教えてあげることも、会わせてあげることもできないけれど、アンタにも兄弟がいるのよ、と心の中で思っていた。


「ただいま……」

「……おかえり」

「電気位つけなさいよ」


 リビングに膝を抱えて座る息子。ああ、そうだった。私が急に会社に押し掛けたばかりに、彼女とおそらくややこしい事になってしまったのだろう。


「……今日……ごめんね」

「何だよ。分かってるよ。俺が黙ってたのが悪いんだろ?」

「ごめん……」

「焦ってたんだよ。強力なライバルがいてさ……、正攻法を取ってる場合じゃなかったって言うか……何で泣いてんの?」

「ごめん。母さんが悪い。母さんが……」


 アンタから父親を取り上げた。


 なのに大吾の彼女が芙沙子さんの娘かもとか、頓珍漢な勘違いばかりして。


 こんな母親最悪だ。



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