21、距離
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午後8時30分。エレベーターを降りて鉢植えの陰からエントランスを覗くと、作業に勤しむサトちゃんと千奈美さんが見える。会社の中に彼女がいると言う状態が、何かファンタジーのキャラクターが現実に紛れ込んだ様で、不思議にさえ感じる。
ノー残業デイである今日はすでに社員も帰った後だ。総務も花の件は警備員に申し送りして早々に退社している。店は確か7時までだったから、閉店作業を終えてから準備してここに来てくれたのだろう。遅くまで仕事をさせることになって申し訳ない。てきぱきと花を挿し、時折言葉を交えながら楽し気に作業する二人を見ていると、仲の良さが垣間見えて羨ましくなる。あれ以来、見ることが叶わなかった彼女の笑顔がそこにある。
「社長、覗き見ですか?」
背後からいきなり囁かれて驚く。
「げ……弦三叔父さん……」
「ノー残業デーに社長が会社にいちゃ、示しがつかんだろうが」
「……叔父さんこそ何してるんです?」
「そんなの決まってるだろ? わが社の社長の間抜けな姿を観察中だ」
「帰れ」
「言われなくても帰る」
目の高さまで通勤バッグを上げて見せ、情けない俺を尻目にエントランスに向かった。
「やあやっぱり思った通りだ。良いねえ」
叔父さんは何の衒いもなく親し気に二人に話しかけた。
「あ、今晩は……」
「あれ? こちらにお勤めですか?」
二人共驚いたように彼を見ている。
「うん」
「もしかして、このお仕事をご依頼いただいたのは……」
「ああ、総務で良い生花店を知らないかと聞かれてね」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「いやいや、遅くまで申し訳ないねえ。じゃ、僕は帰るけど宜しくお願いしますよ」
「はい。失礼します」
「失礼します」
片手を柔らかく上げてわが社の専務は帰って行った。
何だよ。一人株を上げやがって……。そんなに頻繁に店に通っているのだろうか? すっかり上得意みたいな扱いじゃないか。そう言えば弘樹も店に来ていたと聞いた。俺の後をつけるとか、どういう了見だ? 人の恋路を何だと思ってるんだ。あれ以来、ウチには来ていない。電話しようかとも思ったが、変にこちらからアクションを起こすと、突っ込む隙を与える様でよろしくない。他に言いふらさないのを祈るばかりだ。
「びっくりしたね」
「うん。まさかあのお客様の会社だったとは……」
「役員かな?」
「っぽいね。社長かも」
社長は俺だ。と出ていきたいのをぐっとこらえる。ここで出て行ったら、叔父さんの事もこの仕事のことも俺の仕込みだと思われてしまう。
いや……待てよ。その気になればこの会社の社長が誰かなんて簡単に調べがついてしまう。二人が知ってから弁明しても信じてもらえないかも知れない。そうなる前に一芝居打っておくべきじゃないか?
そう思い至ると慌てて社長室に戻り、帰り支度をしてエントランスに降りた。
速足で無人の受付を通り過ぎ、花を活けている二人の横で立ち止まる。
「……」
「……」
千奈美さんと目が合った。
「あれ?」
時間をかけて、状況が把握できないと言う表情を作る。
「え? 千奈美さん!?」
「あ……」
「サト……大江さんも!?」
「……あ……」
白々し過ぎるか? 初めてお店に行った時も、自分の三文芝居にハラハラしたが、何とか怪しまれずに済んだ。兎に角、意外な人に意外なところで会ったと言う顔を崩さずに突き進まなければ。
「神崎さん……」
「あれ? ああ、総務がお願いした生花店さんて……あなた達のことだったのか……」
「え? ここって神崎さんの勤めてらっしゃる会社なんですか?」
「うん。エントランスが殺風景だから、花を置きたいって報告は受けてて……二人のところにお願いしたいなと俺は思ったんだけど、報告が上がってきた時には業者がすでに決まってるって聞いたから……」
「内のお客様がこちらの役員さんだったようで、ご紹介いただいたんです」
「そうか、それは良かった」
話すのは俺と千奈美さんばかりで、サトちゃんは千奈美さんの後ろに隠れる様にただ佇んでいる。
「良いね。やっぱり花があると、室内自体が明るくなったように思うね」
俯き加減の彼女から目を離して盛花に目をやる。
「ありがとうございます」
「そろそろ終わりそう?」
「はい。もう少し整えて、周りを片付けたら終わりです」
「じゃ、宜しくお願いします。先に帰って申し訳ないけど」
「とんでもありません。今後ともよろしくご愛顧のほどを」
「こちらこそ」
「お疲れさまでした。失礼します」
「失礼」
笑顔を崩さずに、二人に会釈して会社を出た。
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「聡美。何かあったからその態度なんだろうけどさ、仕事とプライベートは分けようよ」
彼が出て行ったのを確認すると、千奈美は花を整えながらそう言った。
「……そうだね。ごめん」
「ま、驚いたけどさ私も」
「うん……」
「折角もらったコンスタントな仕事だし、こんな風にまた神崎さんに会うこともあると思うし、ビジネスの仮面を被ることは可能でしょ?」
「うん」
「なるべく私が矢面に立つようにするからさ、そんな暗い顔しないでよ」
「ごめん。千奈美に負担かけないようにする。もう気にしないでいて」
不要な葉や茎を取り除きながら、何とか笑顔を作った。
本当に驚いた。まさかここで彼に会うなんて。店に時折訪れる客としてなら、その内足も遠のくと単純に考えていたが、これから上得意となる会社の関係者なら、そうもいかない。
「ちょっと待ってよ……」
千奈美が一瞬考え込んでからエプロンに手を突っ込み、携帯を取り出すと、何やら操作し始めた。
「あー……やっぱ、そうか……報告は受けてるって物言いはそうだよね」
私の方に千奈美が見せた携帯の画面には、ここの会社名と社長という検索ワード、そしてその下に代表取締役社長 神崎大輔と言う名前とかしこまった彼の写真が映っていた。
「社長さんだね」
「そか……」
そう言えばどこだかの会社の社長の息子だった。お父さんが亡くなったと言っていたのを今更ながら思い出す。無事に後を継いだのだろう。
遠いな、と思った。こんな立派な会社の社長と、私。
心配はない。彼と私の人生が交わることなど、もうない。
「さ、さっさと片付けて帰るか!」
「うん! お腹すいた!」
努めて明るい声を上げて、掃除に取り掛かった。
エントランスホールは花の匂いに包まれて、静謐な空気に満ちている。頭を切り替えるべく、胸いっぱいに香りを吸いんだ。
沢山の方がこのお花を楽しんで下さいますように。それだけを考えて。
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