2、フラワーショップ
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幻か? 会いたさのあまり幻影が見えるようになったのか? はたまた良く似た別人?
朝、たまたま入った喫茶店でお茶を飲みながら何気なく外を見ると、向かいの花屋の店員が店頭に切り花をテキパキと並べていた。重そうなアンティーク調のバケツを楽しそうに運び、少し離れてはその色彩のバランスを確認しているようだった。
彼女に似ている。
まただ。きっとまた勘違い。
いったい何度それを繰り返したことだろう? 繁華街で、駅で、コンサート会場で、美術館で、もしやと何度振り向いたことだろう? 強引に顔を覗き込んでは落胆し、何度頭を下げた?
花屋の女性は作業を終えると大きく伸びをして、コチラを振り返りながら空を見上げた。
心臓が止まるかと思った。
きっと違う。良く似た他人だ。少し距離があるし、もう二十数年が経っている。顔だって髪型だって随分変わったはずだ。
そう思いつつも、気が付けば飲みかけのコーヒーを置いて、会計をすまし店を出ていた。
怪しまれてはいけないと花屋の隣の本屋に身を潜め、雑誌をめくりながら背中で彼女を伺った。
「さとちゃん、おはよ!」
すると花屋の店の奥から小さな女の子が飛び出してきて、彼女に纏わり付いた。
今、女の子は彼女を確かに『さとちゃん』と呼んだ。
ドッドッドッと心臓が早いリズムを打つ。
彼女の子供だろうか? 結婚をしているのだろうか?
「ゆうちゃん、朝ごはん食べた?」
「食べた。パンとね牛乳とねバナナ」
「あ、こらゆう! ちゃんとカバン持ちなさい!」
更に中から、幼稚園の通園バッグを持った女性が出てくる。
男性ではなかった事に小さく安堵のため息をつく。きっとこの女性がこの少女の母親だ。どことなく顔が似ている。
「早く乗りなさい。じゃ、サトミ、ゆうを送ってくるからお願いね」
「うん。気をつけてね」
「うん」
「行ってらっしゃい」
「さとちゃん、行ってきま~す」
店の前に停めてあった自転車に乗ると、彼女を残して女性と“ゆうちゃん”は去っていった。
さとみ! 聡美と言った。
興奮で目眩がした。
サトちゃんか? 大江聡美なのか?
店の中に入って行く彼女を横目で追いながら、僕は雑誌を本屋の棚に戻し、再びさっきの喫茶店に入った。店員がいぶかるような目をしたが、お構いなしに窓際の席に陣取ってコーヒーを頼んだ。
落ち着け、落ち着け。呪文の様に繰り返す。
突然彼女の前に姿を表して、また逃げられてはいけない。ココが彼女の職場だとして、まずは住居を特定しなければ……ああ、それにしても忌々しい。そろそろ出社しなければ。
コーヒーを飲みながら僕は、懇意にしている興信所に電話を掛けた。
「もしもし神崎だ。調べて欲しい事があるんだが……」
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『大輔さん、聡美さんてあんな女性だったのね。ショックだわ!』
聡美と連絡が取れなくなったあの日から数日後、芙沙子が尋ねてきてヨヨと泣き崩れた。
曰く『好きな男が別にいてお金に困っているって言うの。力になりたくて言われるがまま1000万円の小切手を切ったのだけど、良く良く考えればそれは大輔さんへの裏切りよね? ごめんなさい。私、馬鹿だったわ。』
始めは何を言われているのか分からなかった。
『大輔さんと言うヒトがいながら、聡美さんは他の男性と駆け落ちしたのよ。聡美さんがそんな人だったなんて……』
呆然とする僕に芙沙子は畳み掛けるように、あなたは裏切られたのだと繰り返した。
「1000万の小切手? サトちゃんと……彼女と会ったのか?」
「ええ、彼女から連絡してきて、困ってるから助けて欲しい、って」
「なぜ、彼女が芙沙子さんの連絡先を?」
「……実は……前にお会いしたことがあって……」
「いつ? どこで?」
「詳しくは忘れたわ。でもそれ以来、時々お金を無心されてたの。大輔さんの大切な人だし、無下にはできないと言いなりになってたのが良くなかったわ……」
嘘だということはすぐに分かった。3年生になってもバイトを掛け持ちし、家計を助けていた彼女がそんなことをするはずがない。
被害者を装って平気で嘘をつく芙沙子にゾッとした。同時にそんな女性を許嫁にと勧めた母にも不信感が募るばかりだった。
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『幸せでさえいてくれれば』などという境地に勿論最初からなれたわけではない。
彼女の実家に何度も通い。娘が失踪してただでさえ不安な両親を長い間煩わせた。(捜索願いを出したが本人の書き置きがあることもあって、警察は取り合ってくれなかったらしい。)
彼女と接触した筈の芙沙子に詰め寄り、行方を白状させようとしたが『知らない』の一点張りだった。
あまりに辛くて何も手に付かず、情けないことに大学を留年した。
不甲斐ない僕に友人は言った。
『ボンボンは良いよな。罪悪感もなく留年できて。』
お陰でやっと目が覚めた。彼女と再会した時、恥ずかしくない自分であらねばと。
思えば生活力もない親の脛かじりのくせに『俺に永久就職』だのバカなボンボンの言いそうなことだ。友人に誘われて遊び半分にバイトをしていた自分とは違い、彼女はいつも給料以上の仕事をしていた。だからこそ眩しかったのだと、今更ながら気付く。
何の苦労も無く生きてきた自分に彼女が与えてくれた試練なのだ。
そう思うことでなんとか前を向くことができた。
大学卒業と同時に家を出た。
在学中にバイトで貯めた金でワンルームのマンションを借り、父の会社とは何の関係もない企業に就職した。
気の強い母が珍しく泣きながら引き止めたが聞く耳を持たなかった。
『少しは母さんの言い分も聞いてやれ。アレの物言いがキツイのは性分だ。お前の彼女とやらが姿を消したのは芙沙子さんのせいなのかも知れないが、それを母さんが示唆したとは俺には思えない。』
父にもそう言われたが、気持ちは変わらなかった。
『それはもうどうだって良いんだ。彼女に恥ずかしくない、自立した男になりたいだけなんだ。』
そうは言ったが、拭い去れない母への不信感が実際は僕の背中を押していた。何より『金を無心して男と逃げた』と言う芙沙子の話を、鵜呑みにする母が許せなかった。
それからは仕事に没頭した。新人のくせにしゃかりきすぎると呆れられた程だ。新しい環境は僕にとってありがたかった。覚えなければいけないことやしなければいけないことが公私共に増え、悲しんでいる時間はめっきり減った。
とはいえたまの休みにはよく一人で旅に出かけた。運良く彼女を見つけられないかと観光地でもない土地にも足を伸ばした。
実家には一切寄り付かず、このまま縁を切って生きていくつもりだった。
ところが、数年前に父が他界した。
絶対に後など継がないと思っていた会社だったが、疎遠にしていた父が急死したことはやはりショックだった。十数年ぶりに見る母は痩せこけていて、すっかり年老いていた。自分だってすでに中年と呼ばれる年だ。そんなに時間が経っていたのかと愕然とした。憔悴した母を捨て置けず、結局会社を継いだ。
社長に就任して数年が経つ。行きつけの喫茶店が急用で閉まっていたので、そこから数十メートル先の喫茶店に入った。
こんな所に花屋があっただろうか?
そう思って目を凝らした先に彼女がいた。
何と声を掛けよう。いや、もしまた逃げられたら今度こそ立ち直れない。
興信所で調べてもらい、彼女が確かに大江聡美と言う名の女性であること、ほんのひと月前に友人の竹下千奈美の自宅一階を改装して、共同で生花店をオープンしたこと、そして自宅を突き止めた。
すぐにでも会いに行って、なぜ自分の元から去ったのか問い詰めたかった。
けれど、未だ彼女に未練を抱いていると知ったら彼女はまた逃げ出すかもしれない。
どうしても、この再会を無駄にしたくなかった。
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店頭の花を眺めながら店の奥を伺うと、中から彼女の友人の竹下千奈美が出てきた。
「何かお探しですか?」
「ああ、花束を……」
「ご予算は?」
「……すいません。花束なんて買ったことがなくて……」
「お祝いですか? プレゼント?」
「いえ……あの……家に飾ろうかと……」
何も考えていなかった。しどろもどろになっていると、にっこり笑った千奈美が「お任せでよろしいですか?」と言った。
「え? あ、はい」
「何も特別なことが無くても、家に花があるって良いですよ。きっと奥様も喜ばれます」
「は? いえ……」
「ご自宅でちょっと飾るだけなら、2千円から3千円くらいのご予算でどうでしょう?」
「は……ではそれで。お任せします」
「ありがとうございます。どうぞ店内へ」
促されて、深呼吸をしながら店に足を踏み入れた。
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