16、新しい思い出
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「どうしたの? 私、なんか変な事言った?」
「いや……暑いなと思って……」
赤い顔を悟られない様に外に視線を外した。
「そうだね、クーラー効いてるんだろうけど、釜めし屋さんだから火口が多いだろうし、調節が難しいのかも」
「かな?」
厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。何となく無言で二人お茶をすすった。
室内の灯りのせいか彼女の右手首に巻かれた包帯がやけに白く感じる。
「痛みは?」
「え? ああ、うん。なんか大げさよね。湿布がはがれちゃうから包帯巻いてるだけなんだけど……。痛みはそんなでもない。腰も……。湿布の匂い気になる?」
「ううん」
それから間もなくして「お待たせしましたー」と元気な声と共にお膳が運ばれてきた。
嬉しそうに彼女が釜の蓋を開ける。湯気の中の笑顔がまた可愛くて、彼女がこっちを見ていないのを良い事についつい見入ってしまう。
「美味しそう!」
「美味しそう……だね」
「開けて開けて、大輔くんのも」
え。
「わ、山菜が一杯入ってる」
言われるがままこちらも蓋を取ると、嬉々として覗き込んでくる。
今、大輔くんと言った。
「サトちゃんのも具沢山だね。美味しそう」
鶏肉やウズラの卵と舞茸がふんだんに混ぜ込まれている。
無意識だろうか? それとも二人の時はそう呼んでくれるとか?
「うん。良い匂い」
「確かに」
「真夏にアレかなと思ったけど、ついつい冷たいものばっかり摂っちゃうから、こういうのもアリだね」
「そうだね」
小さなしゃもじで釜の中を混ぜてから茶碗によそう。添えてあった刻みのりをかけると彼女は小さく手を合わせた。慌てて、それに倣う。
眼を見ながらいただきますと声を合わせると「給食みたい」とはにかむように笑った。
椀物の蓋を取ると三つ葉と柚子の香りが立ち上る。
もう彼女との思い出が増えることなどないだろうと、ついこの間まで諦めていたのに。些細な一つ一つが現実なのだと思うと未だに涙がにじみそうになる。
「美味しいね」と言うと「美味しいね」と返ってくる。それがこんなに幸せな事だったとは。
「ね、半分こしない?」
「え?」
「……あ、いや……あの……ごめん。つい……ほら色々な味がたべられるでしょ。だから……」
「うん。良いね。じゃお茶碗貸して」
こちらの釜めしをよそって渡すと恥ずかしそうに受け取る。
10代の頃と変わらず食いしん坊のようだ。鳥の餌ほどにしか食べない他の女の子とは違っていて。サトちゃんと食事をするのはあの頃もとても楽しかった。
「じゃ、だ……神崎くんのも……」
あれ? また神崎くん? さっき大輔くんと言ったのはやっぱり無意識?
お茶碗を渡すと大盛りでよそってくれる。嬉しくて感動していると、受け取る時にうっかり彼女の指を撫でてしまった。一瞬呼吸が止まる。
「……ありがと」
「どういたしまして……。あ、こっちも美味しいね」
「良いね。こうやって分け合って食べるの」
家族みたいで。
「ところで……サトちゃん。何で苗字?」
「え?」
なるべく何でもない事の様に、釜めしをかき込みながら尋ねた。
「昔は下の名前で呼んでたのに……」
「……下の名前で呼んで……良いのかな?」
「え?」
「いや……ちょっと馴れ馴れしいんじゃないかなと……」
「……もしかして俺がサトちゃんて呼んでるのも馴れ馴れし過ぎるって思ってた?」
「それは……馴れ馴れしいとは思わないけど……千奈美の前とかでは恥ずかしいなって思ってた……」
そうか……
「……でも……あの隣の本屋さんのことは……下の名前で呼んでたよね」
笑顔だ。自然な笑顔を作れ。すねてるとか絶対に思われたくない。
「ああ、達郎さんは息子さんだから……」
「え?」
「店主の木下さんのことは【木下さん】て呼んでて……両方木下さんだから紛らわしいでしょ?」
「あ、ああ。そういう事」
良いじゃないか紛らわしくても、両方木下さんで。ジュニアとかなんとか呼べば。
「でも結構親しいんだよね? 彼の方もサトちゃんを名前で呼んでたし……」
「……多分、私の苗字を知らないからじゃないかな?」
小鉢の白和えを口に運びながら彼女は首をかしげた。
「知らない?」
「千奈美が私の事を呼んでるのを聞いて、覚えたんだと思う」
「……へえ。そうか」
本当だろうか?
「じゃ、千奈美さんのことも彼は名前で呼ぶの?」
「ううん。あの家はもともと千奈美が旦那さんと建てた家で、改装するまでは普通の家だったの。当然普通に表札も出てたし、ご近所だったから面識もあったと思う。だから苗字で【竹下さん】て呼んでるわよ」
それはおかしくないか。同じ花屋の店員の一人を竹下さんと呼び、もう一人を聡美さんと呼ぶ。不自然だ。
「人前では、苗字で呼んだ方が良いかな?」
「……ま、千奈美の前だともう今更かなと思うけど……」
「そか……」
「下の名前で呼ぶなら、ちゃん付けよりはさん付けか呼び捨ての方がまだ、恥ずかしくないかな……」
あの末成りの前で咄嗟に呼び捨てにしたことは怒ってないと言う事か?
どちらにしても、あれも大人げなかった。
「はい。善処します。てか嫌だったんなら言ってくれればいいのに」
「嫌って言うか……まあ、恥ずかしいだけで……」
もぐもぐと口を動かしながら彼女は目を反らした。
嫌じゃないんだよな? 俺と居ることも。何しろ食事に誘ってくれるくらいだから。嫌いな相手と食事なんてしたくないだろうし、さすがにそれだと表情で分かる。
仕事上なら嫌いな相手にそうと気付かれないような態度で接することもあるが、プライベートなんだから……。
いや、待てよ。彼女にとっては俺は一応客でもあるのか……。
いや違う。そう思ってるなら、買い物を手伝ってくれなどとお願いしてくるはずがない。困ったときに頼っても良い相手として認識してくれているのだ。ただの男手だとしても嬉しい。
「美味しかったね。お腹いっぱい」
「うん」
二人でお膳をきれいに平らげて店を出た。
「なんか悪いな。ごちそうさま」
「どういたしまして。昨日もお世話になったし、ご飯おごるくらいじゃ足りないとは思うんだけど……」
お礼も兼ねてここの支払いは自分で持つ、と言うので彼女にご馳走になった。
払いたかったのに、休日に駆り出したことを余程申し訳なく思っている様子だ。
「十分だよ。だから次はおごらせて?」
「え? いやいや……それは悪いよ。せめて割り勘にして」
「まあ、要相談てことにしとこうか」
本当は次があるならどっちだって構わない。
助手席のドアを開けて、彼女を中に促した。
「車のドア開けるくらい出来るよ」
「いいから乗って」
陽に焼けた車内に乗り込むと、彼女が時計をチラチラ気にしている。流石に長居し過ぎただろうか?
「じゃ帰ろうか」
彼女の家まで。
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