10、幸せの香り
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かぐわしい花の匂いに包まれて目が覚めた。
とても幸せな夢を見ていた。
夢か? 夢だったのか?
胸中を不安が覆いかけた時、ベッドサイドの花を目がとらえた。視線で彼女の作ってくれた花束の輪郭をなぞる。
良かった。現実だ。
花瓶の横に手を伸ばし、携帯電話を手繰り寄せる。そうして昨夜彼女から届いたメールをもう一度開いてみる。
>遅くなりました。お花を長持ちさせる方法ですが……
と始まる文章を、昨夜は何度も読み返した。
>お水は毎日換えて下さい。その都度花瓶も洗って下さい。お花は枯れたり傷んだりした葉や花を取り除き、水切りしてから花瓶に挿して下さい。延命剤を使えば更に長持ちします。
水切りとは何だろう? 延命剤も。今度行った時に聞いてみよう。
昨夜はとりあえず、花瓶を洗って新しい水に花を挿した。
>ありがとう。また分からないことは質問します。おやすみなさい。
再会できてうれしかった事や無事で居てくれたことへの感謝を何度も文章にしてみたが、上手く表現することができずに断念した。
そもそも仕事以外で電子メールを使ったことがない。ビジネスなら簡潔に失礼や誤解のないように、と組み立てられるものを、私的なメールはそうは行かないと初めて知った。
けれどそれも嬉しい悩みだ。
その後、彼女から
>おやすみなさい。
の返事が届いて、ベッドの上で転げまわった。メールの文字に口づけて、嬉しくて嬉しくて叫び声をあげた。みっともないかも知れないが構わない。
彼女と再会して、それまでの自分の風景がモノクロームだったと気付いた。彼女を失った後もそれなりに頑張って生きて来たつもりだったが、色あせた日常が当たり前になって久しい。彼女の存在を確認できた途端、突然色や光があふれ出した気がする。
おはようとメールしたら驚かれるだろうか?
いや、花屋の仕事は早いだろうから、彼女はとっくに仕事をしている最中だろう。土曜日だが、休みではないはずだ。そう言えば定休日はあるのだろうか? デート……いや遊びに誘うことは可能だろうか?
まずはサトちゃんとの距離を縮めて、次に息子を攻略。しかし弦三叔父さんの言っていた『犯罪にならない程度に』というのはいただけない。自分の幸せのために強引な手立てを使うなんていかがなものか。彼女の望まないことはしたくない。もしサトちゃんが縒りを戻しても良いよと言ってくれたとしても、息子が嫌がるようなら最悪結婚はできなくても良い。彼女が板挟みになるようなことになったら、申し訳ない。
いや、そもそもサトちゃんに友達のままで居よう、と言われる可能性も多々あるわけだが……。
どんな息子なのだろう? 母親似で小柄な感じだろうか? それとも別れたご主人に似ているとか? そもそもなぜ別れたのだろう? いつか尋ねることができるだろうか?
とりとめもなくベッドで考えを巡らせていると、いきなり寝室のドアが開いた。
「!」
「腹減った。メシ」
そうだった、忘れていた。昨夜遅くに、従弟の弘樹が泊まりに来ていたんだった。
「じーさんみたいにいつも早起きのクセに、どしたの?」
泊まらせてもらっといてなんだその言い草は。
「お前、終電逃す度に泊まりに来るなよ」
「昨日は終電じゃないよ。この近くで飲んでて、車で来てたから」
「車で来てるなら飲むなよ」
「そんなのどうでも良いから、メシ」
寝ぼけた顔で頭をがりがり掻く従弟にため息をつきつつ、ベッドから出た。今しばらく幸せの余韻に浸っていたかったのに。
簡単な朝食を用意してやると、いただきますも言わずに弘樹はがつがつと食べ始めた。
「うめ……」
「もっとゆっくり食えよ」
「一人暮らしが長いとこうも料理が上手くなるもんかね? あち……」
白米とおかずで口を一杯にしながら、みそ汁をすする。
「さあな」
「そもそも、一人暮らしの男が前の晩から炊飯器をセットしとくもんなのかね?」
「知るか。人それぞれだろ。文句があるなら食うな」
「大ちゃん、俺が嫁に貰ってやろうか?」
「お前の彼女に殺されそうだから遠慮しとくよ」
嫌そうに笑うと、ケと言うように弘樹はたくあんをかじった。
「智樹、見合いしたんだって?」
「え?」
「弦三叔父さんが言ってた」
「ああ、叔父さんに押し切られて会ったとか言ってたな」
「上手く行かなかったらしいけど、相手の女性と友達になったらしいぞ。見合いでそんなことあるのか?」
「さあ。兄貴は何考えてるかわかんないトコあるからな」
お前もな。
母の弟の息子である駒沢智樹と弘樹は、俺より10以上年下だ。兄弟のいない俺は叔父さんのところに智樹が生まれた時、羨ましくてならなかった。近くに住んでいたこともあり、母にねだって何度も会いに行った。弘樹が生まれてからは尚の事、二人を弟のようにかわいがり、よく転げまわって遊んだものだ。小さな頃は二人とも本当に可愛かった。
が、俺とは違って駒沢兄弟は女の扱いが上手いらしく、中高生の頃から女をとっかえひっかえしているらしい。実家を出てから疎遠になっていたので、その辺りの話は全て弦三叔父さんから聞いた。
二人の父である克樹叔父さんは他社の社長だったが。腰の落ち着かない息子たちに業を煮やし、昨年いきなり引退を表明した。智樹は30歳にして社長。弘樹は28歳にして営業部長だ。本人たちは一応抗ったらしいが『孫の顔を見せてくれるつもりがないなら、せめて早めに悠々自適な生活を送らせろ』と克樹叔父さんに押し切られたと、智樹が俺に報告がてら愚痴を言いに来た。
変わり者の兄弟だが求心力はあるらしく、それなりに上手く会社を回しているらしい。
「何か良い事あったのか?」
「え?」
「大ちゃん、昨日も今日もにやにやしてる」
「え!」
思わず口元を抑える。
「いや……そんなことないだろ。別に……良い事なんて……」
弦三叔父さんはああ見えて口が堅い。しかし、駒沢兄弟はへろっと叔母さんたちに話を漏らしかねない。そうなったら、親切ごかしに叔母さんや克樹叔父さんから俺の母に話が行く可能性がある。今更彼女の事をとやかく言わせるつもりはないが、今引っ掻き回されたら上手く行くものも行かなくなる。
「女できた?」
「は?」
「ついに例のヒトをあきらめたとか?」
「違う」
「寝室の花、誰が活けたワケ? 昨日誰か来てたんだろ?」
寝ぼけた顔して余計なことに気が付くやつだな。
「自分でだよ。気が向いて自分で買ったんだ」
「花瓶なんか持ってたの?」
「お、お前んとこの会社の30周年記念の花瓶だよ。見たことあるだろ?」
「さあ?」
「使わないから捨てようかと思ったんだが、せっかくくれた叔父さんに悪いし、バカラだろあれ?」
「そんなの配ったの上得意だけだろ? 覚えてない」
「もったいないから使おうと思って花束買っただけだ。案外良いぞ、花のある生活」
不思議なほどするすると嘘が出てきた。
「ふーーーーん」
記念の花瓶と言うのは嘘ではない。丁度俺が社長に就任した年のことだ。疎遠にしていた親戚連中への挨拶がてら、克樹叔父さんの会社の30周年記念式典に参列した。わが社とは系列会社でも何でもないが、母方の親戚が多く関わっている。パーティで不義理を詫びて、そこで智樹や弘樹とも久しぶりに再会したのだ。それ以来時折、弘樹はここに遊びに来る。
「何でリビングじゃなくて寝室に?」
食い下がるな。
「花束を買ったのはあれで2回目でな、朝、花の匂いで目覚めるのが何とも爽やかなんだ」
「乙女か」
本当はそんな花瓶があったことも失念していたのだが、初めて花束を購入した日、何か花瓶の代わりになるものをと探していたら出てきたのだ。
「で?」
「ん?」
「花束の件は100歩譲ってそうだとして、そのにやけ顔の理由は?」
「……にやけてるか?」
「にやけてるね」
さも愉快そうに、従弟は言った。
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